参政党の"新日本憲法"案を読む
2025年7月現在、参議院議員通常選挙の選挙期間下において、参政党が急速に支持を拡大しています。
参政党は自ら憲法を創る「創憲」を掲げ、令和7年5月に「新日本憲法」の構想案を発表しました。このnoteでは、大学で憲法を学んでいる立場から、「憲法とは何か」を踏まえ、この憲法案を読み解いていきたいと思います。
長くなりますので、パッと読みたい方は目次から「まとめ」に飛んでいただければと思います。
国家とは何か
社会契約説について
そもそも、近現代において「国家」とはどのように生まれたと考えられているのでしょうか。
史実に基づけば、日本は明治維新によって現在の政府の基礎が作られた、フランスではフランス革命によって共和政の国家が作られた、など色々ありますが、法思想としては「社会契約説」というものが伝統的に提唱されています。
この社会契約説では、まず、国家が誕生する前の状態、すなわち「自然状態」というものを想定します。人間は誰もが生まれながらにして様々な権利を持っており(これを「自然権」といいます。)、自然状態では一人ひとりがこれらの権利を自らの手によって行使する状態にあります。
しかし、この自然状態では、強い者が権利を好き勝手にふりかざし、弱い者は強い者に圧倒されて自らの権利を使うことができません。そこで、自由で平等な個人がお互いに契約を結び、国家というより強い存在を作ることで、すべての人が自然権を行使できるようにさせようとしたのだと考えます。この契約が「社会契約」です。そして、この契約の契約書にあたるようなものが「憲法」となるわけです。
社会契約説から導かれること
この社会契約説では、先述の通り憲法を「国家を作るための契約書」と考えます。このことから、次の2つのことが当然に導かれます。
第一に、契約書である憲法を作るのは国民であり、国民が憲法を作ったことで初めて国家が生まれた、ということです。すなわち、憲法を作る権力(憲法制定権力)を持っているのは国民であり、国家権力は憲法制定権力をもつ国民によってつくられたもの、ととらえることになります。
第二に、憲法は国家に権力を与える(授権規範)と同時に、その権力に制限をかけている(制限規範)ということです。自由で平等な個人がより一層権利の保障を受けられるように国家を作るわけですから、憲法は国民の権利を保障するために国家に権力を与えるのであって、憲法が国民に何かを命令したり、国民の権利を不当に制限したりすることは、社会契約説の理念と矛盾します。
また、今までの話をもとにすれば、国家は憲法があって初めて生まれる存在ですから、その国家が憲法を無視して好き勝手に権力を行使することは、自らの生みの親を否定する「自殺行為」となります。そのため、国家は憲法の範囲内でしか動けないのであり、国家の動ける範囲、すなわち国家権力の限界を定めているのが憲法ということになります。
社会契約説の妥当性
以上は社会契約説を前提とした議論ですが、当然これは思想上の話ですから、これが史実に基づく「正確な」理論というわけではありません。
ただ、近現代の立憲主義・民主主義の国家の基礎を考えるにあたっては、この理解が最も親和的です。現在の日本国憲法も、この社会契約説を念頭に作られており、私たち国民の人権(自然権)が最大限に保障される国家像を考えるにあたっては、この社会契約説を基準に考えるのが最も適切といえます。
このnoteでも、社会契約説を念頭に国家というものを考えていきます。
憲法とは何か
冒頭で「憲法とは何か」について考えると書きましたが、「憲法とは何か」という話は今までの「国家とは何か」という議論に集約されています。
すなわち、「憲法」という名前がついていれば何でもいい(形式的意味の憲法)のではなく、憲法は「憲法らしい」内容を持っていなければなりません。そして、その内容とは、「人権を各人に保障すること」(、また、そのために国家権力の要素である立法、行政、司法をそれぞれ独立した機関として分立させること)であると捉えます(近代的意味の憲法)。人権を保障するための憲法でなければ、本来自由で平等な私たち国民が憲法を作った意味がありません。
参政党憲法案を読む
少々語りすぎてしまった感がありますが、ここからは参政党の憲法案を見ていきます。実際の憲法案と見比べながらご覧ください。なお、文章量の都合上ここでは挙げ切れていない条文もあります。皆さん一人ひとりがこの憲法案に正面から向き合い、この憲法が制定された日本がどのような姿になるのかをじっくり考えていただければと思います。
前文
前文の第一印象としては、現在の憲法の前文にある社会契約的な思想が一切見当たらないということです。「国民を本とする政治の姿」という文言こそありますが、これは天皇をたたえる文脈で出てくるものであり、社会契約説というよりは戦前の大日本帝国憲法のような「君主が人権を与える」という思想が根底にあるように感じます。前文は国家や憲法のあり方を象徴的に記して宣言するものですから、社会契約論をもとにした記載が一切ないことは、この憲法案が、古今東西の思想家や法学者が積み重ねてきた近代立憲主義のあり方を無視している、あるいはそもそも念頭に置いていないことを象徴的に示しているといわざるを得ません。
また、権利の基盤を「公益」としていることにも強い違和感を覚えます。国民の権利は国家が存在する前からすべての人が当然に持っているものであり、公益は各人の権利(自然権)を平等かつ最大限に保障するために必要な社会全体の利益です。前文の三段落目が「公益」をどのように捉えているかは定かではありませんが、仮に「公益があって初めて権利が成り立つ」と捉えているのであれば、近代立憲主義が前提としている自然権思想を根底から否定したものにほかなりません。
加えて、前文全体を通して、国のあり方を定めるにあたって、「すべての国民が信じるべき国家観」を過剰に詳しく定めている印象を受けます。それこそがこの憲法案の狙いなのかもしれませんが、それは国家による思想の押し付けにほかならず、自由民主主義の基礎となる多様な思想を排除することにつながります。様々な思想の人がいる中で、協力して一つの国を作るために憲法を作る、という社会契約の思想が抜け落ちていることがここからも読み取れます。
前文はあくまで抽象的な宣言文にすぎませんが、この前文の時点で、この憲法案が、我々日本国民がが80年近く基礎としてきた「自由で平等な個人」という価値観をないがしろにするものであるという評価を下さざるを得ません。
第1章 天皇
第1章全体を通して、象徴天皇制を否定し、天皇主権の大日本帝国憲法を想起させるような条文が並びます。
特に第1条の3項は、「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」と定めた帝国憲法と何ら差異がありません。私自身は皇室を心から敬愛していますが、それは日本国及び日本国民統合の象徴としてのお務めを懸命に果たされている天皇陛下をはじめ皇室の方々に深い尊敬の念を抱いているからであり、国家に強制されているからではありません。天皇を敬慕するかはもっぱらその人自身がどう考えるか、すなわち個人の内心に関することがらであり、個人がどんな思想を持っていようが、それが内心にとどまる限りは完全に自由でなければなりません。このような内心の自由(現行憲法上の呼び方は「思想及び良心の自由」ですが、ここでは便宜上内心の自由という表現を使用します。)が完全な形で保障されないのであれば、それは特定の思想を国民に強制する独裁国家です。自由民主主義を支持する身としては、日本がそのような国家になるのは断じて認められませんし、また個人的には深く敬愛する天皇をそのような形で政治利用されることにも強い憤りを覚えます。
第2章 国家
この章で最も気になるのは、何より第4条の1項です。
4条1項では冒頭で「国は、主権を有し、」とあります。この条文について、Xなどでは「国民主権を捨てて国家主権とした」と特に問題視されていました。
「主権」という概念には、①領土及び国民に対する支配権、②国の独立性、③国の意思の最高・最終の決定権の3つの意味があります。①と②は当然国家に属するものなので問題にはなりませんが、現行憲法でいう「国民主権」の「主権」は③の意味で使われています。この条文のいう「主権」が③の主権であれば、これは国民主権を明確に放棄したということになります。
これについてですが、文言上どの意味の主権なのかは正直はっきりしません。この後に続く「独立して自ら決定する権限」というものが、外国の影響を排して自ら意思決定をする権限というのであれば②の独立性の話となり、国民主権の否定というわけではないような気もします。ただ一方で、「自ら決定する権限」を③の国の意思の決定権と捉える余地も十分にあります。
問題は、「国民主権を否定する解釈の余地のある条文」をわざわざ設けていることです。①と②は国家であれば当然に有しているものですから、それを取り立てて憲法に書きこむ必要性は感じられません。仮に③の意味でないのだとしても、そのように捉えられる書き方で必ずしも必要でない条文を盛り込んでいることには強い危機感を抱きます。
また、5条の国民の要件は、「排外主義ここに極まれり」とでもいうべきものです。おそらく移民反対の行き着いた先がこの条文なのだろうと思いますが、生まれ外国、あるいは両親が外国人の人でも、日本に何年も住み続け、日本の文化に溶け込むことで、日本人と同様の生活を送っている人が多数います。このような精神的にも実態としても日本人と同視すべき人を、人権を保障するためにあるはずの憲法で排斥することが正しいとは到底思えません。
この条文にはもう一つ看過できない文言があります。1項では、国民の要件として「日本を大切にする心」というものを挙げています。これは1条3項の項でも述べた、内心の自由への重大な侵害です。また、その人に「日本を大切にする心」があるかを判断するのは誰でしょうか?これは時の政権、すなわちこの憲法を制定した時点ではおそらく参政党ということになりますが、その場合参政党は何をもってその人に「日本を大切にする心」があるかを判断するのでしょうか?
ここでは殊更個別のポストを晒すようなことはしませんが、ここ最近、参政党の支持者がXで参政党の落選運動をしている人に対して「○○人」「帰化人」といった発言を差別的な文脈でしている場面を頻繁に見かけます。彼らのいう「日本を大切にする心」が「参政党への支持」を意味するのであれば、参政党支持者以外は日本人ではない、もっと言えば「非国民」ということになります。このように自らを支持するかしないかの二項対立を作り上げ、支持しない者を排斥する手法は、戦時下の日本やナチスドイツなど、歴史上様々な「悪い」実例があります。「日本を大切にする心」には「我が国に対する害意がないことをもって足りる」というような注釈がつけられていますが、なお要件としての具体性に著しく欠けており、ウルトラナショナリズム、あるいは全体主義にも通じる極めて危険な文言です。
6条の「公共の利益」についても、前文の項で述べたような違和感が浮かびます。現行憲法でも12条に「国民は、これ(この憲法が国民に保障する自由及び権利)を濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。」という規定がありますが、ここでいう「公共の福祉」と参政党の憲法案がいう「公共の利益」は、6条や前文を見ると別物ではないかという印象を受けます(「公共の福祉」が何を意味するかについては、それだけで論文を1本書けてしまう話になるのでここでは省略します)。そうだとすれば、参政党案の6条は今までの憲法にない異質の規定であり、自然権思想になじまない人権の制限規定なのではないかという印象を拭えません。
第3章 国民の生活
ここでは各条文ごとに論点を整理していきます。
7条は家族について道徳的な規範を示しています。
ただ、「道徳観」を法規範に持ち込むことに私は極めて懐疑的です。国家が特定の道徳観を定めて国民に強要することは、内心の自由への侵害にほかなりません。第7条は(後述する3項を除き)一見まっとうなことを述べているようにも思えますが、それが自分の価値観に基づく判断であることは忘れてはなりません。国に教育の機会を提供する義務を課すことは極めて正当なことですが、その根拠に一方的な道徳観を持ち込むべきではなく、本人の自然権の実現のために行われるべきです。そもそも、憲法が国家の権限と限界を示すものである以上、このような価値観を国民の側に強制すること自体、憲法の役割をはき違えていると言わざるを得ません。
後述するとした3項は、もっぱら同性婚や選択的夫婦別姓の議論を排するための条文です。私自身は選択的夫婦別姓には反対ですが(同性婚には賛成)、家族のあり方はその時々の社会の状況を踏まえ国民の議論を通じて絶えず検討され続けるべきものであり、憲法が一方的な(しかも婚姻の自由を否定する方向に)家族観を定めることは到底容認できません。
また、同性婚について、現行憲法の24条が「婚姻は、両性の合意のみに基づいて成立し」と定めていることから、同性婚が24条で保障されるかされないか、あるいは禁止されているのかという議論がありますが、このような議論以前の話として、そもそもこの条文の趣旨は「親に結婚相手を決められる戦前の家父長制を排除し、当事者同士が結婚したいという意思だけによって結婚することができる」という意味での「婚姻の自由」にあります。一方で参政党案にはこの意味での婚姻の自由の条文がどこにも見当たりません。「婚姻の自由」について一切規定せず殊更同性婚と夫婦別姓を否定していることは、現行憲法が婚姻について定めている意味を全く理解せず、婚姻の自由を自らの思想によって制限するために憲法をいわば「濫用」したものにほかなりません。
8条3項は先に挙げた現行憲法12条を念頭においた条文と考えられますが、前段の「権理には義務が伴い、自由には責任が伴う」というような「倫理的」な規定は法規範としての意味をなさず不要ですし、「濫用」が何を意味するのか明確でない以上、国による広範な人権侵害を正当化する条文との疑念を拭えません。現行憲法12条にも権利濫用の禁止の規定はありますが、これは自由や権利を「公共の福祉」のために利用する責任を定めたものであり、ここで「濫用」という言葉の意味が明確化されていますから、参政党案の「権利濫用の禁止」とは似て非なるものです。
9条は教育について定めていますが、3項の「神話、修身、武道」や4項の「教育勅語など歴代の詔勅、愛国心、食と健康、地域の察祀や偉人、伝統行事」の憲法での強制が妥当かは甚だ疑問です。特に、信教の自由が保障されてきた現代の日本において特定の宗教に基づく神話教育を憲法によって押し付けることは到底容認できません。
10条は(特に1項について)実現可能性は皆無に等しく、また食料輸入業者の経済活動の自由を根底から侵害するものです。国土的に日本だけでは食糧を賄いきれないのが明らかな現状、食糧の完全自給を憲法で訴えるのは滑稽ですし、日本では作れない世界各国の多様な食材を排することにもつながります。
11条については、国民の権利の内容を過剰に定めすぎている印象を受けます。憲法が過剰に詳しく権利について定めることはかえって国民の権利の範囲を狭めることにつながりかねません。条文の内容の是非は一旦置いたとしても、憲法では「国民の健康を保障する義務」を課すにとどめ、法律でその内容を具体化する、という流れの方が妥当であるように思います。
また、この章を通して言えることとして、「国民は」という主語にこだわり、国民かそうでないかを問わずすべての人に保障すべき権利を全く考えていない、ということが挙げられます。参政権など、性質上国民のみに認められるべき権利もありますが、生存権や表現の自由、平等権などは自然権としてすべての人に当然に認められるべきものです。執拗に「国民は」という主語をつけていることから、外国人に対しては立法・行政の裁量で自由に人権を制約できるべきだという排外主義的な姿勢を感じますが、自然権を保障しない憲法は近代立憲主義国家の「憲法」ではありません。
(なお、これについては現行憲法も言葉遣いが極めてあいまい、あえて言えば「適当」であり、「何人も」と「国民は」の語の使い分けがまともにできていない状況は早急に改善すべきと考えています。)
最後に、これまでに挙げたもののほかに、現行憲法にはあるが参政党案にはない、つまり参政党が削った権利を挙げておきます。これらの自由や権利がない日本がどのようなものか、真摯に考えてみてください。
法の下の平等
思想及び良心の自由
信教の自由
表現の自由
職業選択の自由
財産権
法の遡及適用の禁止
第4章 国まもり
4章でも、憲法の意味をはき違え、憲法としてふさわしくないような条文が散見されます。
16条2項や3項は、やはり国家ではなく国民(やその法人)の権利を制限する規定です。2項や3項は様々な人による自由な報道活動を幅広く制限する規定であり、この憲法案が表現の自由を軽視していることの現れといえます。特に2項は「公正」の名のもとに報道機関を国の政策の宣伝機関にさせるものであり、国民の批判的な考察の機会を失わせる独裁的な規定です。
憲法学では、「思想の自由市場論」という考え方があります。これは、意見の異なる人同士が自由に討論し、お互いの意見に対して反論、再反論、再々反論…というように意見をぶつけあうことで、議論が洗練されていき、社会にとってよりよい答えが導かれるというものです。これが実現されるためには、人々がお互いの意見を批判的に考察し、自由に意見交換できる環境が不可欠です。政府に対する自由な批判の機会を奪うことは、国民の様々な権利を失わせることになるうえ、社会全体、言い換えればこの国の未来にとっても深刻な悪影響を及ぼします。
19条では4項にわたって外国人を排斥する規定が並びます。2項及び3項では外国人の経済活動の自由への広範な侵害を正当化し、4項後段では日本国籍を取得し、日本国民としてすべての憲法上の権利を享受できるはずの人に対して参政権を制限しています。外国人参政権を禁止する規定を設けることには賛同できます(ただし、現行憲法でも国政については外国人参政権を禁止しているとする解釈が一般的です)が、3世代などの要件をつけて公務につく自由を制限することは、同じ国民に対する不当な差別であり、「自由で平等な個人」という原則が反映されていない結果というべきでしょう。
他にも、全体を通して過剰に詳細な規定が目立ち、総じて憲法の内容としてふさわしいとはいえません。
第5章 統治組織、第6章 財政
統治については現行憲法を踏襲している部分が多いように思われます。
ただ、22条の「和の精神」という道徳的(&宗教的)な規定は、やはり憲法にふさわしい規定ではないように思います。
また、28条の法案の国民投票は、直接民主制を支持する立場からは歓迎される規定だと思いますが、直接民主制は間接民主制以上にポピュリズムに弱いという特徴があります。法律の国民投票は、国民の信任を得た専門家集団である国会が、専門的な議論を経て法律を制定するという間接民主制の利点とは相いれないもののように思います(とはいえ、参政党自体が典型的なポピュリズム政党ですから、そのような政党が部分的にせよ直接民主制を掲げるのは自然なことであるようにも思います)。
その他、財政や税収については専門家である立法府がその時々に応じて不断の検討をすべき課題であり、そのような事柄を最高法規の憲法が硬直的に定めるのは国益に反するのではないでしょうか。
第7章 重大事項
重大事項ってなんだ、とは思いますがそれはさておき…。
32条は、条約や国際機関の決定が憲法によって無効になりうる旨規定しています。
しかし、条約は相手国との約束であり、安易にこれを無効とすることは、日本の裁判所が条約を自由に反故にできることを意味します。このように考えると日本の国際的な信用を損なうおそれがあり、仮に条文に組み込むとしても慎重な検討が必要です。もちろん国家が憲法に違反しないように条約を結ばなければならないことは言うまでもありませんが、砂川事件最高裁判決(最大判昭和34年12月16日刑集13巻13号3225頁)が示したように、「一見極めて明白に違憲無効であると認められない限りは、裁判所の司法審査権の範囲外にある」と考えるのが現実的であるように思います。
また、国際機関の勧告については、私の認識では国連女性差別撤廃委員会が皇室典範の改正など日本の伝統や実態と乖離した勧告を連発していることを念頭に置いているのではないかと思いますが、これらに法的拘束力はなく、殊更憲法で否定する実益は乏しいのではないかと考えています。
まとめ
※一部にGemini 2.5 Pro及びChatGPT 4oによる要約を含みます。なお、まとめまでの文章はすべて私が作成しています。
社会契約説
「社会契約説」とは、個人の権利(自然権)を守るために皆で契約して国家を作ったという考え方で、憲法はその契約書にあたる。
参政党案の問題点
社会契約説の無視: 社会契約の思想が見られず、人権の源を「公益」に置いているように解釈しうる。
国家優先の思想: 個人の権利よりも「公益」や国家を優先しており、国民によって制定された憲法が国家権力を制限するという憲法の基本的な考え方が見られない。
国民主権の曖昧化: 「国のことは最終的に国民が決める」という意味での国民主権が曖昧にされている。国家が国のあり方について最終決定する主権を持つと解釈できる余地があり、国民主権を揺るがしかねない。
内心の自由の侵害: 「日本を大切にする心」という文言や道徳の過剰な規定など、内心の自由を侵害し、特定の思想を強制しかねない危険な条文が多数含まれている。
重要な人権の削除: 現行憲法にある「法の下の平等」や「思想・表現の自由」といった、個人の尊厳を守るための重要な権利が削られている。
おわりに
文中で何度も述べた通り、憲法を制定する権力は私たち国民にあります。仮に参政党が改憲に必要な議席を確保した場合、この憲法草案をもとに改憲の議論が行われることになると思いますが、実際にこの憲法案が発議された場合、私たちが国民投票を通してこの憲法を制定するかが問われます。
文中では政策論的な話も含まれていますが、大部分はそれとは独立した、「法学」という観点からの問題提起です。私たちが何気なく暮らすこの国は、文中で述べた様々な法学的議論の上に成り立っています。現行憲法の公布から79年を迎える今、時代に即した憲法のありかたを探ることは喫緊の課題ですが、そのような改憲の要請をもってしても、近代立憲主義の国家として絶対に変えてはならない部分があります。憲法を作る権力を持つ者として、憲法の条文一つひとつにどのような意味が込められているのか、そして憲法はどうあるべきかについて、ぜひ自分事として考えてみてください。
このnoteがそれを考えるにあたっての一助となれば幸いです。
参考文献
安西文雄ほか『憲法学読本〔第4版〕』(有斐閣、2024年)
小林和久「第18回 社会契約説とは何か」NHK『高校講座・学習メモ 倫理』第3章 https://www.nhk.or.jp/kokokoza/r2_rinri/assets/memo/memo_0000006992.pdf (2025年7月7日閲覧)
参政党「参政党が創る新日本憲法(構想案)」https://sanseito.jp/new_japanese_constitution/(2025年7月7日閲覧)
独立行政法人 国際開発機構「第9課 国民主権」『VNU(ベトナム国家大学ハノイ校)教科書「日本の法律用語」』 https://www.jica.go.jp/activities/issues/governance/portal/vietnam/__icsFiles/afieldfile/2025/03/04/vnu_09.pdf(2025年7月7日閲覧)
