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超短編小説「3秒間のプリズム」

ある雨の日の青春。
約3分で読めます。




こぬか雨が、車窓を細く流れていた。

二次面接の帰り道。
ローカル線の座席で、僕はネクタイを少し緩める。

「あなたの強みは?」

面接官の声が、まだ耳の奥に残っていた。

準備していた答えは言えた。
たぶん減点もされていない。

でも、何も残らなかった。


六月。

友人たちのグループLINEには、
「終わったー!」
「来月ヒマ!」
そんな文字が並び続けている。

通知は切った。


ガタン、と車体が揺れる。

窓の外、線路脇の斜面が流れていく。

一面の紫陽花だった。

雨に濡れた青は、
古いフィルムみたいに静かで、
不思議と嫌いじゃなかった。

みんな先へ進んでいるのに、
自分だけ止まっている気がしていたから。


電車がカーブへ差しかかる。

その時だった。

青の中に、
ひとつだけ違う色が混じった。

薄い桃色。

たぶん、三秒もなかった。

けれど。

その色だけ、
雨に置き去りにされていなかった。

灰色の景色の中で、
そこだけ小さく呼吸しているみたいだった。


電車はカーブを抜ける。

桃色は消え、
また濡れた町並みだけが流れていった。

なのに、
胸のどこかだけ、
まだあの色に掴まれたままだった。


気づけば僕はスマートフォンを開いていた。

『アジサイ 色 変わる どれくらい』

検索結果には、
土壌の酸度とか、
石灰とか、
知らない言葉ばかり並んでいた。

『変化には時間がかかります』

その一文だけが残る。



電車が次の駅へ滑り込む。

扉が開く。

気づけば立ち上がっていた。

網棚の鞄を乱暴に掴む。

閉まりかけたドアへ身体を滑り込ませ、
ほとんど飛び降りるみたいにホームへ出た。

冷たい雨が顔へ当たる。

革靴が滑る。

発車ベルが鳴り、背中の向こうで
電車が動き出す。

なのに、胸の奥だけが、
まだあの桃色へ引っぱられていた。

階段を駆け下りる。

濡れたタイルで足を取られ、
危うく転びかけた。

それでも止まれない。

何をしているのか、
自分でもわからなかった。

ただ。

灰色の景色の中に浮かんだ、
あの小さな色だけが、
頭の奥に焼きついて離れなかった。

雨の高架下を抜け、
線路沿いの細い道を走る。

息が切れる。

スーツが重い。

ネクタイが喉に張りついて、
途中で引き抜くみたいに外した。

雨が首筋を冷たく流れていく。



やがて、あのカーブへ続くフェンスが見えてきた。

息を切らしながら近づき、僕は金網に手をかける。

「……あ」

そこには、確かに桃色の紫陽花が咲いていた。

一面の青の中、
そこだけ小さく灯っている。

車窓から見た時より、ずっと綺麗だった。

雨粒を抱えた花弁が、
重たそうに揺れていた。


その根元へ目を向けた。

土の色が違っている。

周囲より黒く、深く掘り返された跡がある。

踏み固められた跡もあった。

雨に濡れた白い粒も見えた。

誰かが、
何度もここへ来ていたのだと思った。

少しずつ。

時間をかけて。


その時、
紫陽花の向こう側を、
紺色のレインコートが横切った。

女性だった。

色褪せたビニール傘。

坂道を下るたび、
泥のついた靴が小さく水を跳ねる。

彼女はこちらを見ない。

ただ、
慣れた足取りで歩いていく。

声をかけようとして、
やめた。

あの泥は、
今日だけの汚れじゃない気がした。


僕はもう一度、
桃色の紫陽花を見る。

雨に濡れた花は、近くで見ると
青より少しだけ不器用な色をしていた。
まだ途中の色。

一次試験のあった先週。

本当にここは、
青だけだったのだろうか。

もしかしたら、
あの桃色は最初からあったのかもしれない。

ただ、
僕に見えていなかっただけで。



遠くで、
電車の走る音がした。

顔を上げる。

灰色の空の下、
銀色の車体が線路の向こうを滑っていく。

あの窓から見える桃色は、
きっと一瞬だ。

瞬きをしたら終わるくらい、
小さな色。

それでも。

誰かが、
ここへ来て、
泥だらけになりながら、
少しずつ土を触っていた。

その時間だけは、
たしかにここへ残っている。



僕は足元を見る。

革靴はひどく汚れていた。

裾には泥水が跳ね、
ほどいたネクタイは雨を吸って重い。

さっきまでなら、
こんな姿、
最悪だと思っていた気がする。


でも今は、
少し違った。


雨の匂いの奥に、
乾いた石灰の匂いが混じっている。


僕はもう一度、
桃色の紫陽花を見る。

雨粒を抱えた花弁が、
風に揺れていた。


たった三秒。

それだけだった。

なのに、
雨の向こうを見るたび、
もうあの色を探してしまう気がした。


僕は濡れた前髪をかき上げ、
駅への道を歩き出す。


背中の向こうで、
列車の音がゆっくり遠ざかっていった。



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