短編小説『月下の芙蓉 後編』 unit status:deleted
芙蓉は夜に咲く。
誰も見ていなくても咲く。

月下の芙蓉 後編
司令部の建物は、朝でも暗い。
窓はあるのに、光が入らない。
ここでは太陽も、階級章の許可が要るらしい。
バンバは帽子を被らないまま、廊下を歩いた。
飛行靴の音が、やけに大きく響く。
さっきまで缶詰を叩いていた指が、まだ少し油臭い。
扉の前で止められる。
「第百三独立小隊、隊長バンバ。入れ」
中は広かった。
地図、図面、黒板、赤鉛筆の線。
空は、ここでは全部「数字」だった。
机の向こうに、三人。
誰もバンバを見ない。
書類だけを見る。
「……第百三独立小隊」
最年長らしい男が、淡々と読み上げる。
「昨夜の攻撃、命中を確認した。だが戦況は変わらん」
紙を一枚、置く。
「次の命令だ」
バンバは敬礼しない。ただ、立っている。
「敵高々度爆撃機、B29。迎撃困難。通常邀撃、効果薄」
一拍。
「よって 彗星による、体当たり攻撃を命ずる」
空気が止まる。
「高度一万メートル。帰還は考慮しない」
言い切りだった。迷いや感情はない。
バンバは、しばらく黙っていた。
やがて、口を開く。
「……なるほど」
それだけ。
「何か、質問はあるか」
バンバは一瞬だけ考えて、首を傾げた。
「サンマの缶詰、次はいつ配給だ」
沈黙。
若い参謀が顔を上げる。
理解できないものを見る目だ。
「……それは、命令とは関係ない」
「そうか」
バンバは頷いた。
「なら、質問はない」
一礼もせず、踵を返す。
背中に声が投げられる。
「英雄的行為として、記録されるだろう」
「…..ふん」
バンバは立ち止まらない。
廊下に出ると、外はやけに明るかった。
空は青い。雲もある。今日も普通の空だ。
バンバは呟く。
「……帳尻、合わねえな」
それだけ言って、歩き出す。
滑走路の端で、ボロい鉄の塊が、黙って待っていた。
『ドタ靴一号』の影で、ヤスは工具箱をいじっていた。
直す気があるのか、触ってるだけなのか、自分でも分からない手つきだ。
「……隊長」
声をかけたのはヤスのほうだった。
振り向かない。でも、来たのは分かっている。
「司令部、どないでした?」
バンバは機体の腹を一度、軽く叩く。
返事の代わりみたいに。
「次の仕事だ」
「……はい」
ヤスは笑おうとした。
昨夜の続きみたいに。
でも、口角が上がらない。
「今度の目標はな」
バンバは空を見上げる。
「B29だ」
ヤスの手が止まる。
「……迎撃、ですか」
「特攻だ」
短い言葉。
逃げ道のない音。
ヤスはしばらく黙っていた。
それから、ゆっくり息を吸う。
「……ああ、そうきましたか」
乾いた声だった。
さっきの朝飯の賑やかさが、遠い。
「高度一万」
バンバが続ける。
「帰還は考えない」
ヤスは笑った。
でも、それは笑顔じゃない。
「人生、帳尻合う言うたばっかりやのに」
眼鏡を外し、袖で拭く。
「合わんもんですね」
バンバは何も言わない。
「神様、おらん言いましたけど……」
ヤスは空を見た。
昼間のよくある青。
「おらんほうが、ええですわ。おったら、文句言わなあきませんもん」
沈黙。
風が吹いて、
機体のどこかが軋んだ。
「ヤス」
「はい」
「嫌なら降りろ」
それだけ。
ヤスは少し驚いた顔をして、それから肩をすくめる。
「今さら、どこ行け言うんです?」
笑う。
今度は、ちゃんとした笑いだ。
「ワテ、隊長の後ろが一番長生きできそうや思てましたのに」
「……ああ」
「まあ、しゃあないですわ」
工具箱を閉じる。
「どうせなら、最後まで見届けます」
バンバは頷いた。
「そうか」
それ以上、何も言わない。
ヤスは眼鏡をかけ直し、『ドタ靴一号』を見上げた。
「なあ隊長」
「なんだ」
「サンマの缶詰」
にやっと笑う。
「次、ちゃんと生きて食べましょ」
バンバは一瞬だけ、空じゃなく、相棒を見た。
「……ああ」
約束でも、誓いでもない。
ただの事実みたいな返事。
それで十分だった。
夜は、昨日と同じ顔をしていた。
星も、雲も、何ひとつ変わらない。
変わったのは、命令だけだ。
『ドタ靴一号』の前で、ヤスが無言で搭乗する。
いつもより動きが丁寧だった。
急がない。
急ぐ必要がない夜だから。
「高度一万かぁ……」
独り言みたいに呟く。
「酸素、足りまへんで」
「足りなきゃ、足りないなりにやる」
バンバはエンジンカウルを閉める。
「俺たち、いつもそうだろ」
ヤスは笑った。
「ほんまや。足りたこと、ほとんどないですわ」
滑走路の端。
照明が落とされる。
遠くで、芙蓉部隊の迎撃機が待機している。
あちらは編隊。
こちらは、いつも通り一機。
整備班長が近づいてくる。
何か言おうとして、やめた顔だ。
「……帰ってくるなよ」
「難しい注文だな」
バンバは言う。
「帰る気はある」
班長は鼻で笑う。
「相変わらずだ」
プロペラが回る。
黒煙。
咳き込むような始動音。
「エンジン良好!」
ヤスが叫ぶ。
「……まあ、いつも通り、ギリギリですわ!」
「上等だ」
滑走開始。
加速は鈍い。
腹に抱えた250番爆弾が重い。
ヨタヨタと離陸。
高度がなかなか上がらない。
高度九千八百。
空は、もう夜じゃない。
星は消え、月も薄れ、
かわりに、どす黒いまでの青が満ちてくる。
「……隊長」
ヤスの声が震える。
「もう、肺が笑ろてますわ。酸素、追いついてません」
「笑ってるなら、まだ大丈夫だ」
バンバは操縦桿を引く。
『ドタ靴一号』が悲鳴を上げる。
鉄が限界を訴える音だ。
前方
B29編隊。
巨大だ。
速い。
高い。
「……山やな」
ヤスが呟く。
「動く山ですわ」
照準線が、わずかに重なる。
だが、距離が足りない。
速度が足りない。
「正面衝突、不可」
ヤスが言う。
「これ以上は」
「分かってる」
その瞬間。
空の端、
オレンジ色の光が、再び現れた。
一つ。
二つ。
いや今度は、遠い。
並走しない。
ただ、見下ろしている。
OBSERVATION FEED : PACIFIC SECTOR
TARGET : FUYO CASE SUBJECT
STATUS : ACTIVE
PHENOMENON :LUMINOUS OBJECTS REAPPEARED
FORMATION : STATIC
INTERVENTION : NONE
ANALYSIS :SUBJECT ENTERING TERMINAL PARAMETERS
PROBABILITY OF SURVIVAL : EXTREMELY LOW
NOTE :BEHAVIORAL RESPONSE REMAINS CONSISTENT
NO FEAR DETECTED
NO DEVIATION OBSERVED
「……あれ」
ヤスが気づく。
「また、見てますな」
「見てるだけだ」
バンバは前を見続ける。
振り返らない。
「助けてくれへんですかね」
「期待するな」
光は、動かない。
ただ、記録するように静止している。
次の瞬間
激しい乱気流。
『ドタ靴一号』が跳ね上がる。
照準線が弾かれる。
「くッ……!」
B29編隊が、わずかに崩れる。
爆弾倉が、予定より早く開く。
黒い影が、ばらけて落ちる。
「……早投下や!」
ヤスが叫ぶ。
「散ってます!」
下方、
爆撃目標から外れた地点で、
爆炎が咲く。
直後
被弾。
右翼が裂ける。
計器が踊る。
「操縦不能!」
「まだ持つ!」
高度が急落。
速度も落ちる。
本来なら、ここで終わりだ。
OBSERVATION UPDATE
SUBJECT HIT CONFIRMED
STRUCTURAL FAILURE : RIGHT WING
CONTROL LOSS : IMMINENT
EXPECTED OUTCOME :CRASH OR MID-AIR BREAKUP
ANALYSIS STATUS :— NO FURTHER MODELING POSSIBLE —
だが。
『ドタ靴一号』は、
落ちきらなかった。
エンジンが、奇妙な粘りを見せる。
設計外の振動。
ボロだからこそ、壊れきらない。
「……なんやこれ」
ヤスが笑う。
酸欠で、声がかすれる。
「まだ、飛んでますわ」
「……ああ」
雲へ突っ込む。
視界ゼロ。
光は、そこで止まった。
雲の外に留まり、
追わない。
OBSERVATION TERMINATED
REASON :SUBJECT EXITED OBSERVABLE PARAMETERS
FINAL STATUS :ALIVE (UNCONFIRMED)
COMMENT :UNRESOLVED
夜が終わる。
雲を抜けた先に、朝があった。
落ちるように、這うように、
『ドタ靴一号』は帰る。
滑走路。
衝撃。
停止。
沈黙。
二人、しばらく動けない。
滑走路の向こうから、誰かが走ってくる。
怒鳴り声。
指差し。
書類を抱えた影。
評価。
処分。
戦果。
責任。
そんなものは、どうでもよかった。
バンバは、ただ立っている。
ヤスも、機体の影で肩を上下させている。
『ドタ靴一号』は、もう飛べない。
それでも、そこにある。
空は明るい。
昨日と同じ、何事もなかった朝だ。
バンバはボロ布のマフラーを外し、
油と煙の匂いの中で息を吐く。
「……生きてるな」
ヤスが、静かに頷く。
「ええ。それだけで、十分ですわ」
誰が見ていたか。
誰が記録したか。
誰が理解したか。
そんなことは、どうでもよかった。
芙蓉は夜に咲く。
誰も見ていなくても咲く。
そして今、
それが分かる人は、もう独りじゃない。

後日
ドタ靴一号を失ったバンバは、迎撃隊に編入され、零戦での出撃を命じられた。
エンジン始動の直前、息を切らしてヤスが駆け寄ってくる。
「なあ隊長。
特攻を発令した上官ら、転属になったみたいですわ」
バンバは、前を見たまま聞いている。
「司令官不在時での忖度やった、いう話でっせ」
一拍。
「……ふん!」
それだけだった。
月下の芙蓉 了
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