「5分で紹介」秋田|「久保田城」攻め
いざ!城攻めじゃあ!
全国各地にある城を攻めまくり、「天下統一」を目指すことにしたよ。
これは、そんな夢見がちな「足軽サラリーマン」の ”城攻め” の記録を5分で紹介する記事です!
こたびの戦で攻めるのは、秋田駅の目鼻先にある「久保田城」跡です。慶長7年(1602年)に出羽国に国替えとなった佐竹氏の居城です。現在は「千秋公園」となっています。
▪️久保田城の攻めどころ▪️
①関ヶ原合戦の際に東西どちらにも付かず中立を守っていた佐竹氏でしたが、逆に言えば合戦を制した徳川家康に積極的に協力しなかったと睨まれた。江戸から近い常陸太田(茨城県)という拠点が家康にとってリスクがあり、1602年に出羽国秋田へ国替えを命じられてしまいます。以後、源氏の名門佐竹氏の居城となります。
②現在は「千秋公園」となっていますが、かつては神明山という小高い丘の上に築かれた平山城でした。特徴としては、石垣を用いず土塁と堀が巡らされ、当初より天守を築かない城でした。財政的な理由、幕府への負い目もあったと言われています。
③「日本百名城」(No.9)に選定されています。
④市政100周年を記念して「御隅櫓」という立派な櫓が再建され、お城っぽさを醸し出しています。
では早速行ってみましょーっ!

かわえー。

AK❤︎TA文字モニュメント。













登ってみましょう!


櫓と言っても、普通の城なら天守に匹敵するくらい立派だなぁ。かつては武器庫の役割だったとか。




「5分で紹介」「久保田城」跡おしまいです。
石垣に刻まれた時間に、また1つ歴史の風を感じた日だったよ。
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慶長七年(一六〇二年)。
佐竹義宣は長年治めた常陸の地を離れ、遠く出羽へ移ることとなった。
関ヶ原の戦いで西軍にも東軍にも明確に与しなかった曖昧な態度を、徳川家康は見逃さなかった。五十四万石を誇った佐竹家は二十万石へ減封され、佐竹は新たな領地へ向かわねばならなかった。
秋田の地に立ったとき、目の前に広がるのは深い森と湿地、そして雄大な日本海であった。
「ここから、やり直すのだ。」
佐竹は家臣たちに命じ、高台に城を築かせた。それが久保田城である。
石垣も天守も持たぬ城。しかしそれは貧しさゆえではない。雪深い北国での維持を考え、土塁と堀を主体とした実戦的な城であった。華美な城よりも、領国を守る城が必要だったのだ。
工事が進むにつれ、城下町にも人が集まり始めた。武士町、町人町、寺町が整えられ、やがて久保田は秋田の中心として形を成していく。
佐竹は本丸から町を見下ろした。
常陸を失った悔しさが消えたわけではない。しかし、ここには新しい佐竹家の未来があった。
「この北の地を豊かにしよう。」
その願いは子や孫へ受け継がれた。
そして二百六十年以上にわたり、久保田城は佐竹氏の居城として秋田を治め続けることになる。
失った地への未練を抱きながらも、新たな国づくりへ歩み出した――それが、佐竹氏が久保田城に込めた私の決意であった。
