役者の道は途絶えた/他人の不幸は蜜の味 #11
急いで真っ白い無地のTシャツに着替え、黒の太いサインペンを握りしめ、先ほどの銭湯へと向かった。
本当に憧れているあの役者さんだったら、Tシャツにサインを書いてもらおうと思ったからだ。
銭湯の入り口まで来たものの、まだどう声をかけようかとオロオロしていると、その人が出てきた。
勇気を出して、「〇〇〇〇さんですよね?」と、声を掛ける。
ちょっと驚いた様子で、「そうですけど…」と言って、反応を返してくれた。
その男性は、やっぱりボクが演劇の世界に飛び込むきっかけとなった、憧れの人だった。
自分がその役者さんの後輩であること、その人に憧れて演劇を始めたことを伝えた。
厚かましくも、その頃に自分が出演した舞台の話もした気がする。
すると、驚いたことに、その役者さんはボクに意外な言葉をかけてくれた。
「そうなんだ、君のことは色んな人から聞いて知ってたよ。だから、いつか会ってみたいなって思ってたんだよ」と、その人は言ってくれた。
今となれば社交辞令だと思うが、その時はボクのことを知ってくれていてくれたことが、めちゃくちゃ嬉しかった。
とはいえ、すごく緊張して、うまく喋れなかったのは覚えている。
最後にボクは黒いサインペンを取り出し、勇気を振り絞って言った。
「このTシャツの背中に〇〇〇〇さんのサインを書いていただけませんか?」
その人はちょっと困ったなぁという表情を浮かべながら、ボクのTシャツにサインを書いてくれた。
「ありがとうございました」と、ボクは元気良くお礼を伝えた。
別れ際に「いつか一緒の舞台に立ちたいね」と、その人は言ってくれた。
**その人と直接お話させていただいたのは、これが最初で最後となる。**
ボクは興奮しながら彼女の待つアパートに着いた。
彼女にその人のサインが貰えたこと、ボクのことを知ってくれていたことなんかを事細かに話した。
「ほらね、行って良かったじゃん」と、彼女は言ってくれた。
そして、彼女はボクに、もう一言加えて来た。
「〇〇(ボクの名前)がそんなに憧れてる人でも、今も銭湯とか行くんだね」
彼女は寂しそうに言った。
その人があの銭湯にいらしたのは、その時たまたまだったかもしれない。
ただ、彼女がそう言うワケは、なんとなくボクには分かった。
お坊っちゃまお嬢さまが多く通っていた彼女の大学は、友達とか先輩後輩も、ボクとは別世界の遠い存在だった。
そんな大学で、彼女はミスコンとかにまわりに推薦されたり、町を歩いていたら芸能事務所からスカウトされるような可愛い女の子だった。
ボクの猛アタックと、恐らく彼女の回りにいない異質な人間だったおかげで、最初はモノ珍しさで付き合ってくれてたんだと思う。
彼女は年下だったが、ボクと卒業のタイミングは同じで、大手電機メーカーへの就職が決まっていた。
ボクはと言うと、舞台役者目指して、大家さんが手作りしたんじゃないかっていうシャワーボックスというユニットバスでもない部屋住み。
**このままボクと付き合い続けていても、将来は不安しかない状況であることは明きらかだった。**
憧れていたその人は、今ではテレビや映画でも見るような俳優さんになっているが、そんな風になれる人は一握りだ。
自分では一生懸命やってきたつもりでだったが、女の子一人も幸せに出来ないのかと愕然とした。
「舞台やめるわ」
彼女にそう伝えたのは、大学4年のクリスマスを目前に控えた冬だった。
ヒトタラヲ
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