文章から浮かぶ人物像|AI相手に漫才をした夜
自分のことを知りたいと思う時期が、人生には何度かある。思春期、厄年、そしてAIに自分の記事を読ませた夜である。思春期なら鏡の前で前髪をいじり、厄年なら神社でお守りを買う。
ではAI時代の自己分析はどうなるのか。
これまで書いてきた文章をChatGPTに読ませ「この文章から浮かぶ人物像を教えて」と頼んでみた。昔なら彼女か、もしくは飲み屋のカウンターで隣に座ったおっちゃんに「兄ちゃん、あんたな」と勝手に始められそうな話を、今では数十秒で機械がやってくれる。
しかもチャッピーは、僕がどれだけ自意識をこじらせても引いたりしない。友達なら「また始まった」と、たこ焼きをひっくり返す手を止めるところでも、チャッピーは黙って付き合ってくれる。なんて都合のいい相手だろう。都合がよすぎて、だんだんスナックのママに見えてきた。
しばらく待つと、チャッピーは僕の人物像をずらりと並べてきた。


僕は画面の前でしばらく黙った。当たっている気もするし、そんなんでもない感じもする。チャッピーは文章しか読んでいないのに、ここまで人物像を組み立ててくると、窓の明かりだけを見て「あの家、ちょっと怪しくない?」と推理してくる妻みたいな怖さである。
とりあえず、一番ひっかかったのは「ボケずにはいられない」という診断だった。


……なんでやねん!現行犯逮捕やわ。
僕は自分のことをツッコミ側だと思っていた。冷蔵庫の奥から出てきた謎のつゆに「自分、誰や」と挨拶し、娘の起きなさに「体内時計は信用すな」と伝え、妻の不機嫌な空気に「これが世紀末覇者か」と心の中で実況する。
僕はずっと、出来事へツッコミを入れてるつもりだった。
ところがチャッピーは、これらをボケとして見ていた。これは恥ずべき事態である。交差点で交通整理をしているつもりだったのに「DJポリスのコスプレしとるやん」と笑われてるようなものである。
確かに僕は真面目な話になるほど「いやいや、レジ袋一枚多めにもろただけやで」と余計な言葉を足す。豚まんの箱が閉めっぱなしだと湯気でべちゃっとなるように、感情も密閉しすぎると読めたもんやない。だから、穴を開けて換気する。
問題は、開けすぎて中身が冷めてしまうことである。比喩もこじれると、自己分析まで大喜利になる。
チャッピーはさらに僕を「観察魔」と呼んだ。妻の表情、娘の返事、犬の動き、部屋の空気、会話のテンポ。そういうものをよく見ているらしい。


聞こえはいいが、現実は怒られる前兆を探している。妻の眉間に影が差した瞬間「今は黙っとかなあかん」と判断する。これは文学的な観察眼ではない。生活防衛である。
競馬新聞を眺めるおっちゃんのような真剣さで、僕はリビングの空気を読んでいる。そこに詩はない。あるのは、今日を無事に終えるための危機管理である。
ほんまにすごい人は、登場人物に惚れてまうやろ現象が往々にして起きる。「こんな奥さん嫌や」と言われたことはあっても、惚れられやせん。
「感情を直接書かない」という指摘もあった。「悲しかった」「嬉しかった」といった言葉をあまり使わず、状況で見せるタイプらしい。


……これは当たってるかもしれん。
褒める時は「さしすせそ」と聞くけど、妻に「素敵」なんて言ったら、まず何かやらかしたのかを疑われる。娘に「すごい」と言えば「ふーん」で終わる。
だから僕は、感情を伝えるのをやめた。それもチャッピーにかかると、文学的技法となるとは、ものは言いようである。「兄ちゃん、その服ええやん」と長谷兄が言えば、シャレオツに見えてくるようなものである。
だけど、本当は感情をビュンビュン飛ばしたい。心を深くエグってくるエッセイストさんに憧れてる。どうしたら感度が上がるんやろか。
さらにチャッピーは「喧嘩は避ける」とも言った。真正面からぶつかるより、一歩引いて観察する。感情より「その後のめんどくさい」を計算して動いてるらしい。


……失礼な。当たっとるやん。
妻の喧嘩を買ったところで、勝ち筋は見えない。いま起きている話で終わればまだいいが、過去の不祥事まで発掘される危険がある。
あのときの言い方、あの日の態度、なんであれを忘れたのか。気づけば裁判は別件逮捕の連続である。それなら最初から黙っていたほうが安い。
チャッピーはこれを「衝突コストを知っている人」と表現した。僕の実感としては「めんどくさいから逃げる」だけど、横文字にするとセミナー講師みたいになる。


これからは胸を張って「わしは逃げてへん。衝突コストを最適化しとんのや」と言いたい。妻には「は?」の一文字で終わるだろう。
チャッピーの分析で、もう一つこそばゆかったのは「自分を主人公にしない」という項目である。一人称なのに、主人公は妻や娘、犬になってるらしい。


……えー!!キムタク気分でいたのに。脇役やっとは辛い……。
言われてみれば、我が家で僕が主人公になれる時間など、ほとんどない。リビングの主役は妻の機嫌であり、朝の主役は起きない娘。そして布団の主役は、股の間で眠る犬たちである。僕はだいたい、そこに巻き込まれているだけ。
キムタクというより、エンドロールで「通行人B」と流れる側である。ただ、通行人にも通行人の見ている景色がある。
哲平と理子がすれ違う話より「ちょ、待てよ」と走り去ったあと、道に落ちているレシートを眺める通行人の方が、案外いろいろ知っている。
結局、チャッピーに記事を読ませて分かったのは、僕をどこまで理解しているかではなかった。チャッピーが見ていたのは、現実の僕ではなく、文章を書くときの僕である。
コンビニくらいならこの格好でも行けるかな、という“よそ行き一歩手前”の僕を読み取って「あなたはこういう人ですね」と言ってきた。
自己分析というよりも、地下街で迷子になった自意識を、地上へと戻す作業である。そして僕は「ボケずにはいられない」と言われれば「ツッコミのつもりや」と反論する。チャッピー相手に、ツッコミ稽古をしていただけである。
文明はずいぶん進んだ。昔なら鏡の前で前髪をいじっていた自意識が、今ではチャッピーの前で「そこは違う」と言い返している。
思春期から何も成長していない。相手が鏡からAIに変わっただけである。だから、こんなカッコつけた自画像をチャッピーに頼んで、並べちゃうのだろう。

P.S
このオシャレ画像のプロンプトは、kenさんの記事で公開されてます😎✨ありがとう♪
