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〔小説〕CALL・全文

 準備運動代わりの前屈をすると、鼻先30cmのところに、使用済みのコンドームが転がっていた。
 舌打ちをしながら上体を起こし、それを海に蹴りこむ。
 嫌味なほど寒い、11月の砂浜。黒いベンチコートを着こんでいるのに、身体があっという間に冷えてしまったほどだ。
 それでも上半身を伸ばすと、背中と脇腹に体温が通る。一通りストレッチをして筋肉を温め、俺はひとつ息を吸って、砂浜を走り出した。
「杉田はな、性格的に問題あるんだよ」
  左手に広がる、冴えないグレーの太平洋が、3日前に聞いた監督の言葉を呼び起こす。 戦力外通告の宣告だった。
「ファンサービスはしない、イベントも拒否、口は悪いし協調性もない。そういうのがな」
「俺、頭下げてこんなチームにいるつもり、全然ないっすから」
「ほら、それだ。 この世界は狭いし、おまえも歳なんだ。 次のチームなんか、よっぽど覚悟しなきゃ、ねえよ」
 余計なお世話だと思った。首を切られた上に、何でそこまで言われなくちゃいけないんだ。
 走るうちに暑さを感じて、俺はベンチコートを脱ぎ、砂の上に投げ捨てた。抱えて走るより、引き返すときに回収するほうが楽だろう。
 戦力外通告を受けたからと言って、後戻りをする必要など何もない。次のチームを探し、合流する、何度も繰り返したその流れに、また乗るだけだ。
 でも。
 今年の夏、俺は三十路に足を踏み入れた。この世界ではもう、年寄りの部類だ。スカウトの目から見て、杉田恭平という商品の価値は今、どれほどなのだろう。
 砂浜を走るのは、一足ごとにシューズが沈み、土や芝よりきつい。息が切れ、俺は予定より早めに、駆けてきた砂浜を引き返すことにした。

 高校サッカーで名を上げた俺が、プロになった年、JリーグはまだJ1、J2の2部制だった。当然、J1が1部だ。 
 最初の4年間、俺は当たり前のように、J1のクラブに所属していた。ちょうど、今いるこの県の、他市にあるチームだ。けれど、5年目に首を切られた俺は、J2のクラブに移籍することになった。
 それはちょうど、Jリーグが3部制になり、J3というカテゴリーができた頃だ。まだ下がある、どん底に落ちたわけじゃない、俺は自分にそう言い聞かせて、トップリーグから落ちたことに言い訳をしていた。
 けれど俺はそれ以来、J1には戻れないまま、J2とJ3のクラブを渡り歩いている。 そして、気づけば今年、30歳になっていたというわけだ。
  走り込みの後、コンビニに寄ってからアパートに帰ると、俺は着替えもせず、敷きっぱなしの布団に寝転がった。 最近、何もかもが面倒で仕方がない。
 今年のシーズンはまだ終盤で、試合も少し残っているけれど、クラブに顔を出す気には、どうしてもなれなかった。どのみち俺が、最後に試合に出たのは7月で、それ以降、ベンチにも入っていないのだ。
 この世界は狭いし、おまえも歳だ。監督の言葉が、耳の奥でリフレインする。次のチームなんか、よっぽど覚悟しなきゃ、ねえよ。
「潮時、か」
 うつ伏せに姿勢を変えながら、呟いてみる。
 12月には、自由契約になった選手のための、合同トライアウトがあるはずだ。移籍先を探す絶好の機会。
  確かに、俺も歳だ。どんなに走る自信があっても、商品ラベルには、30歳と書かれてしまう。
 潮時かな。もう一度呟いて目を閉じると、砂浜に捨てられたコンドームの残像が、妙にリアルに浮かびやがった。

 翌日も、俺は海に来た。今後のことは未定でも、走りこみは、やっておいて損はない。
 ゴミの多い海だ。潰れたペットボトル、何かが入ったレジ袋、片方だけの古い靴。走り出すと、小さな瓶が左爪先に当たった。
 風が強く、耳が凍りつく。砂浜はグラウンドと違って、自分がどれくらい走ったか、あとどれくらい走れるのかが、今ひとつつかめない。
 選手人生みたいなもんだな。ふと、そんなことを思う。
 それでも走り続けていると、きちんと心拍数が上がり、汗も流れ始めた。身体だけは俺を裏切らないんだな、などと考えたとき。
「一緒に、走ってもいいですか?」
 突然、俺の背後で、そう声がしたのだ。
 自然に、足が止まった。驚いて振り向くと、人懐っこい笑顔を浮かべた、若い男が立っている。175cmの俺と似たような身長。
「杉田恭平さんでしょう?」
 見覚えのない顔なのに、名前を呼ばれた。
「俺を知ってんのかよ」
「ファンなんです、俺。走りこみですか」
「見りゃわかるだろ」
 愛想のない言葉で答えても、男は顔色を変えなかった。一緒に走れたらいいなと思って。そう言いながら、大きな笑顔を浮かべている。
 変な奴だ。
「ついて来れるなら、別にいいけど」
 面倒になった俺は、それだけ言うと、砂浜を引き返して走り始めた。どうせ、そろそろ戻ろうと思っていたところだ。 男はためらいもせずに、俺に並んでついてくる。
「あんた、名前は」
「宮崎っていいます。宮崎悠介」
「ふうん、いくつだ?」
「高三です」
 上体がぶれない、慣れた走り方だった。一見しただけで、アスリートだとわかる。
 俺のファンだという人間に会うのは、初めてではないけれど、随分久し振りだった。少し煩わしく、わずかに嬉しい、そんな気分だ。
「俺がここにいること、知ってて来たのか?」
「そうです。 練習見に行ったら、恭平さんいなくて。 チームの人に、ここで自主トレしてるかも、って言われたんです」
  スタッフの一人の顔が浮かんだ。以前ここで、子供を連れた彼に出くわしたことがあるのだ。
 俺の足が重くなっても、悠介は平然とした表情で、楽しげに走り続けている。疲れる姿を見られたくなくて、俺は脱ぎ捨てておいたベンチコートのところで、走るのをやめた。
「おまえ、何やってる?」
  涼しい表情の悠介に訊いてみる。
「え?」
「体育系だろ。 サッカーか」
「いえ、トライアスロンです」
「トライアスロン?」
 確か、水泳と自転車、マラソンをすべて行う過酷な競技だ。軽々と走る理由が、充分に納得できた。
「俺、一種じゃ物足りないんですよね。トライアスロンなら、3つ同時にできるから」
「そんなもんかよ」
「そんなもんです」
  悠介はさらりと答えて、大きく伸びをする。
 筋肉の存在が、紺のジャージ越しに、はっきりと感じられた。その動きには、隠しようのないしなやかさが詰まっている。
 もし来年、現役を続けるとしたら。ふと、そんなことを考える。 俺は、こんな年代の連中とも張り合うのか。
 サッカーとトライアスロンでは、筋肉のつき方は、きっと違うのだろう。けれど、俺もかつては、このしなやかさを持っていたような気がする。
「もう、帰るわ」
 どうしようもなく虚しい気分に襲われ、俺はベンチコートを羽織りながら、悠介に告げた。
「えっ、もう?」
「おまえみたいに、タフじゃねえんだよ。歳だしな」
「歳って、そんな」
「俺等の世界じゃ、年寄りだぞ。覚えとけ」
  言い残し、悠介に背中を向けて歩き出す。 心に湧き出した濁り水に、気付かれたくはない。
「明日も、来る?」
 悠介の声が、俺の背中を追いかけて来る。 多分なと答えたけれど、 彼の耳に届いたかどうかは、わからなかった。

 翌日、同じ海に着いた瞬間、スマートフォンがメールの着信を告げた。
 コーチからだった。 今日の試合について、俺のベンチ入りはないこと。明日はオフなので、明後日の練習から、必ず参加するようにということ。余計な文章は何ひとつない。
 返信もせず、ベンチコートのポケットにスマートフォンを突っ込んで、俺は歩き出した。曇り空がお気に召さないのか、銀鼠色の海は、昨日より荒い波を立てている。
 珍しいことに、昨夜は殆ど眠れなかった。
 これでもう、何度目の戦力外通告だろう。果たして、俺を買ってくれる、次のチームはあるのか。 現役を続けるのは、悠介のような奴に、枯れ姿を見せることになるのか。そんなことを、途切れ途切れに考えていたせいかもしれない。
 引退の二文字が、確かに点滅を始めている。それを感じつつ砂浜に降りると、黄色のベンチコートに包まれた背中が揺れていた。悠介が海に顔を向けて、ストレッチをしている。
 意外なことに、彼を見つけたときの気持ちは、悪くなかった。近付くと、素直な笑顔が振り返る。
「また来てんのか。ストーカーかよ」
 心と裏腹に憎まれ口を叩いたけれど、悠介は気にする様子もなく、 さらに笑顔を深くした。聖人君子などいるはずないが、きっとこいつは、誰かに嫌われることなどないのだろう。俺とは違って。
「俺もトレーニングです。 来るかなって、期待はしてましたけど」
「おまえ、高三って言ったよな。 進路は?」
「一応、大学は推薦で内定してるんです。トライアスロンで」
「へえ、特待生か。すげえな」
 首を回しながら、高校時代の自分を思い出す。卒業後のオファーが複数あり、その中から、最も条件の良いチームを選ぶことができた。未来は、どこまでも広がっているはずだったのに。
 考えても仕方がない。さっさとストレッチを始め、筋肉が緩むと、気持ちも少しだけ楽になった。
「今日も、 一緒に走っていいですか?」
 やけに謙虚に、悠介が訊いてくる。
「そのつもりで来てんだろ」
 足を、何回か蹴り上げてから走り出す。 右横に並んだ悠介を、邪魔だとは思わなかった。
「おまえ、俺のファンだって言ったな。いつからだ?」
 ふと思いついて、尋ねてみる。
「10年くらい前ですよ。 小学校の頃から」
「じゃあ、俺の絶頂期か。どんどん落ちてくのを見て、がっかりしただろ」
「そんなことないですよ。 恭平さんのチームの試合、全部見てますから。今はDAZNダゾーンだけど、その前の、CSで放送してた頃から」
  Jリーグの試合は、2016年まではCS放送で、それ以降はDAZNというネット配信で、全試合を見ることができるのだ。
 俺が最も輝いていた頃、悠介はまだ、ランドセルを背負っていたのか。そう考えると、震えそうになる。思い出と割り切れないあの時代から、いつの間に俺は、ここまで流されていたのだろう。
 ベンチコートを脱ぎ捨てるのは、ほぼ同時だったけれど、呼吸が荒くなるのは俺が先だった。平然としている悠介の横顔が、憎らしくなる。
「でも、今年で引退かもしれねえな」
 そして俺は、気が付くと、その言葉を声にしていた。
「引退って……恭平さんが?」
「他に誰がいるんだよ」
 そう返した瞬間、悠介の足が止まった。大きな目をさらに開いて、まじまじと俺を見つめてくる。
「何だよ」
「俺が訊きたいです。 引退って、何で」
「また、戦力外食らったからさ。潮時だよ」
「駄目だよ、そんなの。続けてよ」
 悠介の言葉から、敬語が消えた。
 飼い主を探す子犬のような表情が、俺を苛立たせる。 どうして、そんな顔をするんだよ。
「おまえに俺の引退、どうこう言う権利ねえだろ」
「ないけど、でも嫌なんだよ。恭平さんが辞めるなんて」
「俺が決めることだ」
 踵を返し、俺は早足で歩き出した。悠介が追いかけてくるけれど、話したくない。放っておいてほしかった。
 もう、昔の俺はいない。 手放してしまった光は、日ごとに遠ざかっていくだけだ。
「恭平さん、考え直してよ、ねえ」
 ベンチコートを拾うとき、悠介が俺の正面に回りこんだ。子犬の表情のまま、顔中で懇願している。
「うるせえ!」
 考えるより先に、声が出ていた。
「俺の何がわかる。ファンだって言えば、相手に土足で踏み込めんのか。おまえは、トライアスロンやってりゃいいんだよ。強いんだろ。前途洋々なんだろ」
「そんなんじゃないよ。 俺はただ、恭平さんをもっと見たいんだ。まだやれるって思ってるだけだよ」
「俺より上手い奴は、いくらでもいる。そういう選手を見りゃいいだろ。俺にこだわるんじゃねえ」
 悠介の右肩をつかんで払い、再び早足で歩き出す。
 彼は、追いかけてこなかった。視線のような気配が、背中に伝わってくるだけだ。
 呼吸はもう乱れていないのに、胸が苦しかった。溜息をついても、楽にはならない。 何かをぶっ壊して、そして、大声で叫びたい気分だった。

◇◆◇

 その晩、俺は腹を下した。
 原因はわかっている。数年振りに食べたカップラーメンのせいだ。
 栄養士の母の影響もあり、俺はずっと、食事にだけは気を遣ってきた。けれど、今日は包丁を握ることが、どうしようもなく面倒だったのだ。
 幸い、熱めに沸かした湯舟に身体を浸すと、腹の違和感は、殆ど消えてくれた。 肩に湯をかけ、自分の身体を、視野に入る範囲で眺めてみる。
 商売道具と思い、それなりに鍛えてきた筋肉の量は、昔とあまり変わっていない。けれど、若い頃に比べて、少し硬くなったような気がした。
「引退、か」
 呟いてみると、自分の身体が愛おしくなってくる。
 悠介にはああ言ったものの、俺はまだ、引退を決心したわけではない。正直、どうしたらいいのか、まったくわからずにいるだけだった。

 入浴を終えて部屋に戻ると、スマートフォンにメールが入っていた。チームのシステム管理者からだ。クラブのHPに届いた、俺あてのメールが転送されている。
 これ、回すか悩んだんだけど、悪戯だったらスルーして。そんな前置きに続いて、本文に読み進む。
 悠介からだった。
「さっき、言い忘れたことがあります。聞いてほしいので、よかったら連絡下さい。 宮崎悠介」
 電話番号とメールアドレスが、文末に添えられている。
 放っておこうかとも思ったけれど、メールを入れることにした。明日も走りに行くから、来るなら来い。それだけ送って、スマートフォンを置く。
 現役生活への未練を抱えている自分を、はっきりと、俺は認識していた。

 翌日は、快晴だった。
 風のない、暖かい日だ。白い日本犬を連れた家族連れが、海岸通りの歩道を、幸せそうに歩いている。
 悠介の姿を探すと、彼は砂浜に直座りして、本を読んでいた。 カ―キのダウンジャケット、紺色の結晶模様が入った、白いニットキャップ。 少し幼く見えるのは、そんな格好のせいだろうか。
 俺の気配に気づいて、彼は顔を上げ、にっこりと笑った。
「すみません、呼び出しちゃって」
「いいよ、暇だしさ。話って何だ」
 言いながら、俺も悠介の隣に体育座りをした。
 やさしい瞳をした男だと、改めて思う。こんな瞳で、どんなふうに、トライアスロンを競うのだろう。
「昨日、恭平さん、いつから俺のファンなんだ、って訊いたでしょ。 俺、曖昧な返事したけど、本当ははっきり言えるんです」
 そして、彼は話し始めた。
「9年前の7月に、他の選手と3人で、大学病院の小児病棟に慰問に来たこと、覚えてます?」
「小児病棟?」
 記憶をたどり、思い出す。 俺が、最も華やかだった頃。同県のJ1クラブに所属していた俺は、ボランティア活動の一環として、そこに派遣されたのだ。
 正直、嫌々だった。若手でなかったら断っただろう。リフティングを見せたり、トランプやゲームをした覚えがある。
「俺、いたんですよ」
「……え?」
「入院してたんです」
 この、健康を体現するような男が、あの中にいた?
「大丈夫なのかよ、トライアスロンなんかやってて?」
「今は、全然大丈夫なんですけどね」
 やわらかく答えて、悠介は少しだけ遠くを見る。そして、噛み締めるように話し出した。
「でも、そのときは酷かったんです。辛くて、吐いたり激痛があったり、熱も下がんなくて。おまけに、検査や治療は、もっともっと痛いし」
「想像つかねえな」
「でしょ? それでも、もっと重い病気の子も多くて、俺なんかいいほうでしたけどね。でも、トライアスロンよりきつかった」
 気の毒なほど痩せた子、点滴をつけたままの子。 病室から出られない子もいた。それは覚えている。
「俺は恭平さんのグループで、ボードゲームしたんです。それも楽しい思い出なんですけど、本当に衝撃的だったのは、その5日後でした」
「5日後?」
「恭平さんの試合、テレビで観たんです。一緒に遊んだお兄ちゃんが大活躍してるんだから、みんな大騒ぎでした。すごく速いドリブルで何人も抜いちゃうし、シュートもフリーキックもがんがん打って、 サポーターのキョーヘイコールもすごくて」
 昔の話だ。そう思いながら黙っていた。
「それから、みんな強くなったんです。絶対治して、恭平お兄ちゃんみたいになるって。特に男の子は、本当に泣かなくなったし。俺もそうです」
 そこまで話して、悠介は顔を横に向けた。少し目を細め、海を見つめる。そして、次に視線を俺に戻したときには、少しだけ強い顔つきになっていた。
「ねえ、恭平さん。俺だけじゃなくて、あそこにいたみんなにとって、杉田恭平って神様なんですよ」
「買いかぶりだ」
「そんなこと絶対ない。俺はずっと、きつくて辛い時は、恭平お兄ちゃんになるっていう、あのときの気持ちを思い出してきた。だから病気も治ったし、トライアスロンだって強くなれたんです」
 言葉が、見つからない。嫌々行った慰問なのに、そんな後日談があったなんて。
 唐突に、悠介の若さと可能性を羨んだ自分自身が、どうしようもないほど恥ずかしくなった。拗ねて練習をさぼり、走り込みで自分をごまかしている俺は、何なのだろう。
「これが、俺の話です」
 そう言って、悠介は頭を下げた。キャップの結晶模様が小さく揺れる。
 どう、反応したらいいのだろう。
 じゃあ、俺、行きます。 悠介は立ち上がり、尻についた砂を払った。そして、もうひとつ頭を下げ、背中を向ける。
「悠介」
 ひとつだけ、言葉が見つかった。歩き始めていた彼が、足を止めて振り返る。
「……ありがとな」
 言い慣れない、その言葉を声に出すと、悠介はもう一度笑って、親指を立てる。同じ動作を返しながら、俺は柄にもなく、泣き出しそうだった。

 帰宅後、俺はスパイクを磨いた。
 子供の頃は、ただ無邪気にボールを蹴っていたと、手を動かしながら思い出す。誰にも負けたくなくて、夢の中でさえ練習をしていた。あの頃から俺は、どれだけ遠くまで運ばれてしまったのだろう?
 磨き終えたスパイクを並べて、 溜息をつく。移籍先探しは、今までよりきっと、ずっと大変だ。正直、逃げ出したい気持ちも小さくはない。
 俺はただ、恭平さんをもっと見たいんだ。悠介の声が、頭の中に響いた。そこまで望まれるのなら、見せてやるしかないだろう、そんな気にもなってくる。
「やるか」
 そして俺は、キックオフのホイッスルの代わりにそう呟き、自分自身に、戦闘開始の合図を送った。

 翌日から、俺はチームの練習に復帰した。
 11月末には、すべてのクラブで戦力外通告が出され、自由契約の選手が出揃うだろう。俺も含め、現役続行を希望する者にとっては、移籍先を探す戦いの幕開けとなる。
 かつてないほど、俺は真摯に、自分自身と向き合っていた。
 合同トライアウトは、短時間の実戦形式で行われるので、自分の何をアピールするか、明確にしておきたい。全盛期のスピードはもうないし、パスの精度も、俺より優れた奴のほうが多いくらいだ。
 生き残りをかけて、誰もが必死になるのだ。考えろ、そして動け。自分に何ができるのか、それを探せ。

 この冬の最低気温が観測された日、俺は悠介を誘い、スーパー銭湯に来た。
「やっぱ、風呂ですよねえ」
 彼がそう呟いたのは、柚子がごろごろ入った湯船の中だ。
「高校生の台詞かよ、それが」
「だって、日本人の本能でしょ」
 悠介は少し照れながらも、くつろいだ表情をしている。やさしい顔つきに、分厚い筋肉をまとった身体が、少々不釣合いだ。
「ねえ、トライアウトっていつなんですか?」
「明後日」
「大丈夫でしょ。だって、杉田恭平だもん」
「何だよそれ。 根拠ねえな」
 けれど、悠介にそう言われると、不思議と楽天的な気分になってくる。
  肩を湯に沈めて、自分の上半身を慈しんだ。俺なりに作り上げてきた筋肉が、確かにここにある。 大丈夫、俺は来年もスパイクを履いて、ピッチに立てるはずだ。
 キョーヘイ!
  突然、俺を呼ぶサポーターのコールが、頭の中に蘇ってくる。その記憶にたゆたいながら、この声を再び、リアルタイムで聞きたいと、俺は強く、強く願っていた。

〔了〕

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