「5分で紹介」愛知|「清洲城」攻め
いざ!城攻めじゃあ!
全国各地にある城を攻めまくり、「天下統一」を目指すことにしたよ。
これは、そんな夢見がちな「足軽サラリーマン」の ”城攻め” の記録を5分で紹介する記事です!
こたびの戦で攻めるのは、あの「清須会議」で有名な「清州城」です。
「尾張の国」(愛知県清須市)にあり、「織田信長」が天下統一の第一歩を踏み出した城と言われています。また信長の死後、その後継者を決する話し合い、いわゆる「清州会議」の舞台にもなった、歴史ファン必見のお城です。
▪️清州城の攻めどころ▪️
①現在の清洲城は1989年に再建された「模擬天守」です。
②1405年に「斯波義重」公によって建てられましたが、その150年後(1555年)に「織田信長」が入城してきて約10年間居城としました。
③「織田信長」天下統一の足掛かりとなった「桶狭間の戦い」(1560年)もこの清州城から出陣しています。
④「本能寺の変」で信長が没すると、その後継者をめぐって「羽柴秀吉」(豊臣秀吉)と「柴田勝家」ら4人が激しく火花を散らし合った「清須会議」が開かれたのも有名な話ですよね。
⑤再建された天守な中は、シアターや刀剣甲冑、歴史資料などが数多く展示されていて、なかなかに見ごたえがあります。
⑥元々は現在の天守の目の前を流れる「五条川」の対岸に「天守」がありました。※つまり位置的には200m近く東(しかも川を挟んで対岸)に現在の天守が再建されたことになります。
※現在の天守から、だいたいこの辺りに旧天守があったよと分かる仕掛けがあります。
⑦「五条川」に掛かる朱色の「大手橋」、その向こうの「清州古城公園」とそこに建つ信長・濃姫像も攻めどころです。







城内は一切の撮影が禁止されています。
写真でお見せできませんが、「織田信長」だけでなく、この城に関わる多くの歴史的人物が紹介されています。各階に短時間で完結するミニシアターがいくつもあり、歴史を分かりやすく順を追って説明してくれます。
刀剣や甲冑などの展示も数多く、城内ミュージアムになっています。






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川と城と、若き虎
尾張の平野は低く、川が多い。
清洲城は、その川に囲まれた微高地に築かれていた。天守は高くないが、水と土が城を守る要であった。
天文三年(1534)。
城下に、一人の男児が生まれる。名は吉法師。後の織田信長である。
幼き日の信長は、城下を流れる五条川を見下ろしながら、しばしば城を抜け出した。武家の作法も、儀礼も、彼には窮屈だった。
「この城は、小さい」
少年は、誰に言うともなく呟いた。
やがて父・信秀が没し、清洲城は一族の思惑が渦巻く場となる。織田家は一枚岩ではなく、清洲は「本拠」でありながら、同時に「檻」でもあった。
守護代、奉行、重臣――城内では常に、誰が主かを巡る視線が交錯していた。
弘治二年(1556)。
稲生の戦い。信長は弟・信行と刃を交える。勝利してなお、清洲城の空気は重かった。
城は守ってくれるが、縛りもする。水に囲まれたこの城は、信長の野心にとって、あまりに狭かった。
永禄三年(1560)。
桶狭間の戦い。
清洲を発った信長は、戻ると城中に静かな確信を漂わせた。今や、尾張の覇者は自分だ、と。
だが彼は、城を拡げることを選ばなかった。
代わりに選んだのは「移る」ことだった。
永禄四年、信長は居城を小牧山へ移す。
清洲城は役割を終えたのではない。信長という男の器が、城を超えただけである。
後年、清洲城は関ヶ原後の「清洲会議」の舞台となり、天下人たちの思惑が再び集まる。
しかしその会議が導いたのは、城下町ごと名古屋へ移すという決定だった。
清洲は、川に囲まれた城。
名古屋は、台地に築く城。
水の城は、戦国を支え、
台地の城は、泰平を支える。
清洲城は、天下を夢見た若き虎を育て、そして手放した城だった。
----------------------------------「5分で紹介」 歴史が動いた大舞台「清洲城」おしまいです。
石垣に刻まれた時間に、また1つ歴史の風を感じた日だったよ。
