〔小説〕不器用たちのやさしい風・全文
※14回に分けて連載した小説の全文掲載です。
※前回作成した全文掲載から、読みやすさの改善のため、各Partのつなげ方を変えました。加筆修正はしていません。
〔Part1〕
こんなところに、桜の木があったんだ。
駐車場からアパートまでの帰り道、落ちてきた花びらに誘われ、頭上を見上げた達也は、その美しさに息をのんだ。
昨年は、そもそも花が開いたことにも気付かなかった。桜たちは、彼がうつむいている間に咲き、いつの間にか、足元に散っていたから。
満開を迎えた一本桜の向こうで、糸のように細い三日月が、空にしがみついて輝いている。避けられない新月へと、少しずつ欠けていく下弦の月。
リュウの心の中に、俺の存在は、どれくらい残っているのだろう。あの月ほどには光っているのか、それとも、もう完全に消えてしまったのか。
行先のない、その問いを呟く代わりに、達也はため息をひとつ、音を立てて吐き出した。
◇◆◇
上下とも、つるんとした白いポリエステルの衛生服を着て、同じ素材の帽子で髪を隠す。喉元のマジックテープを止めると、露出しているのは顔だけになった。
さらにマスクと、青いメラミン樹脂の手袋を着けるので、他人から見える達也のパーツは、完全に目だけになる。
「あーあ、また一週間の始まりだな」
同じ衛生服を着た、同月入社の松尾が、重たい口調で達也に話しかけてくる。
「うちの工場も、もっと自動化を進めりゃいいんだよ。レトルト作るのに、何人かけてんだって話」
「でもさ、松尾。あんまり自動化されると、俺たちの仕事がなくなるぞ」
「まあ、そうなんだけどさ」
達也の言葉に、松尾は肩をすくめながら、大袈裟なため息をつく。マスクが動いたのは、口をとがらせたせいだろうか。
達也と松尾が、レトルト食品の工場で働き始めてから、そろそろ十ヶ月になる。大手メーカーの子会社の、更にその下請工場。ミートソースだったり、麻婆豆腐の素だったり、日毎に違う製品の匂いが、いつも工場の外まで漂う。
「なあ、森本」
工場の入口にでき始めた、朝礼待ちの列に並びながら、松尾が達也を苗字で呼ぶ。
「ん?」
「俺、ゴールデンウィークに、婚活パーティー行くんだけどさ、おまえもどう?」
「婚活パーティー?」
俺には、世界でいちばん、関係のない話だな。そう思いながら、達也は短く、遠慮しとくよとだけ答えた。
「じゃ、無理には誘わないけどさ。でも、俺等ももう四十過ぎてるし、自然恋愛はなかなか難しいぞ」
「結婚願望ないんだよ、俺。生涯独身万々歳」
「言い切るよなあ。まあ、老後に淋しくなったら、しょうがないから、俺が遊んでやるよ」
気軽に話せる間柄の松尾だが、達也自身のことについては、ほとんど話していない。口にしたのは、一人暮らしだということと、近くに妹一家が暮らしていることぐらいだ。
俺、会えなくなった恋人を忘れられないんだよ。
そう告げても、松尾は驚かないかもしれない。
けれど・・・その恋人が、同性だということまで話したら、どうだろうか。
スピーカーからチャイムの音が流れたのを合図に、がやがやと漂っていた、いくつものお喋りが一斉に黙り込んだ。工場長が現れ、今日もまた、退屈な朝礼と業務が始まる。
〔Part2〕
桜の花の中心が赤くなり、少しづつ散り始めた週末。達也が独りで暮らすアパートに、妹の香代子がやってきた。
「お兄ちゃんって、意外と家の中、きれいにしてるよね」
「こんな狭いアパートだぞ、掃除なんて簡単だよ」
玄関を開けると、四畳程度の簡素なキッチンがあり、その奥に八畳の洋間がひと部屋。あとは、トイレと狭い浴室だけの、ささやかな城だ。
洋間の中央に敷かれた、グレーのラグに直座りして、香代子は持って来た紙袋の中身を、テーブルに出し始めた。緑茶のペットボトルが二本と、コンビニのシュークリームがふたつ。
「おっ、美味そう。濃厚カスタードシューだって」
「こういうの、お兄ちゃん好きでしょ」
達也も香代子の向かいに座り、兄妹は同時に、シュークリームにかじりついた。美味いな、美味しいね、という、子供の頃のようなおやつの風景。
彼等には、達也の上にもうひとり、東京郊外の実家のそばで、一家を構えた兄がいる。この長兄と両親は、達也が同性しか愛せない、という事実を、どうしても受け入れることができなかった。
けれど、家族でただひとり、香代子だけは、そのことをごく自然に、すんなりと飲み込むことができたのだ。
「豊さんは、休日出勤?」
「そうなの。旦那は休日出勤、息子は部活じゃ、家にいてもつまんないから、お兄ちゃんの顔見に来ちゃった」
香代子は昨年、恋人を失って途方に暮れる次兄を、自分が暮らす、茨城北部のこの街に呼んだ。ひとりぼっちなら、私の近くに来たらいいじゃない。その言葉がなかったら、今頃、達也はどんな生活をしていたのだろう。
こうして話す相手がいるだけ、俺はまだ幸せか。シュークリームにかじりつく香代子の、自分に似た二重まぶたをぼんやり眺めながら、達也はそんなことを思った。
達也って、料理は全然できないけど、掃除は上手いよね。
ふたりで暮らしていた頃、掃除が終わった部屋の中を見て、よくリュウはそう言ったものだ。
「掃除なんて簡単だろ、ホコリを払って、掃除機かけて、時々床を拭けばいいんだから」
「でも、達也がやると、手早いのに、すごくきれいになるんだよ。俺だと時間がかかるのに、隅っこに髪の毛が残ったりしてさ」
達也が掃除をして、リュウは料理を作り、その他の家事は、それぞれが柔軟に対応。できるほうがやればいい、得意なほうがやればいい。
そんなふうに、助け合いながら暮らした温かい四年間が、確かに達也にはあった。最初から、終わりがあるとわかっていた、期限付きの幸福。
リュウは今、元気なのだろうか。運転中の信号待ち、電気ケトルのお湯を沸かしている間など、時間の隙間が来るたびに、達也はそればかり考えている。
〔Part3〕
◇◆◇
五年前の、満月が輝いていた五月の夜。達也が東京郊外の実家を離れ、電車で三十分ほどの場所にアパートを借りて、ひとりで暮らしていた頃のことだ。
「ああ、彼がそうだよ、倉野リュウくん。今話してた、クラノ運輸の御曹司」
当時、宅配便のドライバーとして働いていた達也は、仕事が遅くなると、決まって駅前の定食屋に行き、夕飯を摂っていた。その店が、達也とリュウの出会いの場になったのだ。
「やだなあ、おやじさん。それは俺の肩書きじゃないですよ」
始まりの日。達也はカウンター席に座り、生姜焼き定食を食べながら、店の主人とお喋りをしていた。
うちの常連さんにも、宅配業界の若いのがいるよ、クラノ運輸の跡継ぎ息子だってさ。そんな話をしている時、ひとりの若い男性が店に現れ、達也の隣の椅子に座ったのだ。
それが、リュウだった。
「そうだったな、リュウは、それ言われるのが好きじゃなかったな。何にする?」
「じゃあ、さばの塩焼き、まだありますか?」
「あるよ、ちょっと待っててな。あ、こちらは、森本達也くん。彼も宅配ドライバーなんだ」
当時、三十六歳だった達也と、十歳年下のリュウ。ふたりは顔を見合わせ、どちらからともなく、あいさつ代わりの笑みを浮かべた。初対面なのに、何故か似た雰囲気のある、目尻の下がった笑い方で。
ひとめぼれ、というほどではなかったけれど、達也はリュウがまとう、陽だまりのような雰囲気に好感を持った。まっすぐな背中と、子犬のように愛嬌のある顔つき。
打ち解ければ、彼のいる空間は居心地が良さそうだ。
それが、第一印象だった。
リュウの父親が経営するクラノ運輸は、業界でのシェアはそれほど大きくないものの、ホワイト企業として有名な会社だ。
給与は同業他社と同程度だが、待遇面に定評がある。フルタイムで働くスタッフは、職種を問わず、全員が正社員待遇。そして、有給取得率の高さや離職率の低さは、業界トップだという。
その分、入社するのは難しく、縁故での入社も認められない。達也の会社から、クラノ運輸に転職した何人かの社員も、全員が全員、優秀だった。
「ここの定食、何食べても美味いですよね」
客席の間がアクリル板で仕切られたり、マスクなしに会話することができない時が来るなど、誰も想像すらしていなかった頃のことだ。横に並んだ達也とリュウは、どちらからともなく、ぼそぼそと話し始めていた。
「ああ、美味いよな。よく来るの?」
「ちょくちょく来ますよ。ちゃんと食わないと、宅配ドライバー勤まりませんからね」
「倉野くん、跡継ぎ息子なのに、現場やってるんだ?」
思わず口にした直後、不躾だったかな、と達也は後悔したが、リュウはにっこりと笑い、気に止める様子は示さなかった。
「一応、親父の会社にいるんですけどね。でも、親父は、跡取りだから最初から経営に、っていうタイプじゃないんです」
確かに、リュウの顔と手の甲は、達也と同じように日焼けしていた。仕事帰りだと言う服装も、ありふれたパーカーとジーンズで、いわゆる御曹司という感じではない。
「森本さんは、ずっとこの仕事なんですか?」
「俺は、この五年くらいかな。つなぎのつもりだったんだけど、会社を出たらひとり、ってのが良くて、なんだかんだ言いながら続けてるよ」
「あ、それ、長い人はよく言いますよね」
定食を食べながらの、彼等の会話は、途切れることなく続いた。帰宅後に飲むコーヒーの淹れ方、映画や本のこと。
陶器のドリッパーを使っていたり、古い邦画の「スワロウテイル」が好きだったり、東野圭吾のファンだったり。初対面のふたりには、共通点が多かったのだ。
「今度、酒でも飲みますか?」
最初に、そう提案したのはリュウのほうだ。
「いいね、飲もうか」
素直に答えた次の瞬間、あっ、と達也は思った。
一応、言っておいたほうがいいのかもしれない。
「でもさ、これを承知しておいて欲しいんだけど・・・俺、実はゲイなんだ。そういうの、気にしないでくれるなら」
後になって、知っていたら行かなかった、と言われるのは、本意ではない。そう思ってのカミングアウトだ。
それを聞いたリュウは、丸い目をさらに丸くして、驚いた表情を浮かべた。けれど、それは一瞬のことで、すぐにその目は、穏やかな光に戻る。
「構いませんよ。そんなことは」
そして、リュウはさらりとそう答えると、もう一度、やわらかい笑みを浮かべた。
〔Part4〕
魚が美味しいと評判の居酒屋で、達也とリュウが、日本酒を酌み交わしたのは、その翌週のことだ。
「森本さんが、ゲイだってカミングアウトしてくれたから、俺も言いますけど」
沖縄の琉球ガラスでできた、海色の徳利とふたつの盃。一日の仕事を終えた、彼等をねぎらうような、それはそれは美しい青だった。
「俺は、女性とも、男性ともつきあったことがあるんです」
リュウは、盃の日本酒で唇をしめらせてから、まるで息を吐くように、その言葉を口にした。
「・・・って、それって、バイってことか?」
「そういうことです」
バイセクシャル。同性も異性も愛せる人。だから、カミングアウトしたとき、リュウは達也に、あんなにやわらかく笑えたのだろう。
男性であれ女性であれ、誰が誰を愛するかなど、個人の自由だ。自分自身のその考え方に、達也は強い自信がある。
しかし、彼は同時に、それを頑として受け入れない人や、頭では理解をしながら、感覚は拒否する人がいることも、仕方がないと思っている。実際、彼の家族が、香代子以外はそうだったのだから。
「なるほどな」
「なるほどな、ですよね。なるほど」
納得したように言い合って、達也とリュウは小さく笑うと、また盃を口に運んだ。まるで、鏡を挟んだような同じ仕草。それに気づいたふたりは、顔を見合わせて、また笑った。
リュウがいる空間は、居心地が良さそうだ。
その日は、達也の第一印象を裏付けるような、楽しい夜になった。笑顔の多いリュウは、相手に余計な気遣いをさせるどころか、肩の力をすっと抜かせてしまう。
「倉野くんもひとり暮らしだよな、時々は、自炊とかしてるの?」
「休みの日は作りますけど、普段はあの定食屋に行くか、弁当を買うか、実家で食べさせてもらうかですね。森本さんは?」
「俺は、包丁も持ってないよ」
「それって、徹底してますね」
ホッケの塩焼きをつまむ、リュウの箸使いが、とてもきれいだった。
神は小さきところに宿る。そんな言葉を、ふと達也は思い出した。きっと、育ちの良さも、神様と同じように、小さなところに表れるのだろう。
「倉野くんは、将来、会社を継ぐんだろ? その、社長になったり、実家に戻って結婚したりして」
箸使いに宿った育ちの良さが、達也から、思わぬ問いを引き出していた。
「あ、ごめん、立ち入ったことだったかな」
「構いませんよ、全然。親父からは、三十歳になったら、実家に戻って結婚しろ、って言われてます。俺、一人っ子で、他に跡取りいないから」
やっぱりな。何故かがっかりした自分自身に、達也は少し驚いたけれど、口には出さなかった。
「それまでは、現場で働いて、プライベートは好きにしてていい、って約束なんです。だから、ひとり暮らしで自由にしてます」
その時、リュウは二十六歳。あと四年の期限付き自由。
「三十になったら、仕事のほうも、営業や経営の方に回されるみたいですけどね」
「跡取り息子の宿命ってやつか」
「まあ、先を考えても仕方ないから、今を楽しむだけですよ。もしかしたら経営って、やりがいあるかもしれないし」
あと四年。この後、そのカウントダウンは、彼等に重くのしかかるようになる。けれど、まだそれは現実味のない、ただの言葉でしかなかった。
そんなふうにつながった達也とリュウが、お互いの部屋を、毎晩行き来するようになるまで、さほど時間はかからなかった。
『洗濯物がたまっちゃったから、今日はうちでいいかな?』
例えば、夕方に送られてきた、そんなリュウからのLINE。
ひとりが当たり前だった日常が、リュウの存在で、一気に温かいものへと変わっていく。それを幸せと呼ぶのだなと、その頃の達也は悟り始めていた。
「毎晩一緒にいるのに、お互いに部屋を借りてるなんて、考えてみれば無駄だよなあ」
そんな日が、一ヶ月ほど続いたある夜。達也の部屋のソファで、インテリア雑誌を読んでいたリュウが、思いついたように言い出した。
「ああ、俺も最近、そう思うんだ」
「じゃあ、ふたりで一緒に、部屋を借りちゃおうか」
実は達也も、同じことを考えていたのだ。
オーブンの中のケーキが、どんどん甘く膨らむように、彼等がもっとも熱く、急速にその間柄を深めていった時期。
毎晩、同じ家に帰り、同じ部屋で眠って、同じ朝に目覚める。幸福を味わい始めたふたりには、それを繰り返す毎日が、ただひたすらに嬉しかった。
〔 Part5〕
◇◆◇
「おつかれさまでした」
廊下ですれ違う他の社員と、機械的にその言葉を交わしながら、達也は更衣室へと足を速める。顔以外の全身を覆う、着心地の悪い衛生服を、少しでも早く脱ぎたかった。
今日は、生産ラインの一番端で、製品のレトルトカレーが入った段ボール箱を、パレットと呼ばれる、プラスチック製の台座に積み上げていた。一日中ひたすら、ただひたすら。そのせいだろうか、少し頭がくらくらする。
同じ場所で同じ作業を繰り返す、生産ラインの仕事より、身体を動かす宅配ドライバーのほうが、明らかに達也には向いている。けれど、どうしてもリュウを思い出してしまう、その仕事に就く気にはなれなかった。
・・・リュウ。
「よう森本、おつかれーい」
不意に、やけに明るい声が、達也の背後から飛んできた。同月入社の松尾だと、聞いただけでわかる。
「松尾はいつでも元気だな」
「金曜の夕方だぞ、疲れてる暇なんかねえよ。ほら、世界だってキラキラして見えるからな」
「これから、婚活絡みの飲み会でもあるんだろ」
「ちょっ、何でわかるんだ?」
明るいだけに見える松尾にも、婚活に励むようになった理由や背景が、きっとあるのだろう。達也はそう思う一方で、素直に相手を求める松尾が、うらやましくもある。
ひとりぼっちは、誰だって嫌だもんな。更衣室へ続く廊下を、松尾と並んで歩きながら、達也はそんなことを思った。
あんなに咲き誇っていた桜の花が、跡形もなく消えて、いつの間にか暦は、五月を迎えようとしている。
週末すら、もてあましているのに、ゴールデンウィークなんて、どうすればいいんだよ。
土曜の午後、洗車場で車を洗いながら、達也は思い悩んでいた。長距離ドライブをしようにも、道路はどこも渋滞だろう。
都会と違って、地方の街は大抵、車で動くことを前提にできている。駅から何分と言うよりも、駐車場何百台、という売り文句のほうが、ずっと効果的なのだ。達也の通勤や買い物にも、中古で買った黒いフィットが活躍している。
リュウに、会いに行こうか。
ふと湧き上がった想いを、車の汚れと一緒にかき消す。
「俺は小さいときから、会社を継ぐように育てられたんだよ」
三十歳になったら実家に戻り、いずれは結婚して、会社を継ぐ。父親との約束を守るために、達也から離れると決めた時、リュウは溺れそうなほどの涙を流しながら、自分の意思を告げた。
「親父は、俺が小さい頃から、おふくろと俺を大切にしてくれたよ」
この世で一番、尊敬している人は父親。いつだったろう、リュウは達也に、そう言っていたことがある。
「自分のものを買うのは、いつもおふくろと俺の後だったし、 休みは家族サービスを優先して・・・俺、親父だけは裏切れないよ。達也と一緒にいたいけど、親父だけは、駄目なんだ」
いつも穏やかで、笑っていたリュウ。達也には、彼がどれほど大切に育てられたのか、手に取るようにわかる。達也を選ぶか、父親を選ぶか、きっとリュウは、心がねじれるほど苦しんだことだろう。
同性の恋人がいるから、わかって欲しい。家族に、そう言えない気持ちもまた、達也には理解できる。彼自身、男性しか愛せないと打ち明けて以来、両親と兄が、とても遠い存在になったからだ。
何のために、リュウと離れて、この街に引っ越したんだ。大きなスポンジで車をこすりながら、達也はひとつ頭を振る。俺は、あいつを諦めるために、ここに来たんだぞ。
わかって、いる。
「え、じゃあ達さん、連休何も予定ないんだ?」
達也を達さんと呼ぶのは、世界中で二人だけだ。香代子の夫、豊と、一人息子の翔。
週末、仕事を終えた達也が、香代子の家を訪ねると、ちょうど豊も在宅だった。リビングにある、ひとりがけのソファに埋もれて。
「何もないんだよ、見事なくらい」
「それならさ、香代ちゃんと俺と、温泉行かない? 福島の」
「福島の温泉?」
豊の向かい側で、来客用のソファに座った達也に、それは突然すぎる提案だった。
「あ、いいね、それ」
三人分のコーヒーを運んできた香代子が、トレーをテーブルに置いて、豊の隣の椅子に腰掛ける。彼女が宝物と呼んでいる、たんぽぽ色の安楽椅子。
「家族旅行のつもりで予約したんだけど、翔が急に、部活の遠征入っちゃって。豊くんと二人で行くか、キャンセルするか、悩んでたの」
香代子と豊は、翔がいない場面では、お互いを名前で呼びあっている。
「嬉しいけど、俺、行っていいの?」
「いいに決まってるよ、達さんと旅行する機会なんて、なかなかないんだからさ」
「それに、豊くんと私だけじゃ、会話もたないもんね」
香代子の返しに、達也と豊は思わず笑ってしまう。
何はともあれ、ゴールデンウィークの予定ができた。今の達也にとって、それは何よりもありがたいことだった。
〔Part6〕
◇◆◇
車は出させてほしい、と自分から申し出たことで、福島の温泉までは、達也の車で行くことになった。
雲をぽかぽか散りばめて、青は淡すぎず濃すぎない。そんな空が広がった、ゴールデンウィークの真ん中。
「翔と行けなくて、残念だったな」
「まあね、でも、中学では部活が忙しくなるって、わかってたから」
助手席で話す香代子は、少し強がりながらも、淋しそうな表情を浮かべていた。
「翔も悔しがってたよ、達さんが行くなら、俺も遠征サボれば良かったって。そんなことできないくせにね」
「でも、翔の中学は野球、強いんだよな? 遠征メンバーに入るなんてすごいよ」
後部座席から、かすかないびきが聞こえてくる。ごめんね、豊くんあっという間に寝ちゃったよね。夫の代わりに謝る声が、少しだけ高くなった。
ああ、昔から香代子、謝る時は、ちょっと声のトーンが上がるよな。そう思いつき、達也の口元がそっと緩む。
高速道路の渋滞を覚悟していたが、ストレスを感じるほどの混雑ではなかった。運転が好きな達也には、なかなか楽しいドライブだ。
「今日は、ちゃんとごはん食べてね。お宿、食事の評判で選んだんだから」
「そうなんだ? 楽しみだな」
豊のいびきが、とても気持ちよさそうに続く。きっと、疲れがたまっているのだろう。俺が車を出して良かったなと、達也はふと思った。
「達さん、痩せたなあ」
脱衣所で服を脱いだ、達也の背中を見た豊が、驚いたように言った。
「何年前だっけ、達さんがまだ東京にいて、こっちに遊びに来た時、海沿いの日帰り温泉に行ったの。あの時は、こんな薄い背中じゃなかったよ」
「もう随分前だよな。俺、この一年で、十キロ以上痩せたんだ」
「もともと、全然太ってなかったのに、それじゃがりがりだよ。背中ぶつけたら折れちまう。俺の脂身、少しあげたいよ」
言いながら、豊はぽこんとし始めた、自分のお腹を叩いた。
「今日は、ちゃんと食べような。この宿、食事が美味いって評判だから」
「それ、車の中で、香代子も同じこと言ってた。夫婦だよなあ」
「この背中見たら、香代ちゃんだって、もう一回言うよ」
そんなに、薄くなったかな。思いながら、達也は首をひねって、背後の鏡を見る。そこには、以前よりくっきりとした肩甲骨が写っていた。
おまけに、意識して身体を洗うと、腕や胸も、筋肉まで落ちてしまったことに気付く。食欲のない日々が続いた上に、運動量の多かった宅配ドライバーから、あまり動かない生産ラインへと、仕事が変わったせいでもあるのだろう。
ちゃんと、食わなきゃな。
リュウを失って以来、達也は初めて、自分の身体と向かい合っていた。
短い旅は、快適だった。
豊と香代子が口を揃えたとおり、馬刺しやこづゆなど、郷土料理が入った夕飯は美味しく、福島の地酒と相まって、達也も食が進んだ。
「ふたりとも、またお風呂行くの?」
内風呂と露天の温泉も気持ちよく、豊と達也は、子供のように何度も足を運んで、香代子をあきれさせた。
完全なひとりぼっちじゃないだけ、俺はまだ幸せだな。
程よく酔った身体を布団に横たえて、まぶたを閉じながら、達也はふと、そのことに気付いた。自分を理解して、独りになったときは呼んでくれた妹と、気楽につきあえる義弟がいるし、同僚の松尾も気負わず話せる友人だ。
どうしようもないくらい、リュウに会いたい。
その想いを、消すことはできないけれど。
「達也、本当にごめんなさい・・・」
最後に会ったときの、リュウの泣き顔。
身体をばっさりと裂かれたような、痛々しい泣き顔。あんな表情を、二度とリュウにさせたくはない。
俺の日常に、もう、あいつはいないんだ。
豊のいびきが、小さく響き始める。運転の心地よい疲れと、温泉と酔いの効果も手伝ってか、達也も程なく、眠りに落ちていった。
〔Part7〕
福島から茨城に戻った翌日、達也は、今まで持っていなかった、調理道具を買いに行った。
ショッピングセンターが併設された、巨大なホームセンターは、かなり混みあっている。駐車場は四千台以上あるはずなのに、空きを探すのが一苦労だった。
豊に痩せたと言われたし、香代子にも何度か、会う度に細くなると注意されている。改めて、十キロ以上の体重を失ったことに、軽い危機感を覚えたのだ。
幸い、揃えるべき最小限のものは、香代子に聞いていたから、さほど迷わずに済んだ。フライパンと大小の鍋、おたまとへら、菜箸、包丁とカッティングシート。
こんなことでも、気は紛れるもんだな。
広いホームセンターの中を、何となく歩きながら、達也はそんなことを考える。お茶道具のコーナーでは、使いやすそうな陶器のドリッパーを見つけて、フィルターと一緒にカゴに入れた。
・・・その時。
マグカップの棚の、いちばん左にある瑠璃色が、達也の目を引いた。
「これ、リュウのと同じだ」
思わず、独り言がこぼれ落ちる。
厚みのある、少し大きなマグカップ。瑠璃色は、リュウがもっとも好む色だ。一緒に暮らしている間、彼はコーヒーもお茶も、すべて同じカップを使っていた。
一瞬だけ迷った後、達也はカップを持ち上げ、そっと、カゴの中に置いた。
帰り道で買った豆を使って、瑠璃色のマグカップに淹れたコーヒーは、少しだけ酸味が強かった。
結局、俺はこうやって、リュウのかけらを探してるんだな。
そんなことを考えながら、達也はもう一口、コーヒーを喉に流し込む。
別れる時、達也とリュウは、それぞれのスマートフォンから、お互いの連絡先を消した。そうでもしなければ、諦めがつかなかったのだ。
リュウは、元気なんだろうか。
確かめようがないくせに、何度も繰り返した疑問。
達也はリュウから、父親はとても、家庭を大切にする人だと聞いた。ありがとうが口癖で、どんなに忙しくても、学校行事への出席は欠かさず、夕飯の後は食器を洗う。息子を叱る時の決まり文句は、お母さんを困らせるな、だったという。
あいつが愛したのが、女性なら良かったんだ。俺じゃなく。それなら、あいつはあんなに泣かずに済んだのに。
大多数の人は、異性に恋をする。
少数派だが、達也は、同性に惹かれる。
そして、どちらも愛することがあるリュウが、三十歳になったとき、彼の隣にいたのは達也だった・・・。
不意に、玄関のチャイムが鳴った。いつの間にか流れていた涙を拭って、達也は立ち上がる。宅配便なんて頼んだっけ、そんなことを考えながら、ドアを開けて。
そして。
呼吸が、止まる。
「リュウ」
今にも泣き出しそうな、揺れる表情。
「・・・達也」
そこに、リュウが立っていた。
〔Part8〕
◇◆◇
ドアを閉めた瞬間、リュウは達也に抱きついてきた。
「達也、ごめん」
何故、謝られるのかわからないまま、達也はリュウを抱き返す。記憶にあるより、ずっと細くなった背中。
「リュウ」
「達也・・・会いたかった」
離れた時間の中に隠れていた、嗅覚の記憶が目を覚ます。
リュウの髪の香り。一緒に暮らしていた頃と同じ洗髪料を、今でも使っているのだと、達也はすぐに気づいた。
「リュウ」
これは、夢か?
そんなこと、どうだっていい。
達也の腕の中で震える肩が、そのまま、リュウの想いを伝えてくる。会いたかったのは、忘れられなかったのは、達也だけではなかった。
「リュウ」
リュウ。
会いたかった。
「リュウ」
それ以外の感情が浮かばず、達也はただ、リュウの名前だけを、何度も呼び続けていた。
リュウのためにコーヒーを淹れるなんて、本当に久しぶりだ。
よく知っている彼の好みに合わせて、ミルクではなく、牛乳を少し入れて、マグカップをテーブルに運ぶ。それだけで、達也は泣き出してしまいそうだ。
「ありがとう。達也は料理はしないけど、コーヒーはあの頃、よく淹れてくれたよな」
床のラグに直座りしたリュウが、達也からマグカップを受け取りながら、小さく笑う。
「言われてみれば、そうだよな。なあ、俺がここにいること、よくわかったな」
しかし、達也にそう言われると、小さな笑顔は、申し訳なさそうな表情に変わった。
「調べて、もらったんだ。興信所に頼んで」
「人探しのプロか。それにしてもよく見つけたよ」
「調査が行き詰まってたときに、香代子さんのこと、思い出してさ。もしかしてと思ったら、見つかった」
うつむき加減のリュウの視線が、達也のマグカップに止まる。
「これ、俺のと同じやつだ」
「ああ、さっき見つけて、買ったんだ」
答えながら、達也はリュウの向かいに座った。
だいぶ痩せたこと以外、リュウは変わっていないように見える。淡いブルーのシャツにジーンズという、服装の好みもそのままだ。思わず、達也はテーブル越しに左手を伸ばし、昔のように、リュウの頬に触れた。
「リュウ」
また、その名前を呼んでしまう。
「達也、俺」
「ん?」
「俺、お見合いって言うほどじゃないけど、女の人を紹介されたんだ。可愛くて、明るくて・・・でも、でも、無理なんだよ。無理だってわかったんだ」
再び潤む、リュウの瞳。
「俺はどうしても、達也がいいんだ。男だから、女だからじゃない。達也じゃなきゃ駄目なんだよ」
涙が、リュウの頬に触れたままの、達也の手のひらに流れ込んでくる。
「達也、俺・・・達也のところに戻りたい」
リュウが玄関に立っているのを見た時から、その言葉が出てくることは、達也にも想像がついていた。
けれど。
「親父さんには、話したのか?」
「何も。俺がここに来たのも知らないよ」
もしもこのまま、達也のもとに戻ったなら、程なくリュウは、罪悪感に苦しみ始めるだろう。
そして、その罪悪感に耐えられなくなった時、リュウは再び、達也から離れていくかもしれない。
「リュウ」
達也は右手も伸ばし、リュウの両頬を、両手で包み込んだ。
このまま、引き戻してしまうことは、今なら簡単だ。戻って来いと、そう言えばいいのだから。
けれど、もし、リュウが再び去る日が来たら。
「戻って、きてほしいよ。俺も」
一度目は、達也は耐えた。
けれど・・・二度目は、きっと無理だ。
あまりにも、辛すぎる。
「でもな、リュウ」
このまま、ここにいろよ。喉元で暴れるその言葉を、達也は必死に飲みこむ。戻ってきてくれるなら、もう絶対に、消えて欲しくない。
だから。
「親父さんと、ちゃんと話して来い」
だから、達也は、ありったけの自制心を振り絞った。
〔Part9〕
「達也」
涙で濡れたリュウの表情が、驚きに変わる。
「親父と話せって・・・達也のところに行きたい、って?」
「それも含めて、話してこい」
そう言いながらも、達也はリュウの両頬から、手を離せなかった。
本当はこのまま、リュウを閉じ込めてしまいたいのだ。もう、二度と放したくない。離れたくない。
けれど、だからこそ。
リュウが、父親との約束を破ったことに苦しまず、ふたりがずっと離れずにいられる。達也は、その確率が最も高い道を、できれば歩きたかった。やり直せるものならば。
「俺だって、またリュウと暮らしたいよ。この一年、ずっと、そればっかり考えてた」
「それなら、いいだろ。俺にとって、一番大切なのは、親父でも会社でもなくて、達也だ。そのことが、やっとわかったんだよ」
「だけど、リュウが親父さんとの約束を破って、俺のところに戻ってきたら、リュウは今度は、その罪悪感に苦しむことになるんだぞ」
戻ってこなかったら、どうする?
でも。
「それで、またリュウがいなくなったりしたら・・・俺、次は耐えられない」
「そんなこと・・・」
リュウの言葉は、そこで途切れた。
そんなこと、ない。きっと、彼はそう言おうとしたのだろう。
しかし、断言できなかった。
「リュウ」
「・・・そうかもしれないな」
絞り出すような、細い声。
「達也とやり直せれば、もうそのまま、他のことなんかどうでもいい、って思ったんだ。だから、何も考えないで、とにかく来ちゃったんだけどさ」
温かい頬。温かい涙。
リュウは今、確かにここにいるけれど。
「達也の、言う通りかもしれない。親父も会社も捨てる、はいサヨナラ、ってできるなら、最初から離れなかったんだよな」
ああ、やっぱりそうか。
そう思った瞬間、不意に、リュウの顔がぼやける。そして、達也は初めて、自分が泣いていることに気づいた。
「わかった。いったん帰って、親父と話してみる」
「そのほうがいい。俺、待ってるから」
「俺の恋人が男だって、びっくりすると思うし、理解できないだろうけど・・・でも、話してみるよ」
リュウはそう言うと、両手を伸ばし、達也がしているのと同じように、その頬をそっと包み込んだ。
一度は削除した、お互いの連絡先を交換しあい、東京に戻るリュウの車を見送ると、達也は大きくため息をついた。
これで、良かったんだ。
そう、自分自身に言い聞かせる。
リュウが戻ってくる保証はないけれど、戻らないという確証もない。先のことを考えれば、達也とリュウは、最も現実的な選択をしたのだ。
そう、思いたかった。
〔Part10〕
「もっりもとぉ」
ゴールデンウィークが明けた、最初の出勤日。社員駐車場に愛車を停めて、更衣室がある厚生棟へと歩く達也の背後から、無責任に明るい声が飛んできた。
「なんだよ、松尾、連休明けなのにテンション高いな」
「そっか? 俺的には普通なんだけどな」
「あ、わかった。連休中の婚活、いいことあったな」
松尾から先月、婚活パーティーに誘われたことを、達也は思い出していた。
「あれ、やっぱりわかっちゃうかな?」
「それしかねえだろ。いい人、いたんだな」
「めっちゃ盛り上がっちゃってさ、今度の日曜、初デートなんだ。もう、仕事どころじゃないよな」
溶けそうな松尾の笑顔を、達也は、うらやましいと感じた。これから彼が、その人に対して、いろいろな行動を起こしていけるからだ。
自分は、リュウを待つしかない。
達也に会ったあの日の夜、リュウから、父親をつかまえて話をしたと連絡があった。けれど、父親はやはり動揺して、ちょっと考えさせてくれ、と話を切ったそうだ。
それはそうだよな。達也も、頭ではわかっている。会社を継いで、結婚して家庭を築くと思っていた一人息子が、同性の恋人を忘れられない、彼と暮らしたいと言い出したのだから。
頭ではわかりつつも、心では必死に祈る。どうか、どうか、俺にリュウを返してください・・・。
「なあ、森本? そう思うだろ」
松尾に呼ばれ、ふと達也は我に返った。
「あ、うん、ごめん。ちょっと考え事しちゃって」
「なんだよお、俺の幸せな未来を聞いてくれよ」
「悪い悪い、いくらでも聞くよ、松尾の光り輝く未来予想図」
「いいねえ、光り輝く未来予想図って。幸せは、もうすぐそこだからな」
俺の幸せは、何処なんだろう。どうしても、達也はそう考えてしまう。
親父さんと話して来い、とリュウを帰したのは、間違いだったのだろうか。彼が去る未来が怖くて、そう言ったくせに、達也は自分のその判断を、徐々に悔やみ始めていた。
ケンタッキーのフライドチキン、たくさんいただいたの。お裾分けするから、帰りに寄ってね。
夕方、香代子からLINEが入り、達也は仕事帰りに、妹の家に立ち寄った。夫の豊は残業、息子の翔は部活で、在宅しているのは彼女だけだ。
「えっ、リュウくんが来たの?」
リビングの安楽椅子で、達也の話を聞いた香代子は、お茶を飲む手を止めて、まじまじと兄の顔を覗き込んだ。
「そうなんだ、突然」
「良かったねえ、じゃあ、またリュウくんとよりを戻せるんだ?」
「いや、そう簡単にはいかないよ」
リュウとの話の経緯を、達也が手短に話すと、香代子の視線が右下に向いた。切ない話を聞いた時の、子供の頃からの彼女の癖。
「ね、お兄ちゃん。性別って、何なんだろうね」
そして、彼女はつぶやくように言った。
「お兄ちゃんが、ゲイなんだって家族に打ち明けた時、お父さんもお母さんも、兄さんも、みんな拒否反応を示したよね」
香代子は、長兄を兄さん、次兄の達也をお兄ちゃんと呼ぶのだ。
「ああ、確かにな」
「私は正直、びっくりはしたけど、嫌だとは思わなかったのね。だからお父さんが、お兄ちゃんのこと、育て間違いだって言った時は、そっちのほうが嫌だったの」
「そんなこと、あったな」
もう随分、昔の話だ。香代子に言われるまで、達也自身、父親のその言葉を忘れていた。けれど、それ以降生まれた、両親や兄との距離は、今でも縮まらないままだ。
「リュウくんのお父さんって、どんな人なんだろ」
「どうだろう、リュウの話では、家族思いの父親だって言ってたけど」
「そっか・・・」
考え込む香代子の表情が、達也は嬉しかった。ああ、ここに、俺の絶対的な味方がいる。ひとりぼっちではない自分自身を、彼は改めて実感していた。
その電話がかかってきたのは、翌日の夜。着信音に反応した達也が、スマートフォンの画面を見ると、表示されていたのは、知らない電話番号だった。
携帯ではなく、固定電話の番号。市外局番は東京だ。
普段、達也は登録していない番号からの電話には、基本的に応答しない。けれど、何故かその時は、拒否しないほうがいいような、そんな気がした。
「もしもし?」
一応、名乗らずに応答する。
『あ・・・森本達也さんの携帯でよろしいでしょうか?』
電話をかけてきたのは、男性だった。どこかで聞いたような、初めて聞くような、そんな声。
「そうですけど。どなたですか?」
『突然のお電話、申し訳ありません。私、倉野と申します。倉野リュウの、父親です』
その言葉が、一瞬、達也の呼吸を奪う。
リュウの、父親。今、そう言ったよな?
『息子から、あなたのことを伺いました。それで・・・お会いして直接、話をさせていただけませんか』
スマートフォンを持つ手が、震えているのがわかる。
突然、旋回を始めた事態に、達也の思考回路は、完全に停止していた。
〔Part11〕
◇◆◇
一着しか持っていないスーツは、引っ張り出してみると、十キロ以上痩せた今の達也には、まったくサイズが合わなかった。
これを着ていくほうが、失礼な感じさえする。
仕方なくスーツを諦め、ベージュのコットンパンツと、紺色のジャケットを身につけた。今どきのマナーとして、マスクを忘れないよう、ポケットに入れる。
息子のことで話がしたい。そう電話をかけてきた、リュウの父親は、達也を訪ねて茨城へ行くと言った。
今日が、その約束の土曜日。倉野とは、最寄り駅の前にある喫茶店で、十一時に会うことになっている。
達也の電話番号を知るのに、リュウのスマートフォンを覗き見したという倉野は、それを内緒にしたいから、息子には告げずに行くと言っていた。
だから、達也もリュウに、彼が来ることを話していない。緊張のあまり、達也は昨夜、ほとんど眠れなかった。
念の為に、かかってきた電話番号を検索してみると、クラノ運輸本社のものだった。達也がこうする可能性を考えて、倉野はあえて会社の電話を使ったのだろうか。
リュウ。今度は、俺の番だ。
自分に気合を入れて、達也は玄関で靴を履く。
・・・リュウ。
そして、彼はひとつ、大きく息を吐いた。
カウンターの後ろの棚に、ずらりとコーヒーカップが並ぶ、老舗の喫茶店に達也が入ったのは、ちょうど十一時だった。
一番奥のテーブル席に座っている、マスクをつけた男性と目が合った瞬間、彼が倉野だと、達也にはすぐにわかる。目元がリュウにそっくりだからだ。
「森本さん?」
近づいていく達也に気づき、倉野が立ち上がった。
姿勢のいい男性だ。淡いブルーのシャツに、黒のカーゴパンツ、アイボリーのコンバース。父親というより、リュウが好みそうなコーディネート。
「はい。森本達也と申します」
「お越しいただき感謝します、倉野です」
差し出された名刺には、確かに、クラノ運輸代表取締役社長・倉野雄三と書かれている。自分は名刺がなくて、と告げると、倉野は構いませんよと笑みを浮かべた。
着席した途端、水を運んできた店のスタッフに、倉野がブレンドコーヒーを注文したので、達也も同じものを頼んだ。緊張のせいで、メニューなど選べそうにない。
「息子から、森本さんのことは聞きました。以前は我々と同業だったとか」
「はい、リュウと・・・リュウくんと暮らしていた頃は、ずっと宅配便のドライバーをしてました」
「あ、息子のことは、リュウでいいですよ。普段通りの呼び方で」
声も、リュウは父親に似ているのだと、達也は改めて思った。
「こちらからお誘いしておきながら、何から話せばいいのか、自分でもよくわからないのですが」
「あ・・・でも、驚かれましたよね? その、リュウの恋人が俺、っていうか、男で」
達也も正直、何を話せばいいのかわからない。わからないなりに、気がかりなことを振ってみることにした。
「それは、びっくりしました。本当に・・・想像もつかないことでした」
少しだけ黙り込んだ倉野が、ゆっくりと話し始める。彼が、言葉を選びながら話しているということは、達也にも感じられた。
「今はジェンダーレス、なんてよく聞きますし、多様性は認められるべきだと思ってます。でも、自分の息子のこととなると、やっぱり違いますね」
注文していたコーヒーが運ばれてきて、倉野は一度、言葉を切った。要するに、受け入れられないんだなと思いつつ、達也はそれを口には出さない。
倉野がマスクを外し、コーヒーを味わった。その口元は、目元ほどリュウに似ていない。ここは母親譲りなのだろう。
「息子は大学の頃、彼女を連れてきたこともありますから、普通に女の子が好きなんだろうと思ってました」
そして、彼はその口元を、再びマスクで隠して、話を戻す。
「だから今回、息子が、四年間一緒に暮らした恋人のところに戻りたい、その人は男性なんだと言った時は、意味がわかりませんでした。正直、今も、わからないままです」
何と答えていいのかわからず、達也もマスクを外して、コーヒーカップに口をつける。美味しいはずのその味が、どうしてだろう、やけに苦く感じられた。
〔Part12〕
香代子が母親になった時、達也は、まだ生後数日の甥っ子を、抱かせてもらったことがある。
やわらかすぎる赤ん坊は、今にも壊れてしまいそうで、達也は抱いている間、動くことができなかった。
お兄ちゃんの抱き方、すごく変。そう言って、ころころと笑う香代子の表情は、とても幸せそうに見えたものだ。
リュウが達也の元に戻ったなら、倉野夫妻は、孫を抱くという幸福を味わうことはできなくなる。唐突に、達也はそのことを思い出した。
「二十代のうちは好きにしていいから、三十になったら、家に戻って結婚しろ。自分は確かに、そう言いました。それまでには、結婚相手を見つけてくるだろうと思って」
倉野の声が、達也の短い物思いを引き戻す。
「戻った時に、もし相手がいないようなら、お見合いというか、紹介のような機会を作ればいい。そんなふうに考えてました」
「跡取り息子、ですもんね」
「跡取り息子で、一人っ子。会社も継いで行って欲しいし、いずれは孫が見たかったのもあります」
リュウの言葉を借りれば、家庭を大切にする父親。だからこそ、息子も一度は、父との約束を守った。
「でも、戻ってきたリュウは、元気がありませんでした。口数も少ないし、だんだん痩せていくんです。最初は、仕事を経営の方に異動させたから、プレッシャーでもあるのかと思っていたんですが」
お兄ちゃん、何だか会う度に痩せてくよ。達也の脳裏に、そう言っていた香代子の顔が浮かぶ。倉野もきっと、彼女のように、リュウを本当に心配しているのだろう。
「自分は父親なのに、息子に言われるまで、何も知らなかったんです。本当に何も」
倉野はそう言って、またマスクを外し、コーヒーで口を潤した。
そして。
「森本さん」
彼はまっすぐに、達也の顔を見る。
「先程も言いましたが、リュウの恋人が男性だということを、自分はうまく受け入れられません。受け入れられないまま、お願いしたいんです」
達也の背中が、条件反射でぐっと伸びた。
お願いって・・・リュウを諦めろというのか?
思わず、達也は身構える。何と答えればいいのだろう。
しかし、倉野の口から語られた願いは。
「森本さんはこの街で、仕事もして、自分の生活を築いている。それを承知で、お願いします。東京に・・・リュウのそばに、戻ってやっていただけませんか?」
それは、予想を超えた、深い深い言葉だった。
「倉野さん?」
リュウのそばに、戻ってやって欲しい。
たった今聞いた、その願いが、達也の中でぐるぐる回る。それは、倉野の意に反する願いだ。
それなのに、リュウのそばに戻れと言うのか?
「別に、良かったんですよ。リュウが、どうしても森本さんのそばにいたい、と言うなら。悩んでないで、もっと早く、話してくれれば良かったんだ」
不意に、倉野の声が湿った。
「会社のことは、リュウが跡を継ぐ、ということで動いていますから、自分の思いだけでは変えられません。でも、プライベートなら、話は別です。あんなに痩せるほど、悩んでいたなんて」
「でも・・・いいんですか? 俺のこと、受け入れられないんですよね。それに、孫だって見れなくなりますよ」
リュウとの未来を、焦がれるように望んだくせに、達也は思わず、倉野にそう確認していた。
「正直、受け入れられないです。批判されそうですが、嫌悪感もあります。でも」
でも?
「それ以上に自分は、悩んで苦しむリュウをもう、見たくないんです。ただ、それだけなんですよ」
・・・ああ。
そういう、ことか。
思わず、達也は納得する。
これほど、器の大きい父親と交わした約束だったから。だからリュウは、どうしても破れなかったのか。
「先程言った通り、息子には会社を継いでもらいますので、茨城に行くと言われるのは困ります。だから、森本さんに、東京に戻って欲しいんです。仕事を辞めさせることになってしまうのに、申し訳ありませんが」
「・・・ありがとうございます」
そう言いながら、達也は、倉野へ深々と頭を下げる。
それは、自分の意思より息子の幸せを願う、倉野雄三というひとりの人間への、敬意の表れだった。
〔Part13〕
◇◆◇
「えっ、森本、会社辞めんの!」
職場の上司に、退職願を提出した日の終業後。社員駐車場へと歩きながら、達也がそのことを話すと、松尾は眼球が飛び出しそうなほど、大きく目を見開いた。
「そうなんだ、東京に戻ることになってさ」
「いつ?」
「今月末付けで」
「マジかよ、淋しくなるな。これから俺のノロケ話、嫌ってほど聞かせてやろうと思ってたのに」
そう言って、松尾は残念そうなため息をつく。もちろん、話を聞かせられないことではなく、達也の不在が嫌なのだろう。
「何で、東京に戻るんだ?」
「別れた恋人と、よりを戻すことになったんだ」
「えっ、おまえ、そういう人いたの? じゃあ、俺が婚活パーティー誘っても来ないよなあ。何が、生涯独身万々歳だよ」
松尾はそう言いながら、にっこりと笑って、達也の肩をぽんと叩いた。
「それなら、森本のLINE教えろよ。ノロケ話送るから」
「いいよ」
「なんか残念だけど、幸せのためなら仕方ないよな」
おまえも、幸せになれよ。スマートフォンを取り出しながら、達也は心の中でつぶやく。ノロケ話くらいなら、いくらでも聞いてやるよ。
『ちょうど、空きがあったよ』
リュウが電話で、そう伝えてきたのは、彼等が一緒に暮らしていた、2LDKのマンションのことだ。かつて、その二階で、ふたりは四年間の時間を紡いだ。
「空いてたのか」
『同じ部屋じゃないけど、三階の角部屋が空いてるっていうから、とりあえず仮押さえしといた。間取りはまったく同じだって』
「そこでいいよ、階以外全部同じなら、元の生活に戻るのも楽だろ」
『じゃ、明日契約してくる』
電波越しでも、リュウの声が弾んでいるのがわかる。
「あと、豊さんが、落ち着いたら遊びに行きたいって言うから、いつでもどうぞって答えたんだけど」
『香代子さんの旦那さんだね、了解。お客さん用の布団、用意しなきゃ』
夢にまで見たリュウとの暮らしが、再び始まる。
引越しまでにやることは、意外に多かった。
アパートとライフラインの解約手続き、持っていくものと不用品の選別、荷造り。そして、車の売却もそれに加わった。
この街に来た時、達也は中古の車を買ったが、リュウにも車がある。二台は不要だと考えた彼等は、走行距離の多い、達也の車を手放すことにしたのだ。
売却時には、営業職だから交渉は得意だと、豊が達也につきあってくれた。
「この車で福島に行ったのに、何だか淋しいな」
そして実際、買取専門店の査定に対し、いろいろな理由を挙げて、五万の上乗せを勝ち取ったのだから、見事なものだ。
会社でもさぞかし有能なのだろうと、達也は豊と、彼を選んだ香代子を心強く思った。
「あの旅行は楽しかったなあ。豊さんと行けて良かった」
「俺もだよ。達さんが東京に戻っても、時々遊ぼうな」
「いいね、旅もまたしたいよな」
香代子から、達也とリュウの話を聞いて、豊は驚きこそしたものの、すんなりとそれを受け入れたそうだ。
だってさ、ゲイだって何だって、達さんは達さんじゃん。その一言で片付けたという豊は、達也の隣で、今までと何ひとつ変わらずにいる。
〔Part14〕
引越し当日の空は、文句のつけようがないほどの、完璧な快晴だった。
「お天気でよかったね、なんか幸先いい感じ」
平日だが、仕事を休んだという香代子が、達也の手伝いに来てくれている。
「ほんとに、雲ひとつないってこのことだよな」
「めったにないよね、こんな青空」
身の回りのものを詰めた段ボール箱と、いくつかの家具。抜け殻のように暮らした一年でも、持ち物は、それなりに増えていたのだ。
生活するとは、こういうことなのかもしれない。
「リュウくん、これから迎えに来るんでしょ。何時頃?」
「引越業者が十一時だから、その頃に来るって言ってたよ」
「久し振りだなあ、リュウくんに会うの。かっこよくなってそう」
「ああ、だいぶ痩せたけどな」
香代子がいてくれて、本当に良かった。
パジャマや洗面道具など、今朝まで使った、兄の最後の荷物をまとめる妹の姿に、達也は心から思う。リュウを失っていた間も、香代子がいたからこそ、本物の孤独までは、感じずに済んだのだから。
「香代子、ありがとな」
「えっ、何が?」
「いや・・・なんでもないよ」
改めて問われると、感謝をもういちど口に出すのが、何故か恥ずかしくなってしまった。
リュウのパールホワイトの車が、達也のアパートの前に到着したのは、引越業者の車が出ていくのと入れ違いだった。
「わあ、香代子さん!」
車から降りてきたリュウが、香代子を見つけて、人懐っこい笑顔を浮かべる。
「リュウくん、久しぶり!」
「ほんとお久しぶりです。香代子さん元気そう」
「おかげさまでね。お兄ちゃんの心配、しなくて良くなったから、これからもっと元気になるかも」
何だか、俺が迷惑かけてたみたいだな。達也が、そう割り込むのを合図にしたかのように、やわらかい風がひとつ、三人を包みながら吹き抜けていった。
「いい風だね」
リュウが顔を上げて、その風を味わう。
「最高のお天気で、良かったね。幸せへのドライブ、って感じ」
香代子がそう言って、達也とリュウの背中を、ぽんと軽く叩いた。
「お兄ちゃん、リュウくん、お幸せにね」
「ありがとう。達也を預かるね」
「うん、お兄ちゃんをよろしく。ずっと預かっててね」
もう一度、やわらかい風が吹いて、彼等の髪をそっと撫でる。それは、達也とリュウの二度目の始まりを祝うような、暖かく、とてもやさしい風だった。
〔了〕
※最後までお読み下さり、ありがとうございました。
