心が静かになればどの方法も正しい
どの宗教が正しいのか?
どのマスターの教えが正しいのか?
○○という経典に書いていることは正しいのか?
○○という瞑想法は正しいのか?
○○という人の言うことは正しいのか?
このような問いに師匠はいつも同じ回答をしていました。
『心が静かになればどれも正しい』
『だから自分に合った方法を見つけなさい』
万人が共通する方法というのは存在しません。
なぜならものの見方、考え方は十人十色で同じ人などいないからです。
だからマスター達は弟子それぞれに合った法を説く、対機説法という方法を使ったんです。
では師匠が言う『心が静かになる』について説明します。
皆さんは怒ったり、悲しんだり、喜んだり、不満になったり、嫌悪を抱いたことがあるはずです。
しかし、誰もがこれら心の動きをコントロール出来ません。
故に心の動きのことを『心の反応』と師匠は言っていました。
心の反応とは心の騒がしさのことで、苦しみそのものだと言われます。
つまり心が静かになるとは、心の反応がなくなっていくことを言います。
何が起こっても心が反応しなければ、苦しむことは不可能です。
ここに永遠の静寂があり、歓喜があり、天国があると言われます。
では心の反応をなくすにはどうすればよいのか?
心の反応は記憶に依存します。
では記憶を変えればよいとなりますが、過去を変えることは出来ません。
記憶は個人性のもので、記憶になりきっている限り、私や自分という枠に縛られることになります。
ならば私、自分という認識を捨てればよいとなりますが、それが簡単に出来ないから多くの修行者が挫折するんです。
師匠はよく『来るものは来るに任せ、去るものは去るに任せなさい』と言っていました。
一切の心の反応を見ていなさい、気づいていなさいということです。
見られている側、気づかれている側は対象(客体)です。
対象はどんなに頑張っても主体にはなれません。
主体は常に気づいている側である、あなたです。
つまり見ている、気づいていることは、心の反応を客体とみなす体験をさせる方法なんです。
別の言い方をすると、自分は記憶ではない、心の反応ではないという体験をさせる方法でもあります。
人は体験的に学ぶことによって自身を納得させることが出来ます。
「見ている」「気づいている」を続けていると、心の反応が以前より弱くなっていることに気づくでしょう。
それを実感すればするほど心の反応は弱くなっていくはずです。
実感という体験が大事なんです。
体験こそが財産と言われるのはそのためです。
以下は師匠の教えと日月神示の一文です。
【師匠の教え】
思い出したくないことに意識向けると苦しかったり、悲しかったりして考えるのをやめた過去の体験や、考えたくなくて避けていたことが悲しみや苦しみを伴って走馬灯のように出てくるから、その思いを解決しようとせずに出てくるに任せて去るに任せているんだよ。
人は思い出したくないこと、考えたくないことに、さもなかったことのように意識を向けないでいることで封印しているから何も本当に喜べないんだ。
考えたくも思い出したくないことに意識向けてごらん。
出てくるものは何かはどうでもいいんだ。
目を背けてきたことに目を向けることが大事なんだ。
出てくるものは出るに任せて、去るものは去るに任せていればいいんだ。
日月神示
【黄金の巻 16帖】
欲捨てるとわかって来るぞ。
まことの欲深になれよ。
イロハの勉強とは、日々の生活を神示に合わすことぞ。
この中から神示通りのカタ出せよ。
出さねばならんぞ。
わかった人ほど、口静かになるぞ。
天狗が出て来て三日天下、それも御役、御役御苦労ぢゃなあ。
良けりゃ立ち寄り、悪くなれば立ち去るような人民、早う退いて見物して御座れよ。
いつも日和見していると気の毒出来るぞ。
神に使われるのは一通りや二通りの苦労では出来ん。
宗教によるもののみ天国に行くと考えるもの、自分の教会のみ天国に通ずるというもの、皆悪の眷属ばかり。
迷うなよ。
迷うは欲からぢゃ。
体験と理解のみ財産ぞ。
神示肚に入ったら、それでもうよいぞ。
去りて花咲かせ。
肚に入るまでは去ってはならん。
確(し)かと心得よ。
