見出し画像

ジェネリック沙羅双樹の下で

 昼である。
 そのうち体から、草が生えてくるのかと思うような、気怠い暑さである。
 ずいぶんと呑気な様相を、呈しているように思える。人がおのおの、慎ましく、牧歌的に、それぞれのパーソナルスペースを確保しながら、歩いたり、しゃべったりしている。

 何をしたいのか何をするべきか。分からないままにふらふら、ここまでやって来たきらいがある。
 そしてそれはいずれ、魂の滅失に至るような債務的情緒となり果て、いつの日か、追い込まれるような気もしている。今ここで、麺なぞつるつる啜っとる場合か?と思うことがある。
 ように思えるのは紛れもなく、酷い自己意識のあらわれにすぎないのだが、それにしたってねえ。正気でいることのできなさ、ということを考えている。

 自分には、記すときの癖として、支離滅裂な方へ、志向するきらいがある。志向とは体裁を繕った言い方で、ただ、理路整然と、記せないだけなのであるが。
 ともかくだ。せめて、この時間、ここで、せめて呑気に、じいさんのように、もうすぐ死ぬんじゃねえかってくらい気楽に、サナトリウムみたいに、ぐでんとしていたいわけです。
 真面目なことを記そうと思って、結局何を言いたいのか分からなくなった草地に軟着陸して、なんやかんやがそうこうして、それが許されている、錯覚だっていいのだ、そういう草地で、大の字で寝ていたい。

 お釈迦さまの死因は、弟子の供養の料理にあたってしまったものだと言われている。
 一応、お釈迦さまとその弟子との間で、納得というか、最後の施食として、大いなる果報と功徳があるのだと、一応の解釈を共有されてはいる。
 が、本当のところ、その弟子の胸中は、どうだったのか。思い巡らしてみることがある。
 自分だったら、その解釈を真には受け入れられずに、結局死ぬまで引き摺る気がする。

 そこまでのアレではないにしても、微々たるレベルの、小間切れを寄せ集めにしたような後ろめたさを、引き摺っていることはあるだろう。そしてそれを、「後ろめたく」感じるのは、善悪・快不快の価値基準を、自分自身にしか置いていないからだと言われれば、そうなのである。
 そんなことを、ぐでんと考えている。「考えている」というのはおこがましい言い方で、その実、「いじけている」とか、「拗ねている」とかの方が正しいくらいである。
 すっかりいじけて麺を啜っている。

吉増剛造の詩「野良犬」の、

やせこけ、ひん曲がった、おれたちの音符
やせこけ、ひん曲がった、おれたちの音符

吉増剛造『ハルキ文庫 吉増剛造詩集』(1999年、角川春樹事務所)p.13より

というリフレインの調子のように、というのではないが、自分の背筋は確かにひん曲がっている。心持ちもひん曲がっている。
 この詩では最終的に、この音符たちに電流を走らせていくが、今の自分の場合は、上記のリフレインが、いちいち語尾に三点リーダーが付いて、いつまでも続いていく体たらくだ。
 しかしもう、そうでいたいと思っている。その調子のまま過ごした人が、どのような結末を迎えるのか、其処此処で見聞きしたような気がするが、それは敢えて無視して。無視し切れる器量を持って。「強いて言えば椎葉村」のような体たらくを保っていたい。

クサボケ。


 宮沢賢治が詩集『春と修羅』の「序」で記しているところの、

風景やみんなといつしよに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち その電燈は失はれ)

宮沢賢治『ハルキ文庫 宮沢賢治詩集』(1998年、角川春樹事務所)p.13より

という、そういうなりをしたアラベスクに、自分たちは、いつまで経っても縛り付けられており、無限の相互・交互関係により発せられる、眩いばかりの光を、自分たちは、瞬き一つ許されずに受けているのだと、そう言えるように思える。
 ベンチでなんとなしに馬を見ていたら、子どもと若い母親の、2、3のグループがやってきて、馬にニンジンを食べさせる体験を始めようとしているところに鉢合わせた。
 これはともすれば、自分は今異端者で、彼女らにとって、不審な因子となっているのではないかと、そこまで含めた今この自分を取り巻く関係という照明が、やたらに眩いように思える。
 照明、いちいち眩しすぎるのではありませんか。「青い照明」って、もしかしなくてもPCのブルーライトのこととかですか。胃に優しい消化物があるように、もっと目に優しい照明では、いかんかったのですか。

 雨降って地固まる。雨降ったが地固まりませんでした。先生見てください、ぬかるんでおります。
 昼である。腹八分目でおさめるはずだったが、すっかり満腹になってしまい、苦しさを覚えながら歩いてる。
 そのうちどこかには辿り着くのだろうとは思う。だがどこに辿り着くのかまではわからない。 
 悪いことに、その道中で、矢面に立つ、という局面に、幾度も当たる。それはいつだって、非常な困難を伴う。
 ゆえに、ゆえにだ。
 水っ気が抜け切っていない赤土を、靴の、そのまっさらなアウトソールで踏みつけてゆき、その踏みつけた感触を、確と、確かめてゆく、そのような泰然さが、必要なのではないかと思う。

 お釈迦さまがそんなことおっしゃっていた気もするよ。
 すっかりベンチに座り込んでいる。そばには木があり、ベンチはちょうど、その木陰で覆われている。
 周囲にはまばらだが、人が歩いたりなんなりしている。そのそれぞれが、それぞれの、貪瞋痴の三毒と、プラスアルファの苦を持ち合わせており、それらに振り回されながら多分、ここにいる。
 そして自分もそれらを持ち合わせており、その三毒で散々、お手玉してきたわけだが、その三毒は、なんや、やけにまんまるい形をしている。はたからみれば少し、可愛げがあるようにも見える。

 こう発想することはまた、毒かもしれないが。
 知っているあなた。知らないあなた。まだ大丈夫ですか。やっていけてますか。
 げぼはくくらいなら、代わりに毒の一つや二つ、吐いたっていいんだぞ。

たぶん。


(於:ぎふ清流里山公園)