「正義感」(創作物語)
正義感がある人だと聞いて、皆さんはどんな印象を持つでしょうか?
多くの人はよい印象を持つのではないでしょうか。素晴らしい人、筋が通った人、真面目な人。
自分の正しいと思ったことをやり通そうとするなんて、すごい。
でも果たしてそうでしょうか。
正義感ほど恐ろしい感情はありません。正義感には罪悪感がないですから。抑止するものがないとエスカレートしていきます。正しいことだったら、大いに結構だと思うでしょうが、人によって、時代によって正しいと思うことは違いますから。
(どけどけー! ぼっとしてんじゃねーよ! 勘吉さまのお通りだーい)
心の中で威勢の良い言葉を吐いているが、足取りは遅い。
勘吉は、七十になろうかというお爺である。
勘吉は町を歩くことを日課にしている。町が自分中心に回っていると思っている。主役がいないんじゃ始まらない。使命感から町をさまよっている。
魚屋の前で足が止めた。
店主がなにやら激しい動きをしている。
(なんだ、なんだ。)
店の前にいた犬を棒で追い払っていた。
勘吉はただただその様子を見ている。目にその光景を焼き付けるように、瞬きもせず見ている。
犬が逃げていくと、勘吉もその場を離れた。
そしてその足で奉行所を訪れた。
「はぁはぁ、お奉行様! 生類憐みの令の禁を破っているものを見やした!」
勘吉は犬が棒で追い払われた様子をつぶさに伝えた。
「それで、犬は棒で叩かれたのかい?」
実際に棒で叩かれていたかというと、当たってはいないが……。
「当たってやした。お犬様の毛並みにファーと棒が当たってやした。」
「かすったってことかい?」
「かすったていうか、当たったというかー」
奉行所の人はしばらくの間の後、言った。
「そうか。まぁ、それぐらいだと罰することは難しいな。とりあえず、報告ありがとな。」
話を打ち切られ勘八は焦った。
「いやいや、お犬様はすごいびっくりした顔してたんじゃ」
「表情は関係ない」
「あるある。大あり、大あり、あおおりくい」
「うるさい。だまれ。帰れ」
「冷たいなー。旦那」
「お前も棒で追い払ってやろうか」
「そんな、お前も蝋人形にしてやろうか、みたいな言い方しないでくだされ」
「訳がわからん。帰れ」
勘吉は奉行所から追い出されてしまった。
(どけどけー! ぼっとしてんじゃねーよ! 勘吉さまののお通りだーい)
心の中で威勢の良い言葉を吐いているが、足取りは遅い。勘吉は、ただただしがないお爺である。
勘吉はある男と女を見つめていた。
あれは梅蔵とお政じゃねーか。
二人が微笑ましい顔して挨拶しやがった。梅蔵とお政にはそれぞれ妻と夫がいる。
おいおい、これはいけねーぞ。あいつらできちまってるんじゃねーか。
勘吉は固まって、地面を穴が開くほど見つめていた。
許せねー。不倫しやがって。
あいつらを懲らしめるためにどうしたらいいものか。
梅蔵には夢がある。剣術を極め、自分の道場を開き、流派を作ることだ。そこための努力は惜しまない。日が昇る前、暗闇で木刀を振る。日が昇る頃には玉のような汗が煌めいている。
お政には夢がある。読み書きや裁縫などを近所の子供に教え、学びの場をつくることだ。そのための努力は惜しまない。貧しい子供たちから銭を取るわけにはいかない。それを運営できる地盤を築かねばならない。未来を見つめるお政の目は煌めいている。
勘吉には全く夢がない。ただただ生きてきただけである。たいていの人に勝てるものといったら歳の数だけである。
勘吉は考えた。二人のそれぞれの妻と夫に告げ口してやろう。直接知らせるだけじゃ、つまらねぇ。噂を流して、耳に入るようにしてやろう。
「知ってるかい。梅蔵とお政はできている。それぞれ妻と夫がいる身だぜ。許されない許されない。お天道様が見ているぜ。江戸の民が許さねぇ。」
勘吉は飲み屋で話し、張り紙をしたり、民家の戸口に書いた紙を放り込んだりした。
毎日毎日した。
こういう努力をする奴はあまりいない。じわじわと噂は広がった。同調する奴を取り込んで。人は噂が好物である。
数ヶ月後に梅蔵とお政は、町から消えた。ある時は、罵声を浴びせられ、石をぶつけられることもあった。人の集団心理は残酷である。
勘吉は、ほくそ笑んでいた。悪を退治してやった。正義は必ず勝つのだ。
勘吉はかつてない高揚感を覚えた。
自分の正義が相手を打ち負かした時、人は最も興奮し、満足し、幸福感を得るという。
また勘吉は人間の集団心理の力を知った。一人が拍手する音と百人が拍手する音は大きさが違う。一人が正しいと言ってもダメなことはあるが、百人が正しいと言えば真実になる。
江戸っ子は噂が好きである。聞くのも好きだし話すのも好きだ。
(どけどけー! ぼっとしてんじゃねーよ! 勘吉さまのお通りだーい)
心の中で威勢の良い言葉を呟いているが、勘吉の足取りは思い。同じ年齢のお爺からその父親に間違えられたこともあるほど老けてみられるお爺である。
ある日、町を歩いていると、白髪で杖をついた女から声をかけられた。
「ねぇ、あんた」
(なんだ、このババアは……)
「あんたの未来が幸せになりますように。」
(なんだ、このババアは……)
女は目をつぶり、手を広げると呪文のようなものを唱えた。
勘吉は走って逃げた。お爺だから普通の人には走っているように見えなかったが、本人としては全力疾走していた。
勘吉は人気のない路地にたどり着いた。
「はぁ、はぁ。ここまでくれば大丈夫だろう。」
(しかし、なんだあのババアは。幸せになりますように、とか言って。)
(まぁ、悪いことやってるわけじゃないんだけど、なんか気持ち悪いな。面と向かってあんなことやられたら怖いしな。)
正義感の強い勘吉はみんなの幸せを常日頃から願っていた。
(しょうがない。みんなが幸せになるように俺がやってやるか。あんな変なババアがやったら、いいことも悪いことに感じてしまうわ。)
勘吉は傍から見たら十分変な奴である。それは棚にあげる。脚立を使って背伸びしないと届かないほど高い棚にあげている。
勘吉は町中でさりげなく、手紙を落とした。
落とした手紙にはこう書いてあった。
この手紙を拾った人へ
あなたには幸運が訪れるでしょう。おめでとうございます。あなたは何を望みますか? 金運に恵まれることですか? 健康で長生きできることですか? 色々お望みはあるでしょう。それは叶います。おめでとうございます。
この手紙を書き写して、たくさんの人に渡してあげてください。みんなで幸せを分かち合いましょう。
勘吉は町中にこの「幸せの手紙」に溢れると思った。しかし、待てど暮らせど、進展が見られない。
(なんだよ。みんなを幸せにしてやろうってのに)
業を煮やし、手紙に次の内容を継ぎ足した。
この手紙と同じ内容を二枚書き、それぞれ人に渡るようにしなさい。
そうしないと不幸が訪れます。 かしこ
時が経つと手紙は大いに広まった。
勘吉は満足した。これで皆に幸せが訪れるであろう。
「どけどけー。 ぼっとしてんじゃねーよ。勘吉さまのお通りだーい」
人に聞こえないくらいの声量で威勢の良い言葉を吐いているが、足取りは遅い。
勘吉はいつ死んでもおかしくないお爺である。
勘吉は貧乏である。その日食うことにも困っている。
ある日、腹減ったなーと家でじっとしていると、老婆が野菜など食べ物をたくさん持ってきた。
「息子がお世話になりました。感謝の気持ちでございます。受け取ってくだせぇ。」
(なんだ、なんだ。日頃の良い行いが、食べ物で帰ってきたのか)
勘吉が遠慮すると思ったのか、老婆は話し出した。
「息子がお犬様に襲われて困っていると、お犬様に石をぶつけて、息子を助けてくれましたのはあなた様でごさいますね。」
「そ、そんなわけ、ねぇーだろ。」
(あぶねぇ。犬ころに石ころぶつけたなんてなったら、捕まっちまう。確かに昨日急に飛び出してきた犬ころにびっくりして転んだ腹いせに隠れながら石ころを投げたけど。)
「分かっております。正しいことを正しくできないご時世でございます。これはただのお裾分けでございます。」
そう言うと老婆は出て行った。
勘吉はホッとした。
(あの様子なら他の奴に話をする心配はないだろう。食べ物だけが手に入ったわい)
その日、勘吉は腹一杯のご飯を食べ、幸福感に満たされていた。
こんな日が続けばいいのに。
こんな日が続く。
こんな日が続くようにしよう。
勘吉は決意した。お腹いっぱいに食べれるよう努力をする。
次の日から犬に襲われている若者を探した。懐に石を入れて。
真面目に仕事をしようとかせず、心は入れ替えないのが勘吉の良いところでもある。人間には変わらないという選択肢もある。
「どけどけー! ぼっとしてんじゃねーよ! 勘吉さまののお通りだーい」
小さな声で威勢の良い言葉を吐いているが、足取りは遅い。
勘吉は、どうしようもないお爺である。
「おい、おめぇ。」
勘吉の前にガタイの良い若者が立ち塞がった。
勘吉は心臓がキュッとなった。ただ人目もあるし、いつもの自分を曲げるわけにはいかないから、精一杯平常心を保ちながら言った。
「とけ、とけ。ほっとしてんしゃぇょ」
蚊の鳴くような小さい声だった。
「はっ?なんだって」
モスキート音は若者には聞こえるというが、蚊の鳴くような声は聞こえないようだ。
「すんません。なんでもねぇっす」
若者を避けて通り過ぎようとするが、さらに立ち塞がり行かせてくれない。
「お前なんか人相悪いな。泥棒か?」
「違いやす。決して」
おもっいきり走って逃げようとしたが、勘吉の全力疾走はすぐに追いつく。
「待てよ。逃げるな。」
首根っこを掴まれた勘吉は尻餅をついた。
胸ぐらを掴まれ凄まれた。
「おい、お前は何犯罪者だ?」
「いえいえ、善良な市民です。」
「却下だ。違う。放火魔か?」
「ち、違いやす」
「じゃあ、殺人者か?」
「ち、違いやす。なんで犯罪者前提なんすか」
「何かお前臭うんだよな。おれは今まで自分の嗅覚で悪人をたくさん捕まえてきたんだ。」
「そんな、あっしは悪いことなんて一度もしたことありやせん。あっしは悪いことをする輩が許せない男なんでやす」
「まぁ、とりあえず一発殴らせろ」
「そんな、殺生な」
路地裏に連れて行かれた勘吉は宣言通り、一発殴られた。勘吉は顔を殴られた後、大の字になり、動くことができなかった。血も出たし、涙も出たし、尿も出た。
しばらく動けずに目をつぶって休んでいると何かが近くにいる気配がした。咄嗟に目を開けると、野良犬だった。
びっくりした。
「あっち行きやがれ。しっ、しっ」
勘吉は手で追い払った。
「びぁっ!!」
勘吉がいま発することが可能な最大ボリュームの声が出た。
こちらをじっと見ている子供と目が合ったのだ。
誰もいないと思っていたのに、誰かいた時はいつの時代もめっちゃびっくりする。
子供はただ無表情に勘吉を見ている。
その子供から感情を読み取ることはできなかった。
ビー玉のような目をしていた。
(気持ちが悪いガキだな)
子供の横を野良犬が通り過ぎる時、子供は「怖かったかい?」と声を掛け、頭を撫でた。
(やべ、また生類憐みの令のこと忘れてたわ。)
(でも、やましいことは何もない。直接触ったわけではないからな。)
寝っ転がりながら、子供に向かって手招きをした。
子供はビー玉の目をしたままゆっくり近づいてきた。
子供が好きそうな話をして、適当なところで追い払ってやろう。年齢で言ったら、六十くらい上だぞ。あしらうのなんて簡単簡単。
懐に菓子でもあったかな。寝そべりながら懐をまさぐっていると。
「わっ!」
子供が大きな声を出した。
「ひっ!」
勘吉はびっくりした。
そして怒って睨みつけた。
(体がまともに動けば、絶対ビンタしてたわ。)
(体が動かない分、目力でビビらせてやろう。)
しかし子供の目を見ていると怒りが吸い込まれるようだった。
怒りが全て吸い込まれると恐怖を感じるようになった。
しばらく沈黙が流れたあと、子供が喋った。
「おじいちゃん、お犬様いじめてましたね」
「いやいや、何もしてないって。」
勘吉はあせった、焦った。焦りまくった。
「手で追い払おうとして、叩いてましたね」
「叩いてないって」
「お犬様の毛並みがファッとなってましたよ」
「なってない!風だろ!風!」
「いや、お犬様の毛がファッとなって、すごく驚いた顔してましたよ。かわいそうだったなー」
「ちょちょちょ、待てよー! 表情は関係ないって。」
「 お犬様かわいそうだったなー」
「……」
「かわいそうだったなー」
勘吉はビー玉のような目に吸い込まれるような感覚を覚え、再び恐怖を感じた。
勘吉は自分の中の何かが体から抜け出してしまうような感覚となった。
寒い、無茶苦茶寒い。頭も痛い。
やばいと思った。認めないと。
「す、すまーん!」
「罪を認めるんですね」
「み、みとめましゅ、」
「ん?」
「ます。みとめまっす。」
「渋々ですが、認めたことは評価しましょう」
寝転びながら見上げていた子供の鼻の穴が少し広がった。それがどうしょうもなく腹が立った。
勘吉はもともと我慢とは無縁の男である。
「くそー!! このすっとこどっこい! 煮るなり焼くなり好きにしろ!」
子供は無表情のまま見つめている。
「このくそ坊主! まぬけ! バッー! バッー! ペッ! ペッ! ……」
子供は勘吉の顔にゆっくり手のひらを近づけると目を覆い瞼をとじさせるようにした。
死人を安らかに眠らすように。
ある人は言う。勘吉は正義感の塊のような男であった。
ある人は言う。勘吉は曲がったことが大嫌いなまっすぐな男であった。
だが、大抵多くの人はこう言った。
なんか嫌いだった。
嫌悪感しかない。
気持ち悪い奴。
人して最底辺だと感じた。
うじ虫と比較するべき存在だ。
この世に生まれたことを謝ってほしい。
勘吉よ。安らかに眠れ。人の評価は様々だ。
〈了〉
