なんのはなしですか。【長編小説】8
同日、宮下と路地裏に来ていた榎本は、その通りを捜索することにした。まだ路地裏の事を充分に把握できているわけではない。確かに中毒者が多いのは『魑魅魍魎』というあの酒場周辺である。しかし、だからと言って原因がそこにあるとは限らない。榎本は手がかりを探すように路地裏をぶらついた。
黒猫が一匹、榎本の前を横切る。猫好きの榎本は無意識にその後を追った。少し奥まった所に進むと、お洒落な古民家風の店が一軒佇んでいた。気になり様子を窺う。
改装中だろうか。中は閑散としており、人気はない。中の丸いテーブルに女性が一人、スタバの飲み物を片手にパソコンへ向かっていた。
黒猫は店の入り口に座ると毛繕いを始めた。
「ここの子か?」榎本は黒猫へと話しかける。
猫はナァーっと鳴きながら榎本の手に体を擦り寄せた。
カランカランと小さな鐘の音と共に店の扉が開く。出てきた女性は何やらトレーを持っていた。
「こんばんわ」女性はそう言うと軽く会釈をした。
榎本は少し驚きつつも「どうも」と挨拶を返す。
「猫ちゃん好きなんですか」女性は餌の入ったトレーを置きながら訊いた。
「あ、まぁ、はい」榎本が少し固まったように答える。
「この子、よくここに来るんです」穏やかな笑顔だった。
「そうなんですね。ここは喫茶店か何かですか」榎本が訊く。
「そうですね。素敵な喫茶店にできたらいいなと思って今準備をしているところなんです」
「なるほど。でもどうしてこんな路地裏の奥まったところに…」榎本は、秘密裏に探っているにも関わらず、つい取り調べの癖から核心を突くような質問をしそうになり慌てて語尾を濁した。
女性は少し遠くを見るように話し始めた。
「みんな誰かに話を聞いて欲しいんです。意味のないことでも話したくなるです。口には出さなくても心のどこかでそう思ってる。路地裏にはそんな繋がりを求めた人達が迷って来ます。私もその内の一人なんですけどね」
榎本は猫を撫でながら女性の話を静かに聞いた。女性の話から何か見つけられそうな気がした。
「ここはどんな話でも受け入れてくれるそんな場所ですから」女性は穏やかに話を進める。「あなたも路地裏で何か探されているんですよね。お話くらいなら私、聞きますよ」
榎本はドキリと困惑した。こちらが探っているのが勘づかれたのか。いや、この女性は純粋で素直なだけだ。榎本は頭の中で考えを巡らせた。なんとか誤魔化すしかない。
「…なんの、はなしですか」榎本がそう言うと、えっ…というように女性の目が少し見開いた気がした。
「ここに来たのは、この黒猫が気になっただけで…」これが榎本にできる精一杯の返事だった。
「そうでしたか。早とちりしてしまいましたね。すみません」女性は少し恥ずかしそうに目をギュっと瞑って謝った。
「いえ、こちらこそ」榎本が少し頭を下げる。
女性は猫が食べ終えたトレーを持つと、開店したらまたぜひ来てくださいと笑顔で店の中へと戻っていった。
榎本は安堵した。駄菓子菓子、少し胸を撫で下ろしたのも束の間、ハッとなり榎本は頭を抱えた。
「しまった。女性の名前を聞きそびれた…」
榎本は立ち上がり店内を一瞬チラリと覗くと、やってしまったっと言わんばかりに目を瞑って一文字に口を結んだ。そんな榎本の足下へナァーと擦り寄る猫に視線を戻す。
「仕方ない、またな」榎本は黒猫へ声をかけるとその場を後にした。
次へ続く
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