ボルダリングを日課にする贅沢
徳島の生活で使っている家のそばにはボルダーがたくさん転がっています。一番近い岩は徒歩3分ぐらいでしょうか。正確に時間を測ったわけではないのであくまで感覚ですが、その岩をはじまりに、そこから数キロにわたって手頃なボルダーがゴロゴロしている。

徒歩圏内でも50個程度のボルダーがあります。そして幸運なことに私はそれらのボルダーのトポを持っていません。近畿地方のボルダラーの皆さんが開拓をしたという話は後から知りました。しかし、それ以上の詳しい情報は持っていないのです。
ボルダーは河原に点在しているので、河原を歩きながらその日その日で好きな岩を登ります。ボルダリングに費やす時間は1時間から多くても2時間。デスクワークやミーティング終わりに行ったり、時間はランダムですが気軽さは朝のラジオ体操ぐらい日常的なものです。

長野県の家からもボルダーは近くて選択肢も広いですが、歩いて行ける距離にはありません。なので徳島では、車を使わずに遊べるという部分が、まずはなんとも贅沢だなと思うわけです。
基本的には雨が降らない限りいつでもボルダリングには行けます。雨が降るような天気の時は、サーフィンという選択肢もあるので、雨が降ったからといって登れないことがフラストレーションになることもない。波が上がりすぎてクローズになっても、その日は溜まった仕事を片付ける日にすれば良い。

テクノロジーの進化によって私の実働の時間は年々少なくなっています。だから毎日のように仕事をする必要もない。
元々、資本主義的裕福さや、資産の保有という状態に殆ど興味が無いので、なおさら時間が出来る。それを使って地元の人々に私の好きな遊びであるクライミングを紹介したり、少し前にはスラックラインなんかもやってみました。

ボルダリングは、そんな生活の中にある朝のラジオ体操に近いのです。そして最近になって気が付いたのは、無意識のうちにムーブが丁寧になることです。
いつでも遊べる。歩いて行ける。トポが無い。この3つの状態が揃うと「課題」という概念は消えます。「グレード」に関しては、もはや夢幻の類です。
すると「完登」という概念も消える。最後に残るのは、岩の形に対して、私という人体をいかに巧妙にフィットさせるか?という、単純な遊びに着地します。

ここまで来ると、もはや「ボルダリング」「クライミング」というカテゴリーも消滅します。ただの運動、体操の地続きの活動でしかない。それは、社会的なコンテクストが存在しない状態だからこそ可能になったことです。
課題をつけてグレードをつけて、他者の登攀をイメージする。これは自然を通した人間界の活動です。それが、情報の排除によって、自然と自分の純度100%の対話が生まれる。
こうした自然と自分の対話という世界で遊んでいると、まだまだ丁寧に動ける余地が自分にはあることに気付かされます。
そんな体と岩を通して対話する時間は、私にとって、あらゆる「贅沢」というコンテクストを飛び越えて、とてつもなく贅沢な時間なのです。

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