政府の「目詰まり」という言葉の不気味さ。—「マスク出せ」とゴネた客と同じじゃん!
最近、ニュースを見ていて強烈な違和感を覚えることがある。
政府や公的な場での発言において、石油由来製品などの供給不足を指して「目詰まり」という言葉が使われていることだ。
この言葉を耳にするたび、私はある光景を思い出さずにはいられない。
そう、コロナ禍の初期に起きた、あの異様な「マスク不足」の光景だ。
あの時、ドラッグストアの店員さんは必死に、「本当に、もう在庫はないんです!」と訴えていた。
しかし、パニックに陥った客たちは、「嘘だ! 裏にはあるんだろ! 出せ!」と凄んだ。
あの状況と、今の政府が民間企業に対して行っていることの構図は、驚くほど酷似している。
「裏にあるんだろ!」と叫ぶあの客と同じ構図
本来、マスクがなかったのは、店員の努力不足でも、店舗の出し惜しみでもなかった。
需要の爆発的な増加という「構造的な問題」だった。
しかし、パニックに支配された側は、目の前の店員という「個人」を攻撃対象に選ぶことでしか、自分たちの不安を解消できなかった。
今、政府が民間に対して行っていることも、まったく同じだ。本来であれば、国家レベルでのエネルギー政策や外交の失敗を議論すべき場面であるにもかかわらず、彼らは「目詰まり」という言葉で、問題を「現場の流通の調整不足」へと矮小化している。
まるで、必死に在庫を融通し合っている現場の担当者たちに向かって、「君たちが囲い込んでいるんだろう? さっさと出せ」と凄んでいるかのようだ。

自分たち政府の統制が効かない苛立ちを、中〜下流域の「動いていないもの」にぶつけているだけ。
すり替え、問題の矮小化にしか見えない。
言葉のすり替えがもたらす「見えない責任」
なぜ彼らは「目詰まり」という言葉を選んだのか。
それは、この言葉が極めて「便利」だからだ。これが政策の失敗であれば修正が必要だが、「目詰まり」という表現を使えば、それは「メンテナンスの範囲内」に収まってしまう。
「蛇口をひねれば水が出る」のが当然だと思っている人々に、「ちょっとパイプが詰まっているだけです」と言えば、彼らは安心する。実際にはパイプの先にはもう水がないのかもしれないのに、それを「一時的な問題」であるかのように錯覚させる。
この巧みなレトリックは、責任の所在を、本来負うべきところから、見えない現場のオペレーションへとすり替えている。現場で働く人々からすれば、たまったものではない。
忍び寄る「幻」が消える瞬間
目詰まりの解消という圧力施策、その一方で政府のやってるのは、「圧倒的供給のための外交」じゃなくて、単に「備蓄の取り崩し」。
私は今の状況を見ていて、こう思う。すでに崩壊。隠れ崩壊。隠れカオス。
コロナ禍を超えるカオスが、確実に進行している。
しかし、多くの人はまだそれに気づいていない。
なぜなら、スーパーの棚にはまだ商品が並んでいるし、コンビニに行けば今日使う分の生活用品は手に入るからだ。
目の前にモノがある以上、社会機能が麻痺しかけているという現実は、なかなか直視できない。楽観視。
でも、注意深く見てほしい。
その「今の当たり前」は、現場の人々のギリギリのやりくりで保たれている「幻」に過ぎないかもしれない。
その幻が消えつつあることは、決定的な破綻が起きるまで、非常に気づきづらいものなのだ。
私たちは今、「ないもの」を「ある」と信じ込ませる政府の言葉遊びと、目の前にあるわずかな日常との間で、綱渡りをしている。
次に棚から何かが消えたとき、誰を「裏にあるだろ!」と責めるのか。
その時こそが、私たちが本当の現実を直視せざるを得ないタイミングなのだろう。
