頭の中もカラッポで 熊谷まで 片道2240円
「二時間四十七分……」
娘から熊谷の花火大会へ行きたいと言われ、まずはじめにしたのはGoogleマップを開くことだった。開催場所は荒川の河川敷だと言う。上京して一年。荒川という名前には、すでに近所の川くらいの親しみを感じていた。
ところが、画面に表示された距離は八十キロを超える青い線。僕の知っている荒川は、思っていたよりずいぶん長かった。
沖縄に長く住んでいたこともあり、八十キロくらいなら「ちょっと遠出するか」の範囲である。那覇から美ら海水族館へ行くのと大して変わらない。
高速を使えば二時間七分。四十分の差に「二千円」以上払うのは負けた気がする。だったら、そのお金は屋台で払いたい。娘も「早く着いても暑いし、待つの暇」と言ってるし。
僕はこのとき、埼玉という「海なし大陸」を、どこか甘く見ていた。僕が知っている埼玉は、日本一大きいと言われてるレイクタウン越谷までだ。そこより北は未踏の地。ついでに言えば、千葉もイオン幕張より東は知らない。
ナビによると、外環(東京外かく環状道路)をしばらく走るらしい。
ここがまぁ、とにかくつまらない。下道の魅力と言えば、その土地の景色が見れることである。それなのに周りは防音壁に囲まれ、上は高速道路。初めての街を走っているはずなのに、背景データは途中から使い回されていた。

それでも僕は娘との花火大会のためにはるばる走るも、さらに困るのがトイレである。沖縄なら58号線沿いのコンビニへ「ちょっと寄るか」で済むことが多かった。
しかし防音壁に囲まれた外環は、コンビニはオアシスではなく蜃気楼。側道へ出るのか。次の交差点で曲がるのか。一度どこかへ降りるのか。
どれほどナビが発達しようとも、頻尿に悩まされるドライバーのことは一切考慮されていなかった。だからか。側道に転がる怪しげな中身の入ったペットボトルを見るたび、いらぬ想像が膨らんだ。
そのうえ、道路標識を見ても旅情がまったく湧いてこない。
春日部=クレヨンしんちゃん!
草加=せんべい?食べたことないけど。
埼玉スタジアム=ライブやるとこ?
羽生=ゆずる?善治?
熊谷=日本一暑い市。
「〇〇まで十二キロ」と教えられても、その〇〇が熊谷へ近づいているのか、埼玉の奥地へ連れていかれているのか分からない。土地勘がないというより、埼玉に対しての興味がそもそも霧がかかっていた。
そんな、翔んで埼玉状態の僕でも、しんちゃんの春日部と合わせて興味を持てた地名は「朝霞」である。
「あさぎり……」
僕のエッセイの師でもある「朝霞はじめ」先生。
失礼なことに、しばらくの間「朝霧さん」と間違えて読んでいた。この時点で僕の漢字能力がどれくらいだかは、想像できるだろう。

ちなみに、娘は高校生にも関わらず、「熊谷駅近くの駐車場探しといて」と頼んだら「ここに、“げっきょく”駐車場がある」と言ってきた。
「朝霞」の地名が見えたことで、頭の中では一本分の寄り道が始まった。Googleマップは熊谷へ向かっているのに、僕は朝霞で立ち止まっている。次は「朝霞」で一本書くか。
……などと正当化してないで、話を元に戻そう。
外環を降りた後は、今度はバイパスに乗せられ、また変わり映えのない道をゴーゴーぶっとばす。ところが、そのGoogleが突然、バイパスから僕を降ろした。
右も田んぼ。左も田んぼ。その先も田んぼ。遠くの果てしなく広い空と入道雲が見渡せるようになったのに、現在地が分からなくなった。

「……ほんまに熊谷向かってる?」
渋滞してるなら、まだみんな花火大会に向かってるんだなとわかる。先ほどまで「せっかく初めて埼玉に来たんだから、もっと景色を見せろ」と文句を言っていたのに、昼間の月すら見えない田んぼ道を走らされると不安になってきた。
もう、Googleマップの青い線に命を預けるしかない。「この先、右方向です」と言われれば右へ曲がり、「そのまま道なりです」と言われれば、田んぼの真ん中でも道なりに進む。
やがて再び大きな道へ戻り、やっと「熊谷」の標識も見えてきた。そろそろ渋滞にハマるだろう……そんな覚悟をしていた。
沖縄だったら、帰り道まで含めて渋滞も花火大会の一部だった。花火を見る前に赤いテールランプを見て、花火が終わったあとにも赤いテールランプを見る。
だから熊谷でも、会場の場所はわからなくても、渋滞の先にあるくらいだろうとどこか達観していた。それなのに、道は一向に空いている。
思わず娘に「花火大会の日程、間違っとらんか?」と聞いてみた。どうやら今日らしい。浴衣姿のお姉さんも見えない。とりあえず会場の近くまで走ってみると、駐車場もあった。花火があがる三十分前である。
ナビは二時間四十七分。途中、コンビニで休憩を挟んだりして、結局四時間かけて埼玉大陸を縦断してきた。それでも最後は、異様にあっさり上陸した。

帰りしなはもっと警戒した。
一万発の花火が終わり、大勢の人が一斉に帰る。今度こそ道路は動かなくなるだろう。
渋滞にハマることなく帰れた。行きしなと同じく四時間かかったけど。
沖縄で培った「花火会場へ車で行ったら終わり」という常識は、熊谷の河川敷で静かに崩れた。
考えてみれば、電車で来ている人も多いのだろう。東京に来てから一年以上経っても、僕はまだ「人が集まる場所には車も同じ数が集まる」という沖縄仕様の感覚を引きずっているらしい。
帰宅後、改めて地図を眺めてみた。
「熊谷って、こんな北にあったんや」
よくニュースで「暑さ日本一」と話題になってたし、もっと南にあると思ってた。それなのに、すぐ上に栃木県。僕の人生北上マップは今日でだいぶ更新された。
それを娘に伝えたら「上は群馬県」と突っ込まれた。パパの北関東に関する知識は、春日部のしんちゃんから一歩も進んでいない。

