読書感想 『転落男性論』 西井開 「等身大の言葉で語ろうとした男性論」
どこかで見たのか聞いたのか、よく覚えていないのだけど、この書籍のことを知り、そのタイトルを聞き、著者が内容の話をしたとき、昔、テレビで見た場面を思い出した。
東ドイツのアスリート
それも、いつ見たかはっきりしないのだけど、まだドイツが東西に分かれていた頃で、東ドイツのアスリートに関することだった。オリンピックでのドーピングは、ずっと問題になり続け、同時に、それこそイタチごっこという言葉が似合うように、検査を、どうやって免れるのか、という「技術」も更新されていたようだ。
その番組の中で、選手自身が、どのようにドーピングに手を染めてしまうのか、という話になった。意外というのは失礼かもしれないけれど、コーチがその「薬」などを強要しない。最終的には選手の自己判断に任せている。だが、ドーピングを使う方向へ、誘導とも思える話はされていたようだ。
この「薬」によって、金メダルが保障されるわけではない。勝てないかもしれない。今の自分の能力が飛躍的に伸びるとも限らない。だけど、確実に言えるのは、この方法をとらないと、今のトップレベルの厳しい競争から、取り残される確率が高いことだ。そんな言葉を、コーチが丁寧に語っていたと、ドキュメンタリーの番組の中で、確かナレーションで伝えられていた。
人は何かを得ることよりも、失うことを、より恐れる。
そんな気持ちの動きについては、今は広く言われるようになったけれど、それが一般的になったのは、おそらくここ10年ほどだと思う。
『転落男性論』というタイトルを知って、その内容のことにも触れられたとき、そんないろいろなイメージと重なって、読みたいと思った。それは、それほど多くないかもしれないが、さまざまな男性論を読んだ記憶があるが、それまでとは違うことが語られているのではないか、という期待もあったからだ。
自分の理解力では、その書籍の全部を理解できたとは言えないが、そうした予想は、おおむね当たっていたと、読んでいくうちに思っていた。
『転落男性論』 西井開
アカデミックな書籍への勝手な印象だが、自分と遠いところで語られているように思ってしまうことが多かった。
それは、その学問に、さらには研究者によるのだけど、個別性よりも一般性が重視されたり、あとは、俯瞰的な視点から話がされていくので、それは、今はあまり言われなくなった「大所高所」的な見方でもあるので、遠い空の上からの出来事に思ってしまったりもした。
男性が抱える苦悩や葛藤の問題について、それが等身大の言葉ではなく、大きな枠組みの中でしか語られてこなかったのではないか、という問題意識がずっとあった。
だから、この書籍が、著者のこうした個別な話から始まっているから、これまでとは少し違うのかもしれない、と期待が持てた。
性別役割分業という制度的・文化的制約によって、男性たちは賃労働をするように水路付けられている。その点において、彼の過労の背景には男性たちを絡め取る男らしさの力学がはたらいていると言えるかもしれない。しかし、彼は決して男らしさを積極的に求めて、遅くまで仕事をしていたわけではなかった。むしろ消極的に、今いる場所から追い落とされないように休みも取らずに働きつづけていたのだった。
ある男性のことを、このように↑書いているが、この心境は、実は多くの男性にとって(自分も含めて)共感を得られるようにも思えた。
伊藤が想定した図式は、もしかしたら順番が逆なのかもしれないと思えてくる。つまり、競争における勝利や権力の獲得を達成しようとする志向性をもっているのに、社会構造音変化によってそれを果たすことができなくなったから、男性たちは危機意識を抱くのではない。ではなくて、男性たちは社会構造の変化に関係なく、常にすでに危機意識をもっており、それゆえ勝利や権力の獲得を達成しなければならないという強迫に駆られるのではないだろうか。
男性学研究の先駆者と著者が敬意を持って引用も紹介もしている伊藤公雄に対しても、こうした見方を唱えているし、これまでの男性学の論に対しても、あとの時代の研究者としては当然の姿勢なのかもしれないが、批判的な見方をしている。
男性たちの不安や葛藤、恐怖は確かに存在しているのであり、それを「男性支配を維持するための言説的戦略」とひとまとめにするのは、あまりにも乱暴だと言わざるを得ない。
過去の男性学および男性心理学は、「男性」と言っても一枚岩でないこと(川口 2008)、つまり男性間に複数性があることに意識を向けず、十波一絡げに多様な経験を「男性の」経験としてまとめてしまってきたのだ。
さらに、こうした視点も提示している。
そもそも男性たちは無根拠に転落に怯えているわけではなく、またその怯えは社会的文脈から切り離された心理的反応でもない。孤立していることを低く評価して集団への所属を尊ぶ社会的風潮、加害的行為を犯した者の行動ではなく人格全般を徹底的に否定する機運。転落の恐怖の背景には、ある事象を必要以上に脅威と感じさせる社会的機制がはたらいている。
ここまで引用した文章は、すべて「序章」に書かれていたもので、ここで触れられていたことに対しては、それ以降の章で、個別に、具体的に論じられている。
ただ、ここまでの文章はすでに、冒頭に著者が表現していた「等身大の言葉」を感じさせるもので、それは、自分と関係があることが書かれている、という実感を持てることだった。一人の読者として、そんなふうに思いながら、読んでいた。
フェアな距離感と視点
『第1部 集団と排除』というタイトルは、いかにも学術的な印象だが、その第1章の「いかに男性は社会的孤立にいたるのか」は、具体的な人物へのインタビュー調査をもとにして、個別な問題が書かれている。
そこに登場する研究協力者の語る学生時代からの出来事は、他人事とは思えない話も少なくない。
ヤンキーグループに憧れを抱くも仲間入りすることはできず、今いるグループに対しては馬鹿にするような気持ちが湧いてきてしまったというハーシーさんは、落ち着かない中学時代を過ごす。球技が苦手だったことから、遊びにおいても疎外されている感覚を抱いていた。そんな不安定な立場から逃れるために、彼は新たな人間関係の構築を願って地元から離れた高校に進学する。
これは、研究協力者の語っている、ごく一部のことなのだけど、ここで語られるさまざまな試行錯誤に対して、著者は評価的な視点ではなく、その経過と、どのような気持ちの変化があったのかを丁寧に追っていて、しかも、その人の個別性を大事にしているから、その人そのものを尊重しているように感じる。
自分が知っている範囲に限られるが、研究協力者に対して、もしくは、分析対象に関して、これだけフェアな距離感と視点で接していることは、とても珍しいと思い、だから、読者として信頼感も持つことができる。
先行研究では、男性の孤立傾向の理由として「男性として性役割に縛られている、もしくは期待されているゆえに対人関係が不得手である」という知見が示されていた。この主張は説得力を持つが、詳しく実態を追ったものではなく、また有効な対応策を打ち出せない可能性もある。なぜなら、この主張に基づくと、社会における男性規範を改変するという長大な文化変革か、ソーシャルスキルを身につけよ、というライフハック的なアドバイスしか導けないからだ。それらは重要な提言である一方、あまりに時間がかかりすぎるか、個人への能力の依存度が大きくなってしまう。
このことは、おそらく多くの人が感じていたことだと思った。結局は、社会を変えるか、だから、それを変えようとしないということも含めての自己責任なのか、というような思いになる論考も、これまで少なくなかった印象もある。
そこで想定すべきは、この集団のあり方を再編するような実践だろう。からかいやいじりを前提としない会話文化を形成し、排除が起きにくいコミュニティを創出していくこと。
これは、社会という大きな集団でもなく、個人に責任を負わせるのでもなく、その中間である集団をどうするか、という提言にも思え、これはこれで実現するのも(社会の価値観を変えるという部分も当然あるので)難しそうだが、それでも希望は持てるような気がしてくる。
「有害な男性性」と、「DV加害者臨床」
この書籍の紹介には、こうした文章がある。
単一のストーリーに落とし込まれて言葉の貧困に陥り、苦悩・葛藤する男性たちの経験を、社会的孤立、ホモソーシャル、加害者臨床、メンズリブ運動史、反差別への抵抗感、「有害な男性性」概念の批判的検討を通して見つめる。
この書籍の内容をコンパクトに的確にまとめてあると思われる紹介文なので、もし、この項目の中で興味がある言葉があれば、これまででも、よく見かける単語ではあるけれど、この書籍では、違う視点で語られているので、読む価値があると思う。
中でも、抵抗への対処法。さらに、終盤での『「有害な男性性」概念への批判的検討』に関しては、新鮮でありながら、かなりの説得力があった。
この概念の起源はアメリカの神話的男性運動に見ることができる。神話的男性運動とは、スピリチュアルなワークショップや太鼓を用いた儀式などによって、産業革命前の戦士のような男らしさを取り戻すことを目的に、1980年代から90年代にかけて実施されていた運動である。
「有害な男性性」の起源は、神話的男性運動にあったのは、とても意外だった。
この主張は学問の領域や政策にまで広がった。
つまり当時は、〈有害な男性性〉を持ち出すことによって、力強い父親像を推奨するような、父権的かつ家族主義的な主張が展開されていたのである。
この主張は要するに、父親不在の家庭の男子のような「規範的な家族像・男性像から逸脱した男性」を不健全と見なす思想だが、こうした考え方はさらに発展していく。
そして、それは政治的な場面でさえ、「強権的な介入」を正当化する理屈としても利用される概念でもあるし、個人の内面だけを過度に問題視することへのさまざまなデメリットも検討される。
脱暴力を考える際、個人だけを対象にしてしまうと問題の全体像を見逃し、包括的な対策から遠ざかってしまうリスクがある。たとえなんらかの治療によって「有害性」を取り除いたように見えても、社会や環境自体には問題が残っているからだ。
現在では、〈有害な男性性〉という言葉は、「DVの加害者臨床」に関わる場面で、最も使われるようになっているかもしれない。
暴力が起きた時に重要なのは、加害者が自ら責任を取っていくこと、つまり自身の行なってしまったことを整理して言語化し、可能ならば謝罪し、そして二度と同じことを繰り返さないことだ。こうした応答責任を立ち上げるには、無害か有害かという二元論を超えた、複雑で多層的な語彙の束が必要になる。
自身が被ってきた苦境、取り巻く環境の問題、男性ジェンダーをはじめとする社会構造の影響、加害に接続しうる欲望、加害を正当化する認知。さまざまな要因が絡まり合いながら暴力は発現する。〈有害な男性性〉などという単純な枠組みで理解できるはずがないし、神話的男性運動の創始者ブリスが言うような明快な「解毒剤」も存在しない。
加害者たちが応答責任を果たしていくナラティブが、まだまだ足りていないのかもしれない。
「加害の地図」と「責任のプロセス」
「加害の地図」と「責任のプロセス」。
この2つの単語は、書籍の文中の見出しにも使われているのだけど、著者が、加害者臨床の現場で実践を続けることによって、生じてきたことを言葉にした、という印象だった。
参加者たちが最初に受ける個人面接では、まず信頼関係を築いていく。私たちセラピストが彼の問題を裁定するわけではなく、共同で問題解決を考える姿勢をもっていることを示し、彼らの苦悩に対しては共感的に受け止めていく。その上で、暴力という課題を単純な説明に当てはめず、共同的に自己探求するためのアプローチに呼び込むのである。
例えば、自身のトラウマ記憶で全てを説明しようとする参加者には、タイミングを見て「トラウマはわかったけれど、ではなぜ妻に対してのみ発現するのか」とフィードバックしてみたり、家事をしないパートナーに問題があると主張する参加者には、「あなたにとって大切なのはパートナーを責めることではなく、関係を修復することだったんじゃないか」と洞察を促したりする。場合によっては、そもそも何が暴力に当たるのかということや、ジェンダー間でのケアの非対称にかんする知識を提供し、それに伴う私自身の男性としての経験を提示する。こうした問いかけやアドバイスによって、参加者たちはずっとはまり込んでいた罪悪感と免罪の欲望の渦から顔を上げて、少しずつ自身の問題をメタ的に思考する思考する視野を得ていく。
これは専門的すぎるようにも思えるけれど、少しでも支援に関わった経験があれば、(安易に模倣するのは危険だとしても)かなり参考にできる優れた実践を伝えてくれているように思う。
実践の中で重視するのは、参加者たちを「DV加害者」と類型化して暴力のバターンをあらかじめ規定せず、個々の経験がもつ独自性を尊重する点にある。そうすることで、彼らは自発的に自身の問題を探求し、問題を単純化しない〈加害地図〉を象っていく。
〈加害地図〉のことは、さらに説明されている。
男性性の作用を含むさまざまな要因の絡み合った〈加害地図〉をつくること、つまり加害のプロセスを詳細に把握することは、暴力につながる自身の関係性のパターンや日常生活に潜む問題性から距離を取って眺め直すための視野を広げていく。相手のふるまいや、自身の特性、過去など動かせない部分も確かにあるが、変化させることが可能な要素が見えてくる。つまり、問題性を俯瞰することが自身を変化させる余白を生み出すのだ。
DV加害者臨床に長く取り組んできた信田さよ子が、加害者たちの責任として①謝罪・賠償、②説明責任、③再発防止の3つを実行することだと整理している。著者は、そのことを尊重しつつも、現場の実践で、この3つの適切な順番があることがわかってきたといい、それを「責任のプロセス」と表現しているようだ。
謝罪にいたるには相当に長い道のりを歩まないといけない。まず、暴力を振るってしまうその複雑な仕組みを把握し、言語化し、相手から求められた時に説明できるだけの基盤を作って置くことが重要になる。
そして謝罪は最後に来る。先述したように、そもそも被害者が求めた時でなければ本当の謝罪は成り立たない。ただ、もしもその機会が訪れた時、ここまでの下準備を整えておくことで、少なくとも彼の謝罪は形骸的なものではなくなる。
この責任のプロセスは、参加者を責め立てたり、心理化するようなアプローチでは決して立ち上がらない。私たちはつい相手の人格に問題を見出し、それを見つめさせ、反省をさせたくなる。しかしそうした形の引責は、多くの場合不発に終わる。本章で記述した〈加害地図〉の実践は、オルタナティブな責任の取り方の可能性を示していると言えるだろう。
おすすめしたい人
今回の記事で紹介できた論点は、この書籍の本当にごく一部です。
この記事で少しでも興味を持ってくださった方には、もちろんおすすめできます。
さらには、このテーマに興味がある人や、男性に対しての支援をする立場にある人であれば、とても参考になるように思いました。
言葉使いなど、やや専門的に感じるかもしれませんが、男性が抱える苦悩や葛藤について、等身大の言葉で語ろうとした試みは、かなりの程度成功していると思えますので、この21世紀を生きていこうとするならば、性別などを問わず、できたら全部を読んでもらえることを、おすすめします。
(こちらは↓、電子書籍版です)。
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