7通目|名前のないまま終わったひとへ
顔を思い出せない。
服も、すぐに脱いだから印象にない。
声も、話し方も、思い出せるほど言葉を交わしていない。
確かなのは、一日で8回という数字だけ。
38.0℃|火照り ― 身体だけが覚えた温度
名前も知らないあなたへ。
私とバイト先の先輩は、偶然、下の名前が同じだった。
たったそれだけで親近感を持ち、カラオケへ行ったり、恋の相談をしたりするようになった。
初めて、頼れる年上の女友達ができた気がしていた。
少し親しくなった頃、彼女はあなたを私の部屋へ連れてきた。
私よりは年上に見えた。
でも、ずいぶん離れているようにも見えなかった。
彼女の友達だったのか。
ただの知り合いだったのか。
なぜ私の部屋へ連れてきたのか。
説明はなかった。
私は、聞かなかった。
━━ 名前より先に
名乗ることも、挨拶を交わすこともなかった。
最初から、そういう目的だとは思っていなかった。
いきなり抱きしめられて、そこで初めて気づいた。
ああ、そういうことなのか。
驚いた。
でも、止めなかった。
あなたに合わせるように服を脱ぎ、そのまま身体を重ねた。
キスは一度もしなかった。
あなたもしようとしなかったし、私も求めなかった。
恋人のようなふりさえ、必要とされていなかった。
なぜ断らなかったのかは、今もよく分からない。
したかったから、とは言い切れない。
嫌だったから、と言い切ることもできない。
考えているうちに、もう始まっていた。
私は昔から、相手が進めたことを途中で止めるのが苦手だった。
名前を交わすより先に、身体だけが始まった。
━━ カーテンの向こうの昼
外は明るかったのに、カーテンは閉めたままだった。
薄暗い室内で、朝から晩まで過ごした。
あなたは煙草を吸った。
煙草と汗と、身体を重ねたあとの匂いが混ざり、空気は重く湿っていった。
じめじめしていて、そのうちキノコでも生えるんじゃないかと思った。
少し休む。
煙草を吸う。
また始まる。
それを、何度も繰り返した。
裸で触れ合っているはずなのに、そこには不思議なくらい熱がなかった。
気持ちよさも、痛みも、どこか遠かった。
何も感じなかったわけではない。
ただ、自分がそこにいる感じが薄かった。
火照ることはなかったのに、あとになって身体のどこかに残った。
カーテンの向こうでは、朝が昼になり、昼が夜へ近づいていた。
私の部屋だけが、時間から切り離されていた。
━━ 言葉のいらない作業
会話らしい会話は、ほとんどなかった。
仕事も、住んでいる場所も、先輩との関係も聞かなかった。
あなたも、私について何も尋ねなかった。
名前さえ知らない相手と、何度も身体を重ねていた。
それなのに、怖いとも悲しいとも思わなかった。
嫌だと叫びたくなるほどの感情すら、湧いてこなかった。
触れ合いというより、作業に近かった。
言葉がなければ、考えなくて済む。
考えなければ、自分が何をしているのかを見なくて済む。
私はあなたを求めていたのではなく、何も考えなくていい時間の中にいただけなのかもしれない。
部屋には、ふたりいた。
それでも私は、ずっとひとりだった。
━━ 数えられていたこと
何度目かが終わったあと、あなたは少し間を置いた。
ようやく口を開いたと思ったら、出てきたのは回数だった。
「8回目…」
しっかり数えていたことに、少し引いた。
あなたは、その数字を確かめるように口にして、ふっと笑った。
うれしそうでも、楽しそうでもなかった。
私は、何も返さなかった。
名前も知らない。
何を考えているのかも知らない。
なのに、回数だけは共有していた。
あの日のあなたは、顔より先に数字になった。
そして今も、そのままだ。
━━ 送迎つきの一日
帰るときも、なぜか先輩が迎えに来た。
連れてきて、終わる頃には迎えに来た。
送迎つきの紹介だった。
そこまでが、最初から決まっていたように見えた。
あなたに頼まれたのか。
何か見返りがあったのか。
本当のことは、今も知らない。
利用されたと断言できる証拠もない。
でも、大切に扱うための紹介ではなかったと思う。
私なら断らない。
あとから面倒なことも言わない。
そう思われていたのかもしれない。
まあ、都合がよかったんだろうね。
彼女にも。
あなたにも。
私は、深く疑わなかった。
彼女とは、気づけば連絡を取らなくなった。
責めてもいない。
理由も、何も聞かなかった。
名前のない男と、友達になれたと思っていた女。
あの日を境に、どちらも私の前から消えた。
私はいつから、断らないひとだと思われていたのだろう。
━━ 終わったあとに残ったもの
すっかり外は暗くなっていた。
あなたが帰ったあとも、部屋の空気は重かった。
煙草と汗の匂いは、窓を開けてもすぐには消えなかった。
泣きたいわけではなかった。
怒るほどの熱もなかった。
ただ、すぐには動けなかった。
なんだったんだろう。
一日を一緒に過ごしたはずなのに、あなたについて話せることが何もない。
名前も、仕事も、好きなものも知らない。
渡したものも、持ち帰られたものも、よく分からない。
8回という数字と、部屋に残った匂い。
湿気だけが、やけに現実だった。
━━ 私の38.0℃
名前も知らないあなたへ。
あなたに何をされたのか、という書き方だけで終わらせたくはない。
私は、はっきり拒まなかった。
でも、自分で選んだという感覚もなかった。
相手に合わせていれば、その場は勝手に進んでいく。
私は、途中で降りる方法を知らなかった。
私には、終わったあとだけが残った。
顔も、声も、名前も思い出せない。
それでも、あの部屋の薄暗さと、8という数字だけは消えなかった。
始まりさえなかったのに、失うものだけはあった。
それが、私の38.0℃だった。
