241029 嵯峨野古歌巡拝
輪行ポタリング紀行 001
野は嵯峨野 さらなり
「野といえば嵯峨野よ、言うまでもないわ」。いつものように清少納言が上から目線で断言しています。
山城盆地の北西を守る愛宕山を奥に望み、北は長尾山や朝原山、西は小倉山、南は桂川に囲まれた2km四方ほどの平地があります。古くには渡来人の秦氏が勢力を有していたところです。そのためか、中国の地名から取った「嵯峨野」と呼ばれました。
平安京が造営される頃は、都から最も近い天皇家の狩猟場でした。桓武帝は年に平均9回、嵯峨帝は5回も来たそうです。別荘が建ちならび、優雅な貴族の文化が花と開くようになりました。そして、貴族の没落とともに幽遠な隠棲の地へと変わっていきます。
昨日、京福電鉄嵐山駅を出発して、自転車で時計と反対回りにぐるっと一周してきました。ただ回るのも芸がないので、ゆかりの人たちが遺した歌巡りをすることにしました。和歌は自然と人との交わりから生まれます。嵯峨野で詠まれた歌ばかりではありませんが、せめて昔をたずねる縁にでもなれば。

01 歌詰橋

駅を出て東進すると、すぐに細い川を渡ります。街中の溝にしか見えませんが、愛宕山の谷間に端を発する瀬戸川です。ボクが写真を撮っていると、海外から観光に来た人が何人か写真を撮りました。中には川を背景にポートレートを撮影する方までいました。いや、すいません、単なる溝なんですよ。
昔は芹川と呼ばれました。歌枕として認識されていたようです。この辺りに歌詰橋という橋が架かっていました。歌が詰まるという意味です。そんな名前になったのは西行法師(1118~1190)のせいです。
ある時、橋の上で酒壺を抱えた女とすれ違いました。西行はすぐに歌いかけす。「つぼの内にほひ来にけり梅の花 まづさけ一つ春のしるしに」。「つぼ」に「坪庭」と「酒壺」、「さけ」に「咲け」と「酒」をかけ、酒を一杯くれとせがんだわけです。
女はすぐさま「つぼの内にほひし色はうつろひて 霞は残る春のしるしに」。もう匂いしか残っていませんよと返してきました。あまりに見事な返歌に西行は次の歌に詰まってしったとさ。。。いやいや、こんなダジャレの歌、西行が詠むわけありせん。
嵯峨野に住んでいた西行にかこつけて、勝手に作られた笑い話でしょう。他にも、全国各地には変な西行の説話が残っています。激しく怒ったり、反対にボロボロ泣いたり、なんと殴られたり。多くの西行が残っているのは彼の人気の証なのだと思います。西行ほど日本人に愛されている歌人はいません。
訪め来かし梅さかりなる我が宿を うときも人は折にこそよれ
私訳 訪ねてきてね。梅が盛りの我が宿を。疎遠な時も折に触れて立ち寄るものですよ
02 鹿王院

東に向かって進みます。観光客が少なくなったところに鹿王院がありました。1379年、足利義満によって創建された天龍寺塔頭の一つです。寺号は建立の地に白鹿が現れたという瑞祥にちなんで付けられたそうです。
初代住職は春屋妙葩という夢窓疎石の高弟です。その方の歌を探しのたのですが、見つけられませんでした。それでは義満でと探しましたが、最も公家文化を学んだ将軍のお一人だと思いますが、若い時の固い歌か、年を取ってからのふざけた歌しかありませんでした。
仕方なく、後に天龍寺となる場所に離宮、亀山殿を建てた後嵯峨院(1220~1272)に御登場願います。承久の乱を起こした後鳥羽院と、建武の新政をはじめた後醍醐院の間にあって、武家と協調しながら平安の王朝文化を復興しようとした方です。
忘れずよ朝ぎよめする殿守の 袖にうつりし秋萩の花
私訳 忘れないよなぁ。朝の掃除をする召使の袖に散りかかった秋萩の花よ
この歌には本歌があります。源公忠の「殿守のとものみやつこ心あらば この春ばかり朝ぎよめすな」。散り積もった桜に春を惜しむ心情です。それに対して、院の御製は小物の袖にとまった小さな秋を「治天の君」が愛でるという趣向。ささやかな美しさにぴったりピントを合わせるカメラマンのような腕前です。
03 車折神社

さらに東に行くと、バス停の奥に車折神社がありました。嵯峨野で最も有名な神社かもしれません。というのも、広い境内に本殿以外に末社が十五もあり、そのうちの一つに、昭和期に造られた芸能神社なるお社があるからです。多くの芸能人がお参りし、芸名を書いた朱色の玉垣、1枚21,000円也が4,000枚以上奉納されています。
「くるまざき」という変わった読み方の社号については伝説があります。ある時、後嵯峨院が嵐山の大堰川に向かわれた時、小さな石の前で牛車がどうしても動かなくなりました。その場所に平安末期を代表する漢学者、清原頼業が祀られていました。院は畏敬の念からすぐさま車から降り、「車折大明神」の神号を贈ったそうです。
清原氏といえば、やはり清少納言(964?-966?)でしょう。神社には清少納言社という末社もあります。大河ドラマ『光る君へ』で演じているファーストサマーウイカさんが奉納された玉垣を見つけました。というわけで、清少納言の歌を一首。東北の陸奥へ下向する恋人、藤原実方へ贈った歌。
床も淵ふちも瀬ならぬ涙川 袖の渡りはあらじとぞ思ふ
私訳:寝床が深い淵となり、その淵も決して浅瀬になりはしない涙の川よ。渡れるところなどあるまいと思う
04 広沢の池

車折神社から真北に向かうと、正面に端麗な低山「嵯峨富士」が見えてきます。標高231メートルの朝原山です。その麓に周囲約1.3キロメートルの人工池、広沢の池が水をたたえています。
平安京の人々が花や月を楽しんだ景勝の地です。989年に宇多天皇の孫にあたる寛朝僧正が別荘を改造し、遍照寺とした時に池も開削されたそうです。遍照寺は真言宗広沢流の源流となる格式の高い寺でした。池には金色の観音菩薩を祀る人工島があり、池畔には多宝塔や釣殿など数々の伽藍を有する大寺院がありました。
幾多の変遷とともに寺は衰退し、今は川魚を養殖する池となってしまいました。往時を偲んで、明治期に有志によって埋め立てられた出島に、小さなほこらと江戸の始めに作られた、素朴な十一面千手観音石仏が安置されているだけです。ただし、そんなさびれた風景も源三位頼政(1104~1180)の歌を味わうにはよいかもしれません。
いにしへの人は汀に影たえて 月のみすめる広沢の池
私訳:遠い昔の人々はほとりにいなくなり、月だけが澄み渡る広沢の池よ
05 大覚寺



広沢の池の西にはちょっと小さい大沢の池があります。嵯峨帝はこの地に離宮(別荘)を建て、淳和帝に譲位されてからの隠居住まいとされました。仙洞嵯峨御所と呼ばれます。仙洞とは仙人が住む洞窟の意味です。寝殿造りがこれほど美しく残されている建物は他にないのでは?今回の嵯峨野行、一番の収穫でした。
嵯峨院の娘であった正子内親王は840年に夫の淳和帝が崩御された時に落飾し、嵯峨御所に移られました。ところが、2年後、今度は父院が崩御されます。さらに、その直後、承和の変が起こりました。藤原良房の策謀により、内親王の子であった恒貞親王が皇太子を廃されたのです。
それから30数年間、内親王は失意のうちに一人でお暮らしになりました。やがて人生の終わりが近づいた時、嵯峨御所を仏寺にしてほしいと上奏されます。時の清和帝は、お感じになるところがあったのか、「大覚寺」の勅額を与え、恒貞親王を寺の開祖として迎えることをお許しになりました。内親王は我が子と大覚寺に同居して3年後、71年の生涯を静かに閉じられました。
大沢の池の北には、百人一首の歌で有名な「名こその滝」の跡が今も残っています。小さな石組に細々と水が流れていました。歌の作者、藤原公任(966-1041)は内親王から100年ほど後の人です。いったいどんな「名」を聞いていたのでしょうか。
滝の音はたえて久しくなりぬれど 名こそ流れてなほ聞こえけれ
私訳:滝の水音は途絶えて長くなったが、その名声は世に流布し、なお知れ渡っているなあ
06 化野念仏寺

大覚寺からさらに西に行くと愛宕道に至ります。このあたりは愛宕山頂にある神社の、山麓にある門前町です。京都市が街道を重要伝統建造物保存地区として、茅ぶきの民家や瓦ぶきの町屋など、往時の景観を残しています。
その手前に化野があります。「あだし」は、「むなしい」とか「異なっている」などの意がある古語です。平安のころから京都の三大葬送地の一つでした。葬送といっても当時は風葬なので、遺骸を置いておくだけです。811年、弘法大師空海が捨ておかれた遺体を埋葬し、お寺を建立したそうです。
暮るる間も待つべき世かは化野の 末葉の露に嵐たつなり
私訳:秋の日が暮れる短い間も待たれることのない世の中なんですね。あのはかない化野の、梢の葉の飢えの水滴に激しい風が吹き付けるなんて
やがて化野も土葬となり、墓碑や石仏が立てられるようになりましたが、寺が荒れると散逸しました。明治後半以降に、無縁となっていた墓石塔など約八千体を掘り起こして集積し、今の念仏寺では「西院の河原」と呼んでいます。
07 祇王寺と滝口寺

街道を南下すると西の林に祇王寺と滝口寺があります。ともに『平家物語』にまつわるお寺です。
祇王と祇女の姉妹は平清盛に囲われる白拍子の姉妹でした。しかし、清盛は若い仏御前に心を移してしまい、姉妹は出家します。二人の不幸を知った仏御前は己自身の将来を悟り、二人を追って尼となりました。姉妹の母も含めて四人のお墓が祇王寺に残っています。
萌えいづるも枯るるも同じ野辺の草 いづれか秋に会はではつべき
私訳:若くても老いても同じ白拍子。どちらにしても飽きられないわけがない
滝口の武士、斎藤時頼は、神崎の遊女、横笛を愛していました。しかし、父は身分が違うときつく反対します。そこで、時頼は思いを断つため仏門に入ってしまいました。驚いた横笛は寺まで追いかけてきましたが、時頼は頑として会いません。悲しむ横笛が血で記したという歌の碑が滝口寺にあります。
山深み思ひ入りぬる芝の戸の まことの道に我を導け
私訳:あなたへの執着が深くて苦しいので、あなたが出家をした扉から続く仏の道に私を導いてください
08 時雨亭の跡
愛宕道はさらに南に行くと、大きく東に曲がります。道なりに行けば、曲がってすぐのところに厭離庵があるはずです。が、どんなに探しても見つかりませんでした。定家の持仏であったと伝わる木造千手観音、別名、中院観音を安置するという慈眼堂は確認できたのですが。
藤原定家(1162~1241)が住んだ時雨亭の跡は嵯峨野に三か所もあります。定家の日記『明月記』の研究によって厭離庵とするのが最も適当なのだそうです。亭号は次の歌から取られたといいます。
小倉山しぐれの頃の朝な朝な きのふは薄き四方のもみぢ葉
私訳:小倉山よ。時雨が降る季節になると朝ごとに、昨日は薄かった周りの紅葉が色づいていく
亭の東側には宇都宮頼綱の広大な中院山荘をがありました。頼綱は「関東一の弓取り」と言われた坂東武者の家系です。鎌倉幕府の有力御家人としての財力がありました。歌人でもあったので、当代随一の歌人であった定家を慕って、わざわざ隣に山荘を建てたようです。二人は互いの子供を結婚させるほど親密な付き合いをしていました。
1235年、山荘の障子に貼る色紙に和歌を揮毫してほしいと、頼綱から依頼がありました。定家74歳。すでにほとんど目が見えず、中風も患っていたようですが、たっての願いを聞き入れます。飛鳥時代から鎌倉時代に至る一流歌人一人一人から秀歌を一首ずつ撰び、色紙に書いて渡しました。これがいつの間にか世に広まり、やがて『小倉百人一首』となりました。
09 清涼寺

厭離庵からさらに東に行くと、道のドンツキ(突き当り)に清涼寺の大伽藍が見えてきました。ここは嵯峨帝の皇子で光源氏のモデルと言われる源融の別荘、栖霞観があったところです。
陸奥のしのぶもぢずり誰ゆゑに 乱れそめにしわれならなくに
私訳:陸奥のもぢずりのように誰のせいで乱れ初めてしまったのか。私のせいではないのに
それが11世紀初めには、インドから持ち帰った釈迦如来像(国宝)を安置する寺となりました。霊験あらたかな仏像ということで、13世紀に円覚上人が大念仏会を始めることになります。大勢が集まって、一心に念仏を大声で唱和する法会です。上人は信者を10万人も動員したといいます。何万もの人がひたすら南無阿弥陀仏を唱える超常空間を舞台に、上人の母の伝説から世阿弥が「百万」という能を作っています。
ある春のこと、男が親のない子を拾いました。その子を連れて嵯峨野の大念仏会にいったところ、笹をもって舞う百万に出会います。百万は我が子と生き別れたために気が狂っていました。子供に逢わせてほしいと身をよじるほど舞い狂い、祈り続けます。男は悲痛な舞い姿に心を動かされ、連れてきた子を百万に見せました。百万は我が子だと喜び、釈迦如来の功徳に感謝して連れ立って帰ったそうです。
さて、この子(円覚?)は、はたして百万の子だったのでしょうか。観光に向いていないのか、ほとんど人がいない空っぽの大きな境内に秋の日だけが降り注いでいました。
10 西行の庵の跡

清涼寺でUターン。街道を曲がり角まで戻ります。南に折れると、右が二尊院の総門です。この辺りに西行の草庵がありました。近くには彼が日常に使っていた井戸もあります。まだ涸れていません。
西行は若くして嵯峨野に庵を結び、諸国を巡ってから70歳の時に戻ってきました。すぐにまた旅立ち、自分の歌集二篇を伊勢神宮に奉納するとともに、歌壇の権威であった藤原俊成・定家父子に批評を請います。なかなかよこさなかった定家の評価をようやく読んでから河内で入滅します。享年73歳でした。
嵯峨野に戻った時の歌が13首残っています。いずれも童心を詠んでいます。最晩年に子供に返った心から3首。
うなゐ子がすさみに鳴らす麦笛の 声におどろく夏の昼臥し
私訳:幼い子が気ままに吹きならす麦笛に、はっと目を覚まされる夏の昼寝であることよ
昔せし隠れ遊びになりなばや 片隅もとに寄り臥せりつつ
私訳:昔やった隠れんぼになってしまいたいな。庵の片隅辺りに寄りかかって横になりながらそんなことを思う
恋しきをたはぶれられしそのかみの いはけなかりし折りの心は
私訳:恋しい思いをふざけて返されたその昔、あの幼かったころの心といったら
11 二尊院

寺号のとおり、御本尊が二体あります。釈迦と阿弥陀。遣迎二尊といいます。釈迦はこの世の我々をあの世へ送りつかわし(発遣)、阿弥陀はあの世からこの世に我々を迎えに来てくれる(来迎)というわけです。なんとも手厚い。これなら迷える衆生も成仏間違いなし。
9世紀に嵯峨天皇の勅命により創立されました。以来、今まで4回も荒廃の憂き目にあっていますが、その度ごとに復興しています。最初に再建したのは、12世紀に浄土宗を開いた法然上人です。その御縁で現存最古の法然の肖像画「足曳きの御影」(重要文化財)が寺宝となっています。「足曳き」とは何か?
絵仏師、宅磨勝賀は自然な姿を描きたかったのか、法然が風呂上がりに片足を崩してくつろぐ姿をすだれ越しに写しました。後に絵を見た法然は「これは狼藉の姿なり」と驚きます。そこで、像に向かって正しい心で祈ると、たちまち絵の中の法然が足をひいて行儀を整え、正座になったというのだから面白い。画力と法力の不思議です。
月影のいたらぬ里はなけれども ながむる人の心にぞすむ
私訳:月の光が届かない場所はないが、月を眺める人の心が澄んでいるから光が届くのだ
12 野宮

二尊院を南に出て道を天龍寺の方にとり、雑誌でよく見る竹林を出たところに野宮があります。古式ゆかしい欅の黒木鳥居と黒文字の小柴垣がただならぬ雰囲気を醸し出しています。
古代天皇制では、天皇が代替わりをする度に未婚の皇女を斎宮として、伊勢神宮に遣わさなければなりませんでした。約600年の間に74代もの斎宮がいました。野宮は斎宮が伊勢に下向するまでの一年間、身を清めるための場所です。
10世紀に斎宮女御徽子女王という方がいます。11歳から18歳の時、斎宮を務めました。帰京して村上帝の女御となり、皇女を生みますが、なんと娘も斎宮に選ばれてしまいます。都を遠く離れた伊勢での生活は、当時の皇族にとって、辛く、さびしいものです。そこで、女王は娘と一緒に伊勢へ下り、娘を守って生きることにしました。そんな決意をした女御は他にありません。
紫支部はこの強い母から六条御息所という登場人物を創作しました。知性と気品のある強い女性でありながら、それゆえ嫉妬の鬼にとらわれて、みずから悩み苦しみます。御息所が娘とともに野宮で潔斎の日々を送っている時、長らく会っていなかった光源氏が訪ねてきました。源氏は伊勢へ行く御息所に未練があるのですが、御息所はまず肘鉄を食らわせます。素敵ですね。
神垣はしるしの杉もなきものを いかにまがへて折れるさかきぞ
私訳:野宮の小柴垣には恋人の目印となる杉もないのに、どういうつもりで私に榊を折ってよこすの。馬鹿じゃない?
13 天龍寺


さて、最後になりました。野宮の隣が大覚寺と並ぶ嵯峨野のもう一つの中心が天龍寺です。が、あまりに人が多くて、風情も何もあったものではありません。中に入らずに、近くの嵯峨野屋で湯豆腐をいただきました。嵯峨野豆腐といえば森嘉さんです。ここ嵯峨野屋さんは数少ない取扱店舗の一つ。飛龍頭も美味しかった。
後醍醐帝は足利尊氏に建武の新政を破られた後、1339年に恨みを含んで崩御されました。右手に剣、左手に法華経をもって、「玉骨(私の骨)は南山(吉野)に埋もるるとも、魂魄は北闕(京都)を望まん」と言ってから亡くなったというから,、その怒りは尋常ではありません。
禅僧、夢窓疎石(1275~1351)は帝が怨霊となることを恐れました。そこで、帝がかつて暮らした御嵯峨院創建の離宮、亀山殿を仏寺に改めて、菩提を弔うよう尊氏に進言しました。造営費は尊氏だけでなく、北朝の光厳院にまで荘園を寄進させてまかなわせました。しかし、それでも足りません。元に派遣する貿易船、天龍寺船の利益を当てて、ようやく大寺が造営されました。
疎石とはどんな人だったのかと思います。臨済宗と幕府の結びつきを強め、五山の制を発展させた偉大な政治家であり、宗教家です。と同時に、枯山水という芸術性の高い庭園を定着させた作庭家でもありました。彼が作った名高い庭が、京都だけでも天龍寺、西芳寺(苔寺)、等持院、南禅寺と四つもあります。この歌のように、素直で、素朴で、しかし、どこか遠くを見ているような方だったのでしょうか。
いま見るはこぞわかれにし花やらん 咲きてまた散るゆゑぞしられぬ
語意 今見ている花は去年別れた花だろうか。咲いては散る、理由なんて私は知らないよ
ちょっと迷ったりして結局24㎞、6時間もかかってしまいました。月曜日だったのに、天龍寺の近くでは自転車から降りなければならないほどたくさんの人でした。あと半月ほどで紅葉の本番を迎えますが、行こうと思っている方は心してくださいね。文章は『嵯峨誌 平成版』(財団法人嵯峨教育振興会)を参考にしています。
