ゴメンね、素直じゃなくて
褒めて育てたい!
……とは思ってる。心の中では「すごいやん」と言えても、口から出る言葉はだいたい「はよ、起きろ」である。褒めたい気持ちは玄関まで来ているのに、口を開けば「月に代わっておしおきよ!」
ゴメンね、素直じゃなくて。
私は男兄弟で育ったので、セーラームーンは月に置いたまま大人になった。『ムーンライト伝説』もなんとなく聞いたことある程度で「ゴメンね 素直じゃなくて」から先は、月明かりに照らされたようにぼんやりする。カラオケで誰かが入れたら、最初の一節は全力で乗っかり、それ以降は月の裏側へ避難するくらいの知識である。
そんな私も、娘が生まれたことがきっかけでセーラームーンを見ることになった。我が家のテレビ番組表は、娘の成長に合わせてどんどん塗り替わる。
王道のアンパンマンから始まり、仮面ライダーが来た。変身ベルトの数だけ財布が軽くなり、パパはトイザらスで必殺技より強烈な価格表示をくらった。その後、アイカツやプリキュアが来た。
娘はアニメやヒーローと一緒に大きくなり、パパはその横で、毎年のように知らない世界の基礎講座を受けていた。いつの間にか変身アイテムの名前を覚え、必殺技のタイミングを覚え、映画館で配られる光る棒を振る係になっている。
セーラームーンと出会ったのは、娘が小学生くらいの頃だったと思う。ユニバーサル・スタジオ・ジャパンにセーラームーンのアトラクションが登場した。
娘は「行きたい!」と言った。ただ、娘もパパも「ゴメンね 素直じゃなくて」までしか知らない。さすがにそれでは月の王国に失礼である。予習のつもりで娘と一緒に、セーラームーンの履修が始まった。
娘は楽しそうに見ていた。平成も終わりかけていた頃、遅ればせながら「月に代わっておしおきよ」のブームが我が家にもやって来た。パパは変身ポーズを見ながら、ひそかに「水野亜美」を娘に重ねていた。落ち着いていて、賢くて、品があって、勉強ができる。あんな感じで育ってくれたら、パパとしては安心である。
ところが、現実は月野うさぎだった。
朝は起きない。何度声をかけても、布団の中で、月の王国より深い眠りについている。学校の時間は迫っているのに、時空の流れが違う。ようやく起きたと思えば、時間は危険水域に入っている。そこからの動きは、もはや変身シーンである。洗面所へ行き、制服を着て、髪を整え、何かを口に入れ、あっという間に玄関へ向かう。毎朝、変身バンクが長すぎる。
勉強している姿も、見たことがない。机は化粧道具だらけで、教科書を置く隙間もない。パパの目には、数学の公式よりスマホ通知の方が輝いて見えた。
運動も苦手である。水野亜美計画はどこへ行ったのか。机に貼った見えない設計図は、いつの間にか銀水晶の光で燃え尽きた。
さらに図々しい。ある日、娘は妻に怒られて家から締め出されたことがあった。普通ならしょんぼりする場面である。反省の色を浮かべ、扉の前で静かに待つのが廊下待機の作法だろう。ところが娘は、廊下に立たされながら、カバンからパンを取り出していた。反省の色より食欲。そこに危機感はないのか。廊下に立たされて泣くのではなく、早弁しようとする。生きる力は異様に強い。
だけど、月野うさぎには月野うさぎの良さがある。根は素直で、人見知りをしない。知らない人の輪の中にも、すっと入っていく。
パパなら、まず妻の顔色を見る。場の空気を読みすぎて、入口で立ち止まる。娘はそこを、あまり深く考えずに越えていく。
学校の話を聞いていても、友達とのやりとりの中に自然に混ざっているのがわかる。勉強机に向かう姿は見えなくても、パパの知らない場所で、パパの知らない人たちと、自分なりの世界を作っている。
娘は高校生になった。もう、セーラームーンは見ていない。月に代わっておしおきもしてこなければ、タキシード仮面が現れる気配も……今のところない。
たとえ黒いマントの男が娘の前に現れたとしても、パパが玄関前でおしおきしそうである。
私は娘を水野亜美に育てたつもりだった。少なくとも、心のどこかではそう願っていた。けれど、完成したのは月野うさぎだった。それでも、月野うさぎは主人公である。完璧だから主人公だったのではない。泣き虫で、寝坊助で、勉強が苦手で、それでも人の中へ飛び込んでいくから、物語は動く。
その鈍感さと明るさは、パパが欲しくても持てなかった。だから結局、口から出るのは「はよ寝ろ」とか「明日の準備したんか」とか、そういう月の光を一切感じない言葉になる。
それでも、いつか娘は娘の世界へ行くのだろう。パパの知らないところで少しずつ自分の物語を進めている。パパはその全話を見れるわけではない。見れるのは、朝起きない回と、スマホを見ている回と、たまに廊下で早弁しようとする特別編くらいである。
これが我が家のムーンライト伝説。
ゴメンね、素直じゃなくて……そこから先は、今も曖昧なままである。その先の歌詞は、娘が歩いてきた物語と一緒に、いつか教えてもらおう。
