【小説】携帯電話を川に落としたよ
轟々と、絶望の音が聞こえる。
佐倉佳苗は絶望の淵に立っていた。実際に立っているのは橋の上だが、その胸中は断崖絶壁にいた。
仕事でこの田舎に三泊した。明日、村長の車で最寄りのバス停に向かう予定だ。
──ドボン
その音は、驚くほどあっけなかった。
二日前から止まない雨で増水した川は茶色く濁り、轟々と音を立てている。村を訪れた時とは違う川の様子に、写真を撮ろうとした。それだけだったのに。最新型のスマートフォンは底なしの闇に飲み込まれたように、もう見えない。
指先をすり抜けた感触が残る。反射的に伸ばした手は空を切り、光沢のある薄い長方形の筐体が、水飛沫を反射しながら放物線を描いた。
「いや、でも、明日の夕方には、駅に着く予定だから、それまで凌げば、大丈夫!」
自分に言い聞かせるように声に出したのは、水の音以外を聞きたかったからかもしれない。
バスの時間を確認しようとポケットに手を入れる。しかし、右手が探すものは、さっき、川の中へと飲み込まれた。その事実が一気に実感を連れてきた。
佳苗は慌てて、宿泊している村長宅へと戻った。
家には誰もいなかった。
荷物を広げるが、使えるものはない。最小限の荷物で来たため、ノートパソコンもタブレットも持ってきていなかった。
「どうしよう……」
提出期限の迫った企画書の修正依頼。クライアントからのメールは、おそらく今この瞬間も届いている。
それから、SNSも気になる。数時間前にアップした「出張中の空き時間」という自撮り写真。グループチャットに自分から話題を振っておいて返信しないのは、あまり印象が良くない。
自分の現在地を正確に知らせてくれる地図も、数千人分の関係性につながる窓口も、生活のすべてを記録したデータも、すべてはあの泥水の下に沈んでしまった。
雨の音が聞こえる。
自分の家で聞くのとは違う音に聞こえる。
森に降る音、土を濡らす音、屋根を叩く音。
絶望しか拾えなかった耳が、ようやく音を拾えるようになってきた。チッチッとなる時計に目をやる。帰宅予定まであと二十八時間程。連絡がつかないことで仕事では各所に迷惑をかけるだろうが、一日でどうにもならないことにはならない。SNSも、まあ、一日見ないからといって壊れる友情でもない。
佳苗は諦めてこの事態を享受することにした。
そのときだった。家の戸がガラガラと開いた。
「佳苗さん、帰ってたんだね」
雨合羽を着た村長だった。雨靴が泥だらけになって、玄関に足跡を作っている。
「橋の手前で土砂が崩れた。川も増水しとるし、明日、車が出せないことになった」
「え、でもそんなに強い雨じゃないですよ?」
「強くはないが量が多いんだ」
「そんな……」
再び襲ってきた絶望感に、佳苗はため息が出そうになるのを我慢した。村長の前で暗い顔をするのは失礼だと、社会人としての振る舞いを忘れなかった。
「実はさっき川に携帯を落としてしまって。会社に連絡を入れたいので、電話をお借りしてもいいですか?」
「ああ、もちろん」
初めて触れる黒電話の重みに緊張しながら、佳苗はダイヤルを回した。受話器から聞こえる上司の声もいつもと違って聞こえる。自分の声はどんなふうに聞こえているのだろう。そんなことを考えていたら、いつのまにか通話は終わっていた。
「仕事は大丈夫だったかい」
「はい。有休も余っていたので休みをもらいました」
よかった、と村長は申し訳なさそうに小さく言った。
翌朝、佳苗は聞きなれない音で目が覚めた。パタッパタッという柔らかな衝撃音。それが次の瞬間から、カンッカンッという鋭い音に変わった。起き上がり音のする部屋へ行くと、村長の妻が座っていた。
「あらぁ、佳苗さん。まだ早いよ」
「何か音がしたから……それ……」
「雨漏りしちゃったのよ」
畳に置かれた小鍋からカンッと音が鳴る。初めて見る雨漏りに感動すら覚えていると、頭に雫が落ちてきた。驚いて声を上げると、村長の妻からボウルを渡された。立っていたところに置くと、パチンと雨粒がボウルを叩いた。
不規則なメロディはなぜか心地よく、まだ朝早いことも相まって、佳苗のまぶたは再び閉じようと下がってきた。普段であればネットニュースを見たり、仕事のメールをチェックしたり、用がなくてもスマホを開いているだろう。でも今その窓口は、すでに川の底だ。
「もう少し寝てきたら?」
そんなふうに声をかけられたら、佳苗は頷くほかなかった。布団へ戻り目を閉じる。カンッ、パチンッと高い音が次第に増えていった。
次に目が覚めたとき、村の放送が聞こえた。明日の午後、土砂を片付ける作業が入るためそれまでは川に近づかないように、ということだった。つまり、あと一日はこの村で過ごすということだ。
雨の村で何をして過ごそうか、そう首を捻ったとき、あの雨漏りの音がしないことに気づいた。窓の外を見ると降り続いていた雨が、細かく小さな霧雨に変わっていた。
居間に行くと村長の妻が軍手を手にうろうろしている。佳苗が何をしているのか尋ねると、畑に誘われた。
「雨止んでませんよ?」
「大丈夫、大丈夫。こんなの降ってないのと変わらん、変わらん」
雨合羽に長靴を履いて畑に入る。水をたっぷり含んだ土に足が沈んだ。ぐにゃっ、ぬるっと初めての感覚に思わず「うわぁ」と声が出た。足を持ち上げると土が重い。雨合羽で狭まった視界は液晶越しの知識よりも深く鮮やかな色をしている。わずかに顔や指先に触れる雨は冷たいのに、なぜか嫌だとは思わなかった。
「佳苗さん、ほら、食べてごらん」
差し出されたのは赤い小さな実。野生化したら強くなったいちご、そんな見た目に佳苗はそれを凝視した。表面の粒々に水を纏ってキラキラと輝いている。
「これは?」
「いちご」
「この畑はいちご畑なんですか?」
「まさか! 勝手に生えてきただけよ」
佳苗は驚きながらも、受け取ったいちごを口に入れた。ケーキの上に載ってるものとは違う強い酸味に、存在感のある種、でもそれ以上に広がる香りと濃い味。
「……おいしい」
村長の妻はにっこりと笑うと「こっち、手伝って」と言った。
直接触れる濡れた草花は、会社のロビーに飾られたものより生命力に満ちている。
雨水をふんだんに吸い込んだ土は、深くて少しスモーキーな感じがする。
雨がこんなにも静かに降ることを初めて知った。
土の粒の大きさを初めて感じた。
情報の海に溺れていた時には気づかなかった、「今、ここにいる」という確かな手応え。
「佳苗さん!見てごらんよ」
ハッと顔を上げると、いつのまにか雨の止んだ空には虹がかかっていた。
都会のビルに切り取られた細い虹ではない。山の稜線からもう一方の稜線へ、巨大な橋を架けるように、完璧な半円。佳苗は、虹が七色でないことを初めて知った。
反射的にポケットに手を伸ばした──が、そこには何もない。
一瞬の戸惑いの後、彼女は深く息を吐いた。
──撮らなくていいんだ。私だけが、今これを見ていれば。
誰かにシェアするためではなく、自分の心に刻むためだけに、彼女はその光景をじっと見つめ続けた。
道が通れるようになったと放送があったのは、翌日の日暮前だった。
開通した道を通り、佳苗は都会へと戻った。
真っ先に向かったショップで、スマートフォンを手に入れる。今度は最新型ではなく、型落ち品にした。
電源を入れた瞬間、震え出す端末。数百件のメール、LINE、SNSの通知。かつての彼女なら青ざめていたであろうその嵐を、佳苗はただ眺めていた。
「佳苗! 何があったの!全然連絡つかないから死んだかと思ったよ」
「携帯電話を川に落としたよ」
再会した友人は、ランチ中も絶え間なくスマホをチェックしながら言う。以前の自分を見ているようだった。
「ごめんね。でも、案外大丈夫だったよ」
佳苗は微笑み、自分のスマホを裏返してテーブルに置いた。
仕事は少し立て込んでいたが、誠実に謝れば、世界が崩壊することはなかった。SNSの「いいね」がなくても、あのいちごのおいしさは消えないし、虹の輝きも色褪せない。
佳苗は、通知の音ではなく、窓の外を流れる風の音に耳を澄ませる。
彼女はもう知っている。この薄い板がなくても、自分は世界と、そして人と、もっと深い場所で繋がることができるのだと。
読んでくださりありがとうございます。
書いていたお話に、息抜きで書いた別のお話を上書き保存してることに気付きました。
萎えーです。
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