『自分史上、最古のフェイクニュース』から、現在の「フェイクニュース」のことまでを考える。
今、考えると、本当に、どうでもいいことだと思うのだけど、当時の小学生男子同士で、真面目な顔をして、少し小さい声で話し合っていたのが、「ファンタについての噂」だった。
「ファンタの甘口・辛口問題」
もう40年以上前の話なので古くて申し訳ないのだけど、たぶん、どの時代でも似たような、私だけが知っている秘密は、特に小中学生は、大好きだと思う。そして、自分の記憶の中では、「ファンタの甘口・辛口問題」が、もっとも古い「小さなフェイクニュース」だった。
ファンタは今でもある清涼飲料水だけど、昔からオレンジとグレープ味はあって、その頃は他の飲料がそうであったように、1970年代の初頭は、まだ、ガラスのビンに入っていた。そのビンの下部に、小さなくぼみがあった。数ミリ単位の目立たないものだったのだけど、その形が「四角」と「丸」の両方があった。
ファンタは、何かの集まりがあると、子供はこれを喜ぶだろう、といったニュアンスで用意されていることも多く、そして、オレンジとグレープそれぞれに支持者がいて、それを巡って、微妙な争いが起こることもあったが、2種類しかないから、それが激化することもなかったように思う。ファンタに、いろいろな種類が出てくるのは、もっとあとのことだった。
そのビンの下部の小さなくぼみがあるのは知っていたが、いつの頃からか、「知ってる?」と語られるようになったのが、「その小さいくぼみが四角いのは辛口で、丸いのが甘口」ということだった。しばらく、ちょっと本気になっていて、微妙に違うような気がすることさえあった。オレンジとグレープを巡ってだけでなく、そのうち、「甘口と辛口」を奪い合うような、それも、知っている人間だけが知っている、という妙な優越感の漂うような争いも、起こっていたかもしれない。そして、やっぱり甘いとか、俺は辛口がいい、などと言い合う瞬間も確かにあった。
当然だけど、それは「小さなフェイクニュース」で、どうやら、工場によって、その形が違うだけ、という話を、また「知ってる?」というニュアンスで語られるようになったが、それも、本当かどうかは分からない。ただ、工業製品でもあるファンタに、甘口や辛口の違いがあるわけもなく、いつの間にか、そんな話を聞くこともなくなった。
インターネットがない時代に、どうやって「フェイクニュース」が広がったのか
今、この記事を書くために、「ファンタ 甘口 辛口」で検索してみると、私と同じような経験をしている人がいるのは、分かる。私は、当時は中部地方に住んでいたが、インターネットの情報によると、東京都内や、大阪に住んでいる人が、この噂を聞いた、という記述があるので(その時期も、私の記憶とも一致していました)、もしかしたら、全国的に知られている、古い「フェイクニュース」なのかもしれない。
ただ、今のようにインターネットもない時代に、どうやって、全国的に広がったのかを、改めて考えてみる。
一つは、おそらくはクチコミだと思う。
「ファンタの甘口・辛口」について、誰かが話をして、それに興味を持った人が、また誰かに話す。それがもっと昔であったら、その地域限定に過ぎないのだろうけど、当たり前だけど、1970年代にもなれば、全国的に移動も多くなり、それに伴って、クチコミが全国に広がりやすくなっていたはずだ。それに、電話もあるし、遠くの親戚や友達などと、そんな話をしたり、手紙をやりとりしたりもあるから、情報は拡散する。さらには、転校生が、そういった情報を広げていったことも考えられる。
もう一つは、もしかしたらメディアを通して広がった可能性もある。
当然だけど、20世紀の後半になれば、テレビもラジオも、新聞も雑誌もあった。
テレビや新聞よりも、おそらくはラジオや雑誌は、あいまいな情報が流通する可能性が高かったと思う。特に、聴取者や、読者のハガキや手紙など、うわさのレベルでも、その語り口が面白ければ、「ほんとですかね」とみたいなコメントをつけつつも、電波や誌面に載せていた可能性はある。もしかしたら、当時のラジオや雑誌の記録が今もあって、克明に調べたら、「ファンタの甘口・辛口」のことも載っているのかもしれない。
どうして、「フェイクニュース」は増加したのか?
こうした「昔のフェイクニュース」と「現代のフェイクニュース」の大きな違いは、速度だと思う。昔は、ゆっくり広がり、ゆっくり消費されていた。だから、転校生が「フェイクニュース」を運ぶような、時間がかかる方法でも、広がって行ったのだと思うし、それから何十年かたっても、まだ覚えている人間がいる、ということかもしれない。現代は、素早く大量に広がり、そして短期間に次の「フェイクニュース」があらわれ、忘れられていく。
昔は、「フェイクニュース」だけでなく、「身近なニュース」の寿命も長かった。
その「ファンタの甘口・辛口」も、1年以上はささやかれていた記憶もあるが、その頃は、中部地方の、1学年1クラスしかない小学校に通っていて、そこは、田んぼの光景が広がっているような場所でもあった。通学路の途中に国道があり、その道沿いに「札幌ラーメン」の、今でいえばチェーン店ができたら、「あそこ行った?」という話題は、半年以上、教室で続けられていた。
噂や「フェイクニュース」は、みんなが知ってしまったら、価値は暴落するから、ある程度の人が知るようになるまでは、爆発的に広がり、そして、どのくらいの割合かはわからないが、大雑把な感覚でいえば、半分を超えたら、急に終息に向かう気がする。それは、その話題を、自分の周囲の誰かに伝えた時に「あ、それ知ってる」と言われてしまったら、フェイクニュースや噂の動機である「自分だけが知っている」「自分の方が知っている」という状態でなくなってしまうからだ。
だから、情報量が多くなったから、「フェイクニュース」や、うわさや「ニュース」の寿命が短くなったのではなくて、逆かもしれない。「フェイクニュース」や噂や「ニュース」の寿命が短くなると、次の「ニュース」が欲しくなる。その需要に合わせて、情報が探されれば新しい「ニュース」だけど、需要に追いつかずに、場合によっては、作り出されてしまうのが「フェイクニュース」で、人類が欲しがるから、情報量が増えていく、という順番なのかもしれない。
その上、次々と「フェイクニュース」や「ニュース」を消費することで、どんどん忘れてしまうのは、「フェイクニュース」や噂であっても、誰かとしゃべったり、考えたりしたり、そして、ある程度の期間、おそらくは2ヶ月半くらい(75日)は、そのことを覚えていないと、集団的記憶として保持できない、ということなのかもしれない。昔のほうがよかった、ということではなく、たとえば「ファンタの件」についても、おそらくは1年くらいは、小学生同士で話したりする時間があったことで、今でも覚えている、という可能性はある。
どこで、「フェイクニュース」が生まれるのか?
もっと大きい話題でいえば、国際的な問題など、普通は知ることができない、という場所で「フェイクニュース」は生まれやすい。それは、人間は不安だから、分からないことに耐えられなくて、意味があると、それが悲惨な「事実」であっても、おそらくは、ちょっと安心が与えられる。だから、そういう大規模な出来事に関しては、見えない部分が多く、そこをうめるために、噂や「フェイクニュース」が生まれやすい、と思うし、それこそが「フェイクニュース」の王道(変な表現だけど)だとも感じる。
さらには、身近だとしても、自分がすべては知らない世界にも、うわさや「フェイクニュース」は生じてくる。
それは、幽霊やオカルト関係の話で、それも、誰もが知っている学校という場所(登下校の道なども含む)に関する噂や「フェイクニュース」が多いように思う。自分が通っていない隣町の学校や、ほとんど使われていないトイレや、夜の帰り道などに、噂やフェイクニュースは生まれてきやすい。
そして、そういう話を真面目にするのは、やはり子供時代が多いから、人が多く出入りして、場合によっては、学校よりも、リアルな恨みを持っている人が多そうなのに、会社にまつわるオカルトな話は、あまり聞いた記憶がない。
今は、わからないが、大人が集まる場所で、唯一、幽霊の噂が出やすいのは、昔はテレビ局などだった。それは、やはり、ちょっと特殊な、あまり知られていない場所、という理由も大きいと思う。
「ファンタの甘口・辛口問題」が生まれた理由
そして、今回の「ファンタの話」のように、身近なモノに関する、いってみれば「小さなフェイクニュース」は、どうして生じるのか、そして、それは、今はどこに生まれているのか?を改めて考えてみる。
ファンタは飲料ではあるけれど、工場で大量に生産されている工業製品でもある。そして、その状況は、高度経済成長を通して、可能になってきたし、それで初めて、都会でも地方でも、どんな場所でも同じものを飲めるようになった。
それは、それ以前の時代に比べたら、とても画期的で、質の違うことだとは思う。地域ごとに「名物」などがあったのは、流通が発達していないせいで、「地産地消」しかできず、遠い場所でも、近くの場所でも、同じものを飲んだり食べたりは、不可能だったという理由も大きそうだ。
今のように本格的に大量生産が発達し、その質も揃えられるようになり始めたのは、第2次世界大戦後のはずで、1960年代にアメリカでポップアートが登場し、アンディ・ウォーホルが、大量生産のキャンベルのスープ缶や、リブロの洗剤をモチーフにしたのも、この時代には、すでにアメリカの家庭にも行き渡り始めていたからだと思うが、それでも、それに、まだ「新しさ」があったから、という理由もあると思う。
それよりは日本の状況は遅れているはずだから、大量生産・大量消費で、国内の、どこにいても同じ製品が手に入り、その質が揃えられるようになったのは、おそらくは、1960年代から、1970年代に入る頃のはずだった。
だから、大量生産で、同じものが全国に行き渡る、ということを、そこに生きている人間が、まだ、納得できていなかった可能性はある。社会が変わっても、そこに生きている人間の意識がなかなか変わらないのは、今の時代でも共通していることだからだ。
そうした戸惑いを背景として「ファンタの甘口・辛口問題」が生じていた可能性はないだろうか。
大量生産で、同じものが必ず手に入る、ということが、どこかで、微妙に信じられなかったのかもしれない。もしくは、誰もが同じものを手に入れることに安心感はあるものの、自分は特別だと思いたい人間の本能的なものから考えると、誰もが一緒、ということに、微妙な「満たされなさ」を感じていた可能性はないだろうか。いろいろな意味で、それまでは、オーダーメイドが基本の世界に生きていたとしたら、誰もが同じ世界は、もしかしたら、ちょっとつまらなく感じていたかもしれない。
私が小学校の頃に住んでいた中部地方の商店街では、しょうゆも、みそも、店の裏で作っている店まであった。そんな場所だと、どこでも一緒は、いろいろな意味でより、飲み込みにくいのかもしれなかった。
そういう時代だから、こんな人がいた可能性もある↓。
ファンタでも、もしかしたら同じではないかもしれない。
ちょっとした違いは存在して、見る人によっては、そういう誤差が分かるかもしれない。
大量生産にまだ違和感があり、そんな思いがもしあったら、小さなくぼみの形の違いを発見した時に、大量生産の中の小さなバグを発見したと思いこみ、それは、自分だけが見つけた秘密として、誰かに語りたくなるかもしれない。
つまりは、大量生産といっても、まだ質が完全に揃うことが難しく、同じでなくて当たり前、という思いが共有されていて、そんな「小さなフェイクニュース」が生じてきた可能性もある。
だから、それからあと、大量生産が洗練されてきたら、そうしたバグがある、といった噂や「小さなフェイクニュース」は、ほとんど聞かなくなったように思う。ただ、そこに関しては、自分が大人になってしまったので、その後の子供達の間で語られているような「小さなフェイクニュース」からは縁遠くなり、単に無知なだけの可能性はある。
私が、知っているのは、スナック菓子の中に、低い確率で、形の違うものを存在させたりと、大量生産する、メーカー側が、意図的にバグを発生させるようになったことだった。それは、「ファンタの件」を記憶している側から考えると、その時の「小さなフェイクニュース」が実現したような気持ちにもなる出来事だった。
現在の「小さなフェイクニュース」が生まれるところ
時代が進むと、大量生産であっても、手に取れる物質に、「小さなフェイクニュース」が生まれにくいくらいに、質が揃って、欠陥商品も少なくなった。そのかわりに、その後は、ゲームに「小さなフェイクニュース」が宿るようになった印象がある。違う世界観を持つものの登場により、新しい噂も生じてくる。そうしたことが小説というフィクションに表現されるようになったのが1980年代後半だった、ということは、それ以前に、すでに、そうした噂があふれていたからではないか、と思う。
21世紀の現在は、大きい「フェイクニュース」も、「小さなフェイクニュース」も、どちらもインターネット上で生まれているのではないだろうか。インターネット上の情報は、すでに人間が一生かかっても処理しきれないくらい膨大になっている、といったことを聞いたのは、確か、20年くらい前のことだった。
そうしたあまりにも膨大な蓄積の場所があれば、そこですべてが生じて、消費されて、忘れられ、そして、その場所に今のところ、かなり長いこと情報は残っているから、場合によっては、また発掘されて、再び、「小さなフェイクニュース」や、大きな「フェイクニュース」に変形し、その繰り返しで、また微妙な違いが生まれ続けているのかもしれない。だけど、もっとインターネットと自分との距離感が近くて、関係も理解も深い人たちは、また違う感覚があるのかもしれない、と思う。
たとえば、「検索してはいけないワード」といった「小さなフェイクニュース」は、すでに古い話題なのかもしれませんが、私の印象だと、かなり「ファンタの甘口・辛口問題」と近いニュアンスを感じたのですが、どうなのでしょうか?と確かめてみたい気持ちもあります。
どちらにしても、人類は、少しでも「新しいこと」や「変わったこと」や「楽しいこと」を、どうしようもなく求めてしまうように思います。そう考えると「フェイクニュース」が生じるのは必然でもあるので、「メディアリテラシー」が大事だというのは理解できるのですが、さらに言えば、21世紀現在の、「人としての、まともさ」とは、どういうことなのか?を照れずに、逃げずに、考えることが必要なほど、対応する情報の量と質は、臨界点を超えているようにも思います。
もし機会があれば、「21世紀の、人としてのまともさ」は、自分の能力では難しいと感じつつも、可能であれば、考えたいと思ってもいます。(無理だったら、すみません)。
長い文章を読んでいただき、ありがとうございました。
(他にもいろいろと書いています↓。クリックして読んでもらえたら、ありがたく思います)。
「かっぱえびせんの全盛期」のことを考えたら、「歴史の不可逆性」に、改めて気がつきました。
「2LDK +z」(zoom 部屋付き)のマンションが、販売される未来を考える。
#フェイクニュース #メディアリテラシー #ファンタ甘口・辛口
いいなと思ったら応援しよう!
記事を読んでいただき、ありがとうございました。もし、面白かったり、役に立ったのであれば、サポートをお願いできたら、有り難く思います。より良い文章を書こうとする試みを、続けるための力になります。