⭕️接触の内側 —休まなかったら、見えなかったもの



休職しなければ良かったのだろうか。

最近、ときどきそう考える。

もし、あの時、上司が人事に掛け合ってくれていたように、異動だけで済んでいたら。
休まずに、そのまま別部署へ移れていたら。
今頃、普通に働き続けていたのではないか。

そんな「別ルート」を想像することがある。

実際には、異動は実現せず、私は休職に入った。
そして、気づけば数ヶ月が経っている。

その結果として今、私は、
「復職できるのか」
「再雇用されるのか」
「元の仕事に戻れるのか」
を考え続けている。

それだけ見ると、休職は失敗だったようにも見える。

だが一方で。

休まなかったら、見えなかったものも、確かにあった。



2020年頃から、私は地域の緑化ボランティアに関わるようになった。

花壇を整え、道端の草花を世話し、近所の人と言葉を交わす。
そこには、会社とは違う時間が流れていた。

成果目標も、レビューもない。

ただ、季節だけが巡る。

通りすがりの人が、
「あ、咲きましたね」
と声を掛けていく。

今思えば、あれは「弱い接触」の場だった。



しばらくして、着物を着て街へ出るようにもなった。

向島。
浅草。
寄席。
祭。


最初は単なる趣味だったはずだ。

だが、そのうち私は、
「着物を着る人」
より、
「その場所に、どんな接触が残っているのか」
を観察していることに気づき始めた。

芸者と客。
祭の後の路地。
喫茶店の常連。
昼飲みの老人。
観光客と地元民。

都市の中には、
完全な他人でもなく、
完全な共同体でもない、
奇妙な“中間地帯”がある。

私はそれを、接触帯と呼び始めた。



休職してから、その感覚はさらに強くなった。

会社という強い接続から外れたことで、
逆に、街の中の弱い接続が見えるようになった。

神社。
喫茶店。
せんべろ。
写真。
note。

それまでは、
「ただの暇つぶし」
に見えていたものが、
実は都市を漂流する人々の“接続維持装置”だったことに気づき始めた。

定年後の老人達が、
なぜ毎日同じ喫茶店に来るのか。

なぜ昼からせんべろで飲むのか。

なぜ祭に通い続けるのか。

そこには、
「暇つぶし」
では説明しきれないものがある。



もちろん、だからと言って、
休職して良かった、とはまだ簡単には言えない。

収入の不安もある。
復職の不安もある。
居場所を失っていく感覚もある。


私はまだ、宙吊りのままだ。

それでも。

もし休職していなければ、
私はきっと、
「接触」
そのものを観察しようとは思わなかった。

街を歩いても、
そこに“意味”を見なかっただろう。

社会に適応することだけを考え、
都市を、単なる背景として通り過ぎていたかもしれない。



最近、noteで、
記事にスキされることが増えてきた。

それは、小さなことだ。

だが同時に、
会社とは別の場所で、
誰かと接続し始めている感覚でもある。

それは収入源として生活を支えるほどのものにはならない。

ただ、
「会社人格とは別の自分」
が、街の中で、少しずつ輪郭を持ち始めている。

休職とは、
社会から切断されることだと思っていた。

だが実際には、
別の接続を観測し始める期間だったのかもしれない。

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