超短編小説「3秒間のプリズム」
ある雨の日の青春。
約3分で読めます。
こぬか雨が、車窓を細く流れていた。
二次面接の帰り道。
ローカル線の座席で、僕はネクタイを少し緩める。
「あなたの強みは?」
面接官の声が、まだ耳の奥に残っていた。
準備していた答えは言えた。
たぶん減点もされていない。
でも、何も残らなかった。
六月。
友人たちのグループLINEには、
「終わったー!」
「来月ヒマ!」
そんな文字が並び続けている。
通知は切った。
ガタン、と車体が揺れる。
窓の外、線路脇の斜面が流れていく。
一面の紫陽花だった。
雨に濡れた青は、
古いフィルムみたいに静かで、
不思議と嫌いじゃなかった。
みんな先へ進んでいるのに、
自分だけ止まっている気がしていたから。
電車がカーブへ差しかかる。
その時だった。
青の中に、
ひとつだけ違う色が混じった。
薄い桃色。
たぶん、三秒もなかった。
けれど。
その色だけ、
雨に置き去りにされていなかった。
灰色の景色の中で、
そこだけ小さく呼吸しているみたいだった。
電車はカーブを抜ける。
桃色は消え、
また濡れた町並みだけが流れていった。
なのに、
胸のどこかだけ、
まだあの色に掴まれたままだった。
気づけば僕はスマートフォンを開いていた。
『アジサイ 色 変わる どれくらい』
検索結果には、
土壌の酸度とか、
石灰とか、
知らない言葉ばかり並んでいた。
『変化には時間がかかります』
その一文だけが残る。
◇
電車が次の駅へ滑り込む。
扉が開く。
気づけば立ち上がっていた。
網棚の鞄を乱暴に掴む。
閉まりかけたドアへ身体を滑り込ませ、
ほとんど飛び降りるみたいにホームへ出た。
冷たい雨が顔へ当たる。
革靴が滑る。
発車ベルが鳴り、背中の向こうで
電車が動き出す。
なのに、胸の奥だけが、
まだあの桃色へ引っぱられていた。
階段を駆け下りる。
濡れたタイルで足を取られ、
危うく転びかけた。
それでも止まれない。
何をしているのか、
自分でもわからなかった。
ただ。
灰色の景色の中に浮かんだ、
あの小さな色だけが、
頭の奥に焼きついて離れなかった。
雨の高架下を抜け、
線路沿いの細い道を走る。
息が切れる。
スーツが重い。
ネクタイが喉に張りついて、
途中で引き抜くみたいに外した。
雨が首筋を冷たく流れていく。
◇
やがて、あのカーブへ続くフェンスが見えてきた。
息を切らしながら近づき、僕は金網に手をかける。
「……あ」
そこには、確かに桃色の紫陽花が咲いていた。
一面の青の中、
そこだけ小さく灯っている。
車窓から見た時より、ずっと綺麗だった。
雨粒を抱えた花弁が、
重たそうに揺れていた。
その根元へ目を向けた。
土の色が違っている。
周囲より黒く、深く掘り返された跡がある。
踏み固められた跡もあった。
雨に濡れた白い粒も見えた。
誰かが、
何度もここへ来ていたのだと思った。
少しずつ。
時間をかけて。
その時、
紫陽花の向こう側を、
紺色のレインコートが横切った。
女性だった。
色褪せたビニール傘。
坂道を下るたび、
泥のついた靴が小さく水を跳ねる。
彼女はこちらを見ない。
ただ、
慣れた足取りで歩いていく。
声をかけようとして、
やめた。
あの泥は、
今日だけの汚れじゃない気がした。
僕はもう一度、
桃色の紫陽花を見る。
雨に濡れた花は、近くで見ると
青より少しだけ不器用な色をしていた。
まだ途中の色。
一次試験のあった先週。
本当にここは、
青だけだったのだろうか。
もしかしたら、
あの桃色は最初からあったのかもしれない。
ただ、
僕に見えていなかっただけで。
◇
遠くで、
電車の走る音がした。
顔を上げる。
灰色の空の下、
銀色の車体が線路の向こうを滑っていく。
あの窓から見える桃色は、
きっと一瞬だ。
瞬きをしたら終わるくらい、
小さな色。
それでも。
誰かが、
ここへ来て、
泥だらけになりながら、
少しずつ土を触っていた。
その時間だけは、
たしかにここへ残っている。
僕は足元を見る。
革靴はひどく汚れていた。
裾には泥水が跳ね、
ほどいたネクタイは雨を吸って重い。
さっきまでなら、
こんな姿、
最悪だと思っていた気がする。
でも今は、
少し違った。
雨の匂いの奥に、
乾いた石灰の匂いが混じっている。
僕はもう一度、
桃色の紫陽花を見る。
雨粒を抱えた花弁が、
風に揺れていた。
たった三秒。
それだけだった。
なのに、
雨の向こうを見るたび、
もうあの色を探してしまう気がした。
僕は濡れた前髪をかき上げ、
駅への道を歩き出す。
背中の向こうで、
列車の音がゆっくり遠ざかっていった。
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