赤ネクタイ
僕の部屋に一つのネクタイが飾ってあった。否、飾りではなくかけてあっただけかもしれない。そのネクタイはなぜだか赤色だったのだ。
白い壁と不気味なほどにコントラストが合うので、僕はうっとりした。壁にかかっているそれを手に取って首へと回した。やはりこのネクタイは、白色と合うようで僕のこの白のワイシャツにも充分あっている。ネクタイを締めて、僕は鏡をじっと見つめた。
僕の日課は、しがないサラリーマンなので毎日の様に職場へ向かうことである。そこでの僕の立ち位置はというと、どちらかというと、窓際社員である。要は厄介モノ扱いを受けているのだ。なぜだかは分からないが、不当な扱いを受けている事だけは判断できた。
だが、今日の僕は少し違うのだ。なぜならこの赤ネクタイは僕の闘志を表している。今日こそはと息を詰めて扉を開いたのだ。これを纏ってさえいれば、何者かになれる気がして。
「おはよう、ございます」と僕はいつもよりも大きな声を出してみたが、どうやら今日も冷めた目を向けられて終わりであった。まあこれは、いつもの事なので気にしない様にする。僕は耳に栓を入れる様にして、下を向いた。いつもの通りに僕は窓際に座り外を眺めたのだった。
「今日は赤いネクタイなんですね、とても素敵です」と、同僚の一人が僕に声をかけたのだ。この良さがわかる人間もここにいたのか!まだまだ捨てたモノじゃない
「でしょでしょ、すっごく素敵だよねえ
僕も赤はすきなんだ」
「ネクタイの色を選ぶ時間が合って、羨ましい限りですよ」
今日の業務も終わりぼくは、帰る事にした。元々仕事など僕には正当に振り分けられてはいないので、終わりが早いのは当然である。だが、今日は心なしか周りの人間が優しく感じるので、何かあったに違いないとめくじらを立てている。それさえがわかればぼくはきっと、ほんの少しだけ馴染む事ができるであろうから。帰宅をする前に僕はお手洗いへと向かった。用を足すのではなく、会社を出る前に自慢のこの赤ネクタイを見ておきたかったのだ。
だって今日は記念日だからだ。この赤ネクタイを着けて初めて会社へ行ったという特別な日なのだ。この神々しい赤ネクタイの良さが分かっているのは僕と今朝話しかけてきたあいつだけである。この赤ネクタイから新たなご縁が出来たことを祝福したい。
「なあ、お前なんであの芋虫野郎に声かけたんだ?」
「しかも、赤ネクタイかっこいいとか
馬鹿にしに行ってるだろ」
「そりゃするだろ、バカをバカにして何が悪いんだよ」
「だよな、お前まで頭狂ったかと思ったわ」
「おいおい、あいつと一緒はマジ勘弁
怒るぞ」
「冗談だって、まじになんなよ」
どうやら、この日は祝福の日なんかではない様だ。先ほどまでに聞こえていたはずの鳥の囀りも嘲りに感じた。
僕はこの赤ネクタイをそっと首から外した。
これは鎖骨下に飾る必要がないと、そう判断したまでだったのだ。
今朝はあんなにもこれにうっとりとしていたはずなのに、今ではその魅力が感じられない体になった。やっと、僕を理解してくれるかもしれない人と出会えたと思ったのに。
僕は、人を信じすぎたのだろうか。この赤ネクタイは素敵じゃないんだ。素敵だと思う僕はおかしいのだろうか。それとも、この赤ネクタイは赤色じゃないのか。赤は皆んなが好きだって聞いたことがあったのに。老若男女に愛される正義の色のはずなのだ。この神々しい赤色は、僕には似合わないとでもいうのだろうか。ああ、そうだ。僕には恐ろしい程に似合わないのだ。僕には濁った赤色がお似合いさ。
この神々しい赤を濁らせたい。そうすれば、きっとこれは僕にお似合いの赤色のネクタイになる。お生憎に、僕には金もなければ赤インクも赤ペンも絵の具もペンキも何もないのだ。この家にある赤は、もはや赤ネクタイと僕位なのだ。僕はふと思ったのだ。ないならば、出せばいいのだ、と。ほんの少しの量ならば、問題はない筈である。僕は歯が尖ったモノを手に取った。振り翳す時には、もはや恐怖という感情はなかった。もう今更そんなモノを抱かなかった。これは、おそらく動物としての本能が無くなり、社会に溶け込もうとする僕の意思がそうさせたのだ。思っていたよりも、赤くなったので僕は驚いた。
「こんなにもでるんだ」と。そう心から思ったのである。たが、それでも全部を染める為にはバケツ一杯分の量は必要不可欠なので、まだまだ足りていないのが現実である。
それがどんなに体に悪影響なのかを知った上で僕は、もう片方の腕を切りつけた。この時も痛みは無かった。今度は先程よりも深く切りつけたので、勢いよく飛び出てきた。赤黒かった。凄く鉄の匂いがした。臭かった。
ダラダラとダラダラとただ流れた。
そこに恐怖心はない。
そこに快楽もない。
あるのはただの人間としての尊厳だ。
クラクラしてきた気がする。赤ネクタイを作る為に集中をしすぎた結果だろうと、軽く受け止める事にした。バケツ一杯までは、行かなかったが多く集められた。そこにあの赤ネクタイをぼちゃんと入れた。くるくる回してみた。
ふと、小学生の頃に周りの皆んながぞうきんをバケツに入れて楽しそうにやっていた“洗濯”という名の渦を作った。
「みんな、洗濯やってるからここに入れて」
「あ、今右回りにしてるから、邪魔しないで!」
その洗濯の渦では、汚れが落ちたかは確認できなかった。
赤ネクタイは、数日後にはカピカピになって黒くなっていた。
