【R18】『夜の果ての庭』(前編)
第1章:硝子の雨とインクの匂い
パリの冬は、鉛色の空が低い。セーヌ川から流れ込む湿った風が、サン・ジェルマン・デ・プレの石畳を濡らし、骨董品街のショーウィンドウを曇らせていた。
商社の語学研修生としてこの街に来て三ヶ月。僕はまだ、フランス語の早口なリズムにも、この街特有の排他的な美しさにも馴染めずにいた。そんな中、路地裏にひっそりと佇む小さなカフェだけは、いつも僕を暖かく迎えてくれた。その名も『Livres et Café(本と珈琲)』という、古本を売っているカフェだ。
冷たい雨が霙(みぞれ)に変わり降り始めた。僕が扉を開けると、古い紙の乾いた匂いと、焙煎されたコーヒーの香ばしい薫りが鼻孔をくすぐる。
こぢんまりとした1階の店内には、先客のカップルが一組いるだけだったが、僕と入れ替わりに立ち去っていった。
「いらっしゃいませ(Bonjour)」
その声は、雨音よりも低く、しかしチェロの音色のように僕の鼓膜を震わせた。
入り口の正面にある小さなカウンターの中にいたのは、いつもの彼女だった。
黒いタートルネックが、彼女の抜けるような白い肌と、シャープな顎のラインを浮き立たせている。豊かな黒髪は無造作に肩に落ち、その隙間から覗く瞳は深い湖のように静かで、そしてどこか挑発的だった。
僕は拙いフランス語で、カフェ・クレームを注文する。
「承知しました(Très bien)」
彼女はわずかに口角を上げ短く答えた。その仕草だけで、僕の喉は渇きを覚えた。
窓際の席で、フランス語の文法書に視線を落とす。が、文字は頭に入ってこない。意識は完全にカウンターの彼女に向けられていた。エスプレッソマシンが蒸気を上げる音、カップとソーサーが触れ合う硬質な音。
やがて、彼女がトレイを持って近づいてくる。
テーブルにカップを置く瞬間、真っ白なミルクの泡が微かに揺れ、ふわりと甘い香りが漂った。コーヒーの香りではない。彼女自身が纏う、ムスクと雨の匂いだ。

「学生さん?」
不意に日本語で話しかけられ、僕は顔を上げた。彼女は悪戯っぽく微笑んでいる。いつも遠くから盗み見ていた、あの薄いブルーの瞳が、至近距離で僕を射抜いた。
「え? まあ今は… 。日本語、話せるんですか?」
「母が日本人なの」
「あ、なるほど…」
「いつも、熱心に本を読んでるわね」
「フランス語の研修中なんです。企業派遣の」
「あら、そうなのね…」
彼女は微笑みながら喉を鳴らすと、そこからふわりと、流れるようなフランス語へと切り替えた。
「初めてお話するわね」
「はい。いつも、貴女は忙しいから…」
「今日はヒマよ。ねえ、ここ、退屈でしょう?」
彼女は長い睫毛を伏せ、僕の手元にある文法書を指先でなぞった。
「いや。退屈じゃない。貴女(Vous)がいるなら」
僕の口から、予期せぬ言葉がこぼれ落ちた。単語を並べただけだが、研修で覚えた定型文ではない、本能の言葉。
彼女の瞳が一瞬大きく見開かれ、そしてすぐに妖艶な光を宿して細められる。
「"On se tutoie ?" (「君」で呼び合わない?)。私の名前は、クロエよ」
彼女は僕の耳元に唇を寄せ、吐息のような声で囁いた。甘い香りが僕を包んだ。
「クロエ… 僕は宗一郎。松浪宗一郎。…はじめまして。こんばんは」
「ふふ… パリにようこそ。ソウイチロー…」

第2章:アンカット・ページ
店には僕たち以外には誰もいない。古時計が午後七時を告げる重い音を響かせた。
「ちょっと手伝ってほしいことがあるの」
クロエは悪戯っぽく微笑むと、カウンターの奥から一本の象牙色のペーパーナイフを取り出し、顎で階段の先を指した。
「二階の書庫へ行きましょう。ここより落ち着いてお話できるわ…」
クロエはウインクして立ち上がると、入り口のドアへと歩み寄った。
ガラス戸に掛かった札を『OUVERT(開店)』から『FERMÉ(閉店)』へと裏返す。そして、内側の真鍮のつまみをカチリと回した。
その金属音は、世界と僕たちを完全に分断する合図のように響いた。
僕は言われるまま、彼女の後に続いて軋む螺旋階段を上っていった。
二階へ上がると、そこには一階以上の濃密な静寂と、壁一面の古書が僕たちを待ち受けていた。
彼女は棚から一冊の飴色の古書を抜き出す。
「この本、どういう状態か分かる?」
彼女は長い指で、本の小口(ページの断面)を撫でた。
「?」
僕は目を凝らす。ページの上端と小口が不揃いで、数ページごとに袋状に閉じたままになっている。
「…製本されたまま? 」
「正解(C'est exact)。アンカット本よ。かつてのフランスの本は、読者が自分でペーパーナイフを入れて、ページを切り開きながら読むものだったの」
言いながらクロエは壁際の小さなデスクの上に本を置き、手にしたペーパーナイフをデスクの上で滑らせて僕の前に差し出した。
「君に、最初の読者になる権利をあげる。そこに座って」
僕は言われるまま、デスクの前の小さな木の椅子に座った。
それは、テストだった。
僕はナイフを手に取る。掌に汗が滲むのを感じた。古びた紙の隙間にナイフの刃先を慎重に滑り込ませる。
「もっと優しく」
クロエの声が、雨音に混じって低く響く。
「力を入れすぎると、紙が悲鳴をあげるわ。……女性を扱う時のように、慎重に、でも大胆に…」
その言葉に、僕の手が止まる。顔を上げると、彼女は頬杖をつき、面白がるような、それでいて獲物を品定めするような瞳で僕を見ていた。
「フランス語には、二つの『知る』があるのは習った?」
「…Savoir(サヴォワール)と、Connaître(コネートル)」
「そう! Savoirは知識として知っていること。Connaîtreは……」
彼女は身を乗り出し、テーブル越しに僕の手首を、冷たい指先でそっと包み込んだ。
「経験として、深く『知っている』こと。人や、場所や、食べ物の味を……」
心臓が早鐘を打つ。彼女は指先から、僕の動揺を確実にとらえているはずだ。
「君のフランス語は、まだ『Savoir』の領域ね。教科書の言葉。……私が教えてあげましょうか? 肌で感じる『Connaître』の世界を…」
彼女は僕の手首を包み込んだまま、ペーパーナイフを再び紙の束へと導いた。
二人分の力で、ナイフが動く。
シュッ、シュッ。
小気味良い音を立てて、ページが切り開かれていく。それはまるで、秘められた衣服を切り裂いているかのような、背徳的な錯覚を僕に抱かせた。
「開いたわね」
クロエが囁く。切り開かれたページには、豪奢な庭園で、目隠しをされた青年が妖しい美女に果実を口移しされている、精緻で退廃的な挿絵が現れた。

「……これは?」
「『夜の果ての庭』。……地図と書物だけで世界を知った気になっていた青年が、魔女の庭に迷い込み、本当の『夜の味』を教えられるお話よ」
彼女は挿絵の青年を指先でなぞり、ふっと自嘲するような、それでいて艶やかな微笑を浮かべた。
「実はこれ、古書ではなくて、私の父が遺した未発表の原稿を、古書風に自家製本にしたものなの」
「君のお父さんが……?」
冷たかった彼女の指先が熱を帯び、僕の手首をゆっくりと滑り上がる。
「私がなぜ、この『アンカット本』を一緒に切り開きたかったか、分かる?」
彼女の湖のような瞳が、真っ直ぐに僕を射抜く。言葉では説明できない、もっと根源的な渇望がその奥で揺れていた。
「いつも窓際で、お行儀よく本ばかり読んでいる日本人に……この手付かずの庭(ページ)を開く度胸があるかどうか、試させてもらったの」
僕の視線はもう、挿絵にはない。 目の前にある、アンニュイな美しさを宿した唇と、黒衣に包まれた白磁のような彼女の首筋に釘付けになっていた。
「さて、続きを読みましょうか? …それとも、もう本は閉じる?」
第3章:閉ざされた扉と、唇のレッスン
その甘い挑発に、僕は言葉で答える代わりに、握っていたペーパーナイフを静かにデスクの上へと置いた。そして、切り開いたばかりの古書をそっと閉じ、彼女の瞳を真っ直ぐに見つめ返す。
「…そう。なら、ここからは特別授業の時間ね」
彼女は僕の座っている椅子のアームに腰掛けた。柔らかな腰が僕の肩に触れた。彼女の体温と、あの雨とムスクの香りが直接、僕の嗅覚を刺激する。
「君のフランス語は、音が硬すぎるの。特に、『R』の発音が」
クロエの冷たい指先が、僕の喉仏に触れた。びくりと体を強張らせる僕を無視して、彼女は指をゆっくりと上下に這わせる。
「フランス語の『R』は、喉の奥を震わせるの。猫が喉を鳴らすように。……もっとリラックスして」「…うまくできないんだ…」
「口先だけで話そうとするからよ。もっと奥、体の深いところを使って」
彼女は顔を近づけた。吐息が触れる距離。彼女の濡れたような瞳が、僕の唇をじっと見つめている。

「私の唇を見て」
彼女は自身の赤い唇を、ゆっくりと動かしてみせた。
「『lèvre(唇)』……『langue(舌)』……『souffle(吐息)』……」
単語を紡ぐたび、彼女の唇は官能的な形に歪み、舌先がわずかに覗く。それは発音の模範演技でありながら、これ以上ない誘惑だった。
「真似してみて」
僕が躊躇いながら口を開こうとすると、彼女の人差し指が僕の唇を制した。
「ノン、ノン。まだ力が入っているわ」
彼女は指で僕の下唇をなぞり、軽く押し開くように揉み解していく。指の腹の感触に、思考が溶け出してしまいそうだ。
抵抗できない僕を見透かすように、彼女はふっと小さく笑い、囁いた。
「言葉で説明しても、分からないわよね。…なら、直接教えてあげる」
彼女の顔が降りてきた。逃げ場はない。彼女の唇が、僕の唇に重なる。
それはキスというよりも、文字通り「味わう」ような接触だった。
柔らかく、湿り気を帯びた感触が、僕の唇の形を確かめるように押し付けられる。
驚いて息を呑むと、その隙間に彼女の舌が滑り込んできた。
「ん……」
喉の奥で、くぐもった声が漏れる。これが『R』の振動だと言わんばかりに、彼女は深く、執拗に僕の口内を蹂躙した。
知的な指導者の仮面を被ったまま、彼女は僕の理性を剥ぎ取っていく。
長い時間の後、唇が離れた。銀色の糸が、薄暗い店内で一瞬だけ光って切れる。
クロエは満足げに目を細め、上気した僕の顔を覗き込んだ。
「少しは、『Connaître(体験)』できたかしら?」
第4章:屋根裏の秘密、黒の抜け殻
「…続きは、ここじゃできないわ」
クロエは乱れた息を整えながら、悪戯っぽく囁いた。彼女の唇は、口紅が少し滲んで、先ほどまでの冷徹な美しさよりも遥かに生々しい色を帯びていた。
彼女は素早く二階の照明を落とすと、暗い螺旋階段を軽やかに下り、一階のクロークから厚手のウールのコートを羽織る。
僕たちは夜のパリへと踏み出した。霙(みぞれ)は冷たい雨に戻っていた。黒く濡れた石畳に街灯のオレンジ色が映えている。
「パリはね、雨の夜が一番美しいの」
「うん、映画みたいだ」
「さぁ、こっちよ」
彼女は僕の腕に自分の腕を絡ませた。傘は差さない。濡れることさえ楽しんでいるかのように、彼女は足早に路地裏を進んでいく。 冷え切った外気の中で、腕から伝わってくる彼女の体温だけが、ひどく熱く感じられた。
彼女のアパルトマンは、店から歩いて数分の、古い石造りの建物の最上階にあった。
エレベーターはない。すり減った木製の地味な階段を彼女の後について上っていく。
「…毎日ここを上り下り?」
四階を過ぎたあたりで、息を切らしながら僕が尋ねると、彼女は肩越しに振り返った。
「不便でしょう? でも、家賃が安いのと……招かれざる客を諦めさせるには、最高の『防壁』なの」
彼女は悪戯っぽく笑い、再びヒール音を響かせて軽やかに段を上っていく。
僕の前を歩く彼女の背中は、厚手のウールのコートにすっぽりと覆われている。だが、下から見上げる僕の視界には、コートの裾から伸びる、黒いタイツに包まれた引き締まったふくらはぎと華奢な足首が飛び込んできた。
一段上るたびにコートの裾が揺れ、その奥に隠されたなめらかな脚の動きが露わになる。厚い布越しにも、丸みのある腰が蠱惑的なリズムを刻んでいるのがはっきりと分かった。規則正しいヒールの靴音と、その艶めかしい腰の揺れは、まるで僕の理性を少しずつ削り取るメトロノームのようだった。
六階まで辿り着く頃には、僕の心臓の鼓動は早まっていた。運動のせいだけではない。これから起こることへの期待と緊張が、血管の中で暴れているのだ。
「私の城へようこそ」
重い木の扉が開かれる。
そこはいわゆる『シャンブル・ド・ボッヌ(女中部屋)』を改装した屋根裏部屋だった。
天井は斜めに切り取られ、天窓(ヴ・リュックス)からは雨の夜空が切り取られて見える。ガラスの上を生き物のように雨粒がゆっくりと流れていた。
部屋には、本が一冊もなかった。店での彼女を思えばひどく意外だったが、無駄な装飾の一切ないその殺風景な空間は、不思議と彼女の冷たい輪郭に合致していた。インクの匂いはとうに消え、微かなラベンダーの香りだけが漂っている。
クロエはコートを脱ぎ捨て、椅子に放った。再び、あの黒いタートルネック姿になる。薄暗い部屋の中で、その黒は夜闇と一体化し、彼女の白い顔と手だけが浮遊しているように見えた。

「さて、さっきの『続き』を始めましょうか?」
クロエは僕の両肩に手を置き、耳元に唇を寄せた。
「"Répète après moi. ……D'accord ?レペート・アプレ・モワ……ダコール?(リピート・アフター・ミー。……いい?)」
彼女の湿った声と香りに僕の中心部はもう硬く反応していた。
「『Je te veux(ジュ・トゥ・ヴ)』」
吐息が耳の穴を直接くすぐる。背筋にゾクゾクとした電流が走る。
「……Je te veux」
「意味は?」
「……君が、欲しい」
「正解(C'est bien)」
彼女はご褒美のように、僕の耳たぶを甘噛みした。
「次は、もっと感情を込めて。……『Fais-moi tienne(フェ・モワ・ティエンヌ)』」
言いながら、彼女はベッドの端に座って僕を見上げた。
「……Fais-moi tienne」
「意味は分かる?」
彼女の手が、シャツの上から僕の胸板を這い、腹筋をなぞり、その下へとゆっくり伸びていく。
「『私を、貴方のものにして』……よ」
彼女は僕のベルトに手を掛け、カチャリと金具を外した。彼女の指先が、僕の最も敏感な場所に触れた。僕は思わず息を呑み、言葉に詰まる。 彼女は意地悪く指を動かした。
僕の反応が大きくなるのを掌で感じ取り、クロエは満足げに喉を鳴らす。
「優秀な生徒君ね。体が素直に反応しているわ」
彼女は僕のシャツの前をはだけさせ、腹筋に舌を這わせた。
「…ねぇ、私も脱がせて」
僕は彼女のタートルネックの裾に手を掛けた。黒いニット素材が、白い肌を滑りながら持ち上がっていく。赤いレースのブラジャーが現れた。
背骨のライン、肩甲骨のくぼみ。現れる肌は、外の寒さを忘れさせるほど熱を帯びていた。
きつい襟元が頭を通り抜ける瞬間、彼女の豊かな黒髪がふわりと舞い散る。
黒い抜け殻が床に落ちると、そこには、あまりにも無防備で、彫像のような彼女の上半身が現れた。
「クロエ…、とても美しい…」
「ふふ、この赤い布も取ってくださる?」
彼女は豊かな胸を僕の前にさらけ出した。 僕はホックを外し、その胸を赤いレースのブラジャーから解放した。

「ああ…」
先端はすでに硬く尖り、僕の愛撫を待っている。
「もっと甘く、もっと切実に囁いて。……『J'ai faim de toi(ジェ・ファン・ド・トゥワ)』」
直訳すれば「お腹が空いた」だ。
「……J'ai faim de toi(君を食べたい)」
「そう、もっと……」
僕は耐えきれず、彼女の首筋に腕を回し、引き寄せた。 しかし、彼女は口づけを寸前で焦らし、僕の唇の上で囁き続けた。
「『Remplis-moi(ランプリ・モワ)』」
その意味を理解した瞬間、理性のタガが再び外れそうになった。 私を満たして。
「『Maintenant(マントナン)』……今すぐ」
その瞳は、書店にいた時の知的な光に加え、雌(めす)の情熱を宿して潤んでいた。
「さあ、研修生(スタジエール)君」
第5章:理性の決壊、あるいは獣たちの夜
僕の中で何かが弾けた。
僕は彼女の白い肩を掴み、乱暴に引き寄せた。
「クロエ……!」
彼女もまた、僕に呼応するように喉の奥で獣めいた唸り声を上げた。彼女の細い腕が僕の首に巻きつき、爪がうなじに食い込む。
僕たちはもつれ合うようにして、狭いベッドへと倒れ込んだ。
スプリングの音が軋む。

僕は彼女に残されたわずかな下着を剥ぎ取った。彼女も僕のシャツを掴み、ボタンを引きちぎるように前を開いた。
そこにはもう、書店で涼しい顔をしていた「先生」はいなかった。
目の前にいるのは、欲望に火がついた一人の女だった。
肌と肌が激しくぶつかり合う。彼女の体は、瞬く間に灼熱の温度を持った。
僕は彼女を貪った。
首筋に噛みつき、豊かな胸を弄り、滑らかな腰を掴む。
彼女の白い肌に、僕が触れた痕跡が次々と赤い花のように咲いていく。それは、アンカット本にナイフを入れるような慎重な行為とは対極にある、荒々しい略奪だった。

「あっ、あぁっ……!Oui(ウィ)……っ」
僕たちが一つになった瞬間、クロエは背を反らし、天井の天窓を仰いで絶叫した。
そこからは、嵐だった。
理性も、言葉も、国籍も、すべてが汗と熱の中に溶けて消えた。
あるのは、互いの体温と、渇きを癒そうとする本能だけ。
彼女の長い脚が僕の腰を締め上げ、僕を更なる深みへと誘う。彼女の中は信じられないほど熱く、僕を溶かし尽くそうとしていた。
「名前を……呼んで……!」
彼女が僕の耳元で喘ぐ。
「クロエ……!」
僕は彼女の名前を呪文のように繰り返し、それと同じリズムで何度も何度も奥へ奥へストロークを繰り返した。
彼女の爪が僕の背中を引っ掻き、鋭い痛みが走る。だが、その痛みさえもが快楽の薪(まき)となり、炎を大きく燃え上がらせるだけだった。
僕たちは体勢を変え、僕は下から彼女のしなやかな腰を両手でしっかりと固定し、容赦のないリズムで熱を突き上げていく。
「ねえ……もっと、奥……Plus fort(プリュ・フォール:もっと強く)……っ」
彼女が熱い souffle(吐息)を耳元に吹きかける。
さっきまで知的な指導者のように僕を焦らしていたクロエは、もうどこにもいなかった。 彼女は僕の腹筋の上に両手を置き、ただ快楽の波に流されるままに腰を前後に揺らしている。
下から見上げる彼女の顔は、薄明かりに照らされ、苦痛と至福が入り混じった信じられないほど淫らな表情で行き着くところまで蕩けきっていた。その湖のような瞳は潤み、視線が交わるたびに、僕の理性をさらに激しく狂わせる。
「クロエ……っ!」
「あぁっ、んんっ……! Très bien(トレビアン)……そう、そのまま、私を満たして(Remplis-moi)……っ!」
絶頂は鮮烈に訪れた。 僕が彼女の最奥を強く貫くと同時に、クロエは背中を弓なりに反らせ、喉の奥で高いくぐもった悲鳴を上げた。彼女の内部が狂おしいほどに僕を締め付け、その圧倒的な収縮に抗えず、僕は彼女の奥深くへと熱い弾丸をすべて注ぎ込んだ。
彼女もまた、僕の体を強く抱きしめ、痙攣しながら果てた。

長い痙攣の後、彼女は僕の胸元へと力なく崩れ落ちてきた。 汗ばんだ僕の胸に頬をすり寄せながら、彼女は満ち足りた猫のように目を細めた。
「……Tu es délicieux, mon amour(……極上の味ね、私の愛しい人)」
彼女の黒髪が枕に広がり、長い睫毛が安らかに閉じられている。あの挑発的な眼差しも、獣のような激しさも今は鳴りを潜め、そこにはただ、無防備な一人の少女のような寝顔があった。
僕はそっと指を伸ばし、彼女の頬に掛かった髪を払った。
僕は枕に頭を沈め、天窓の向こうの夜空を見上げた。
僕のパリでの本当の生活は、今、このページから始まったのだ。
(つづく)
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