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数学が縁遠くなった、遠い思い出。  「無理」と「どうかしている」と「天才だから」

 今みたいな変化が激しい時代ほど、そして、先が分からなくなった時ほど、家にいる時間が長くなるほど、できたら勉強したほうがいい、と思って、本を読んだりするけれど、数学に関しては、やっぱりハードルが高いままです。

 ページをめくって、たくさんの数字とか、Σとか、∫のあとに分数がいくつも並んでいたりすると、暴力的な圧を感じ、そんな『絵』が出てくると、本を閉じたくなるし、目が逃げようとする。

 小学校までは算数で、実用的というか、生活に近い感じがしていて、道具みたいな印象だった。中学に入っても、「aとかbって、何?」みたいな本質的なことを、あまり考えすぎなければ、なんとか前へ進めたし、Xは、わかる気がしたのは、Xは、漫画とか、テレビなどで接する機会が多かったせいだと思う。

数学は「無理」だと思った時

 それでも、ああ、もう数学は「無理」だと思ったのが、中学3年生の時だった。
 図形の問題か何かが黒板に書かれ、前に立っている教師が、「わかる人?」みたいなことを言った。そこに、すっと出てきたクラスメートが、面白くなさそうな顔で、その問題には、まだ存在していない「線」をためらいなくひいた。それを、補助線というのを、その時に初めて知った。そこにないものを、都合によって、足して、問題が解決したら、またなかったことにする。そんなことができるクラスメートが、素直にすごいと思ったし、そういう発想を自然に身につけることは自分には、これからどれだけ勉強しても、無理だと思った。これからは、本当にわかることは「無理」だから、受験があったりする時は、だましだましやるとしても、その先は本当に取り組むのは避けたい気持ちになった。ただ、14歳だから、そんな勝手な敗北感は、素直に出せなかったと思う。

数学は「どうかしてる」と思った時

 数学は、「どうかしてる」と思ったのは、そのあとだった。
 たぶん、高校の頃だと思うけれど、はっきりしない。文系と理系を分ける習慣があって、そして、もう自分は文系だと思っていたのは、すでに数学ができなくなっていたせいもある。まだ新しいスポーツの、今年からできたルール、みたいな言葉を交わしているように感じていた。まったく分からない感覚。

 その頃、授業で、「虚数」という考え方を知った。
 とても、理解したとはいえないけれど、「どうかしてる」のは、分かった気がした。
 「虚数」とは、実際には、存在しないけれど、その存在が「あることにして」考えると、その先に行けるらしい。といった、とても粗いことしか分からなかったけれど、人類は、そんな無茶なことをして、それでも進化してきたかと思うと、「どうかしてる」けど、その欲望みたいなものは、すごいと素直に思った。ただ、何しろ、数学が遠くなっていたから、それがどこまで正しい感想かも分からなくなっていた。
 苦手だった癖に、理科の中では他の科目と比べたら、大丈夫かもと思って選んだ物理で、0点を初めてとったのも、その頃で、「理系は、本当に無理」と思っていたし、もう二度と数学的なことをしなくてもいいのではないか、とも思っていた。

 文化祭で、高さ3メートルくらいの風車を作ることになった。
 その設計を担当してくれたのは、あだ名が「先生」といわれるクラスメートだった。厚いメガネをかけていて、自然に頭がよく、運動部に入っていて、足も速く、普通にいい人間だった。そういえば、特に仲がいいわけでもないから、知らないだけかもしれないが、その彼が怒っている姿は、記憶にない。
 そんな彼がノートに書いていたのは、何ページにもわたる、あまり見たことがない、というより、見たかもしれないけど、忘れていた数式(かどうかもはっきりしないが)が、びっしりと並んでいた姿だった。それは、ちょっとこわさを感じさせるように、とても、きれいに並んでいた。
 「これ何?」
 「風車の羽の角度の計算」
 「え?」
 「こういうことを、ちゃんとしないと、回らないから」
 たぶん、そんな会話をしたけれど、はっきりとは覚えていない。
 ただ、文化祭で制作した風車は、学校の校門そばに設置して、そんなに強くない風でも、よく回っていた。それは、数学というより、物理の力なのかもしれなかった。
 その「先生」は、確か今は、大学の「先生」をしているはずだった。

「天才だから」という言葉で、あきめる気持ちになった時

 「天才だから」という言葉を、改めてのあきらめと共に、聞いたのは、それから、ずいぶんと時間がたって、自分が中年になってからだった。
 たまたま縁があって、心理学を学ぶことになった。そこには、心理統計というものが存在しているのを知った。また、数学的なものがあった。勉強しないと分からないが、勉強しても、本当に理解できるとは思えない。ただ、知らないと、肝心な時に統計的に「だまされる」ような気がして、そのことによって社会にマイナスを広げることになったら嫌だから、なんとかしたいと思っていた。

 友達の息子さんが、理論物理を学んでいたので、申し訳ないのだけど、会った時に、少しでも教えてもらおうとした。その時は、正規分布が分からなかった。高い山のような柔らかい曲線。あらゆることは、だいたい真ん中に多数が集中して、上も下も少数派、といったことを体現しているような形。しかも、その高さは変わるし、右に移ったり、左に移動したりする。その意味が分からなかったのだけど、書籍に書いてあるのは、「すでにご存知の通り」くらいな文章だった。だから、正規分布というものが、どうしてそうなるのか?といったことを、少しでも分かれば、理解が広がるのではないか、という勝手な思いがあった。

 その息子さんには、優しく諭された。
 大意は、こんな内容だった。(詳しい方から見て違っていたら、すみません。この場合の間違っている責任は、その息子さんではなく、私の理解不足のせいです

正規分布というのは、ガウスという天才がつくりあげたものだから、わたしたちのような人間が理解しようとすると、それは、へたすると、一生かかるかかもしれないもの。だから、わたしたちは、ユーザーとして、天才の成果を利用させてもらえばいい。そういうもの、として使う、というように考えるべき。

 磁気ネックレスの紹介などに出てくる、「〇〇ガウスで、強力です」といった時に、磁気の単位として使うガウスは、そのガウスにちなんでいることも初めて知って、天才は、あれもこれもできるんだとも思った。

 そして、文系と理系と分けすぎるのは愚かとも思いながらも、技術の進化のスピードの速さの一端を(本当にわずかですが)わかった気がしました。

 わたしのようなタイプは、どうしても、「なぜ?」とか、「どうして、そうなる?」といったことを考えがちです。それと比べて、ユーザーとして正規分布を利用できる人たちは、先人が積み重ねてきたことに対して、すぐに先へ行けるはずです。それで、技術系の進化は早いんだ、と、少し分かったように思いました。ただ、何しろどこまで理解できているかわかりませんし、やっぱり、いろいろと無理かもと「あきらめ」の気持ちにはなりました。



 それから何年かたって、「心理学」の祖先でもある「哲学」をもう一度、学んでみようと思って、こわごわと「哲学カフェ」に参加するようになったのは、この「あきらめ」と、もしかしたら、関係があるかもしれません。




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