「5分で紹介」佐賀|「佐賀城」攻め
いざ!城攻めじゃあ!
全国各地にある城を攻めまくり、「天下統一」を目指すことにしたよ。
これは、そんな夢見がちな「足軽サラリーマン」の ”城攻め” の記録を5分で紹介する記事です!
こたびの戦で攻めるのは、幕末の雄藩でもある佐賀藩『佐賀城跡』です。
佐賀駅から南に2.5km、路線バスで10分ほど、徒歩でも30分程度の距離感に位置します。
現存する建物としては国の重要文化財である「鯱の門」(大手門)と続き櫓、遺構としては天守台、石垣、堀などが残っています。また城主居室の部材に一部当時のものが残っており、こちらも重文指定されています。
▪️佐賀城の攻めどころ
①佐賀城は前身の龍造寺氏時代の「村中城」を後の佐賀藩主を歴任する「鍋島」氏が改修したものです。広い堀を掘り、その土で土塁を盛って現存する形に大改造しました。
②建造当時は4層5重の大きな天守がありましたが、火災により消失。以後天守は再建されることはありませんでした。
この他にもせっかく再建した二の丸が再び火災で消失するなど、何かと火難の相が濃い城ではあります。
③もちろん日本百名城(No.88)に選定されています。
④最大の見どころはなんと言っても、復元された本丸御殿(佐賀城本丸歴史館)です!
破綻寸前だった藩の財政を立て直すべく立ち上がった若き藩主(10代、鍋島直正 公)が住居兼藩政拠点として建てたものを再現しています。
質素倹約を掲げた直正らしく、自室などは欅ではなく杉材、障子張りという、36万石の大大名らしからぬ質素な作りで、御殿の至る所にコストカットの努力の痕跡が窺えます。
ところが、目を見張るのは御殿の大きさ!
1000人の家臣が一堂に会した大広間、北と南に長い長い廊下!これらをバーンっと開け放つと、何とその大きさは320畳だというのですから驚きです。
それ以外に当時は藩政のための役人執務室が裏手にびっしりと配置され(今は広い芝生広場になっています)、まるで大迷路の様な感じでした。
※資料館に当時のミニチュア模型があります。
⑤ 重要文化財となっている現存「鯱門」は立派です。重厚な石垣門扉は圧巻です。明治維新期の佐賀の乱の戦場にもなり、その時の弾痕などが残っているそうです。
⑦城の西側の石垣などはいかにも城!と言った風景が見られます。
⑧本丸御殿の中は大きな資料館となっていてさまざまな史料、展示、ミニシアター、体験コーナーがあり、これが何と無料!しかも親切なボランティアガイドさん達がたくさんいらっしゃって、こちらも無料で付きっきりで案内してくれます。
では早速行ってみましょーっ!




この方あっての幕末佐賀藩と言っても過言ではない⁉︎





なぜ佐賀藩が幕末の雄藩となったのか?
それは代々長崎の守護を幕府から任され、西洋文化を目の当たりした鍋島氏が、誰よりも西洋の様な近代化が重要だと確信し、全国に先駆けて、藩をあげて反射炉や大砲などの国産化を推し進めたからです。
城の北西2kmほどの場所に鉄を大量生産するための「築地反射炉」の跡碑があります。(今回は行くことはできませんでした)






城主が実際に島原の乱の時に身に付けたものらしいです。


廊下?と思うくらいに本当に長くて広い。
左は大広間。







こちらの資料館のテーマは大きく①本丸御殿の再建について ②10代藩主鍋島直正公の偉業 ③衛藤新平の偉業 かなと思います。もちろん他にも沢山の資料がありました^_^




館内は本当に沢山の展示資料があり、1つひとつをじっくり読み込んで行くとかなり見応えがあります。10代藩主鍋島直正公の偉業や幕末騒乱に思いを馳せ、じっくり見てまわりました♪
「5分で紹介」「佐賀城跡」おしまいです。
石垣に刻まれた時間に、また1つ歴史の風を感じた日だったよ。
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佐賀城 ― 名君・鍋島直正の熱き志
天保六年(1835年)、佐賀城は炎に包まれた。
夜空を焦がす火柱は、二の丸を次々と飲み込み、百年余り藩政の中心であり続けた御殿は、あっけなく灰となった。
二十一歳の藩主、鍋島直正は、燃え落ちる城を黙って見つめていた。
家臣たちは口々に言う。
「まずは二の丸を建て直しましょう」
「財政は逼迫しております」
「本丸再建など夢物語にございます」
誰もが現実を見ていた。
だが直正だけは、未来を見ていた
享保の大火以来、本丸は百年以上も再建されていない。佐賀藩には、その余裕などなかったのである。
直正は首を横に振った
「本丸を建てる」
静かな一言だった
家臣は息を呑む
「城とは、石や木ではない。国の志を示すものだ」
その瞬間から、佐賀藩は変わり始めた。
直正が藩主となったのは十七歳。
しかし彼を待っていたのは栄光ではなく、借金であった。
江戸から佐賀へ向かう道中、品川で藩の行列は止められる。
米屋、薪屋、味噌屋…。
支払いを求める商人たちが行列を取り囲んだ。
「借金を返していただきたい。」
若き藩主は、自らの藩が日用品すら買えないほど困窮している現実を知る。
直正はこの屈辱を生涯忘れなかったという。
佐賀へ戻ると、直正は徹底した改革を始めた。
まず、自ら贅沢を断つ
藩士にも倹約を命じる
不要な役職を廃し、借財を整理し、人事を刷新する。
だが、それだけでは終わらない。
「倹約は国を守るための手段にすぎぬ。」
彼は人材を育て始めた。
弘道館を拡充し、藩士に学問を学ばせる。
能力ある者は身分にとらわれず登用する。
医学を学ばせ、西洋の知識を取り入れ、天然痘から子どもを守るため、自ら嫡男に種痘を受けさせた。
「まず我が子から。」
その決断は、多くの藩士の心を動かした。
世界は変わろうとしていた。
遠く中国ではアヘン戦争。
西洋列強の軍艦は、もはや誰にも止められない。
長崎を守る役目を負う佐賀藩は、この危機を誰よりも強く感じていた。
「学ばねば滅ぶ。」
直正は蘭学者を集めた。
反射炉を築き、大砲を鋳造する。
蒸気船を建造する。
海軍教育を始める。
誰も見たことのない新しい藩が、佐賀城から生まれていく。
本丸御殿には政治、軍事、技術、人材育成の中枢が集められ、城は単なる居城ではなく、近代国家への実験場となった。
やがて幕末が訪れる。
薩摩。
長州。
土佐。
そして肥前・佐賀。
「薩長土肥」と呼ばれる四雄藩の一角に、かつて借金で苦しんだ藩の名が並んだ。
戊辰戦争では、佐賀藩の最新鋭砲が新政府軍を支え、日本の歴史を大きく動かすことになる。
その礎を築いたのは、派手な武勇ではない。
改革であり、教育であり、科学であった。
明治四年(1871年)
鍋島直正は五十七年の生涯を閉じる。
彼が残したものは、一つの城ではなかった。
焼け落ちた佐賀城を再び本丸から甦らせたこと。
破綻寸前の藩を日本屈指の先進藩へ育て上げたこと。
そして、大隈重信、江藤新平、副島種臣、大木喬任、佐野常民ら、明治日本を支える多くの人材が活躍する土壌を築いたことである。
今も佐賀城本丸に立つと、広い畳敷きの御殿に風が渡る。
豪壮な天守はない。
しかし、そこには日本の未来を見据えた一人の藩主の志が、静かに息づいている。
城は石垣だけでは築けない。
人を育て、国を変えようとする覚悟こそが、真の城である――。
佐賀城は今なお訪れる人々に、直正が見た未来の国の姿を語り続けている。
