【小説】名もない春
この世界では、名前は言葉と世界のあいだに張られた薄い膜だった。
名前を持つ者の言葉は地表を滑り、名前を失った者の言葉は、雨のように人の内側へと染み込む。誰が言ったか分からない言葉ほど、人はそこに自分の意味を見出すからだと、古い本に書いてあった。
両親からもらった名前は、悪いものから私を守り、汚いものから隠してくれた。守られ、隠され、甘やかされて育った私の言葉に重みはなく、誰の心にも引っかからないものになっていた。意見も、願いも、助けを求める声も、空気のように通り過ぎていった。
「名前を預けますか」
役所の奥。光の薄い小さな窓口で、係員は事務的にそう言った。それは売買ではなく、保管だという。預けられた名前は、世界のどこかの書庫にしまわれ、誰の記憶からも消える。代わりに、その人の言葉は名のない言葉として人々に届くようになる。
私は少しだけ迷い、それから頷いた。書類にサインをすると、係員は私の名前を細い紙に書き写し、引き出しの中に入れた。引き出しが閉じる音は、遠くの風鈴のように細いのに確実に私の鼓膜を揺らした。
その日から、私は誰でもなくなった。
表札から名前が消えて、身分証は無効になったけれど、不思議と恐怖はなかった。私は呼ばれない存在になった代わりに、街の中に溶け込んでいた
試しに、一言呟いてみる。
「あなたは、間に合うよ」
川面が光をちぎって流れている。反射した光がそこにいた少女の顔を照らした。
少女は立ち止まり、胸に手を当てる。そして何かを決意したように、駅へ向かって歩き出した。
私はその背中を、春の風のように見送った。言葉が彼女の中に溶けていったのが、なぜか分かった。
それから私は、言葉を置いて歩いた。病院の前、濡れたベンチ、夕暮れの校庭。誰かの胸に、名のない温もりを残すために。
霧雨の降る午後、私は古い公園の東屋に老人を見つけた。杖を両手で握り、地面を見つめている。濡れた土の匂いと、遠くを走る車の音が、ゆっくりと時間を溶かしていた。
老人の横には、病院の名前が書かれた封筒があった。中身はわからない。でも、残りの時間の気配は、空気から伝わってきた。
私は、そっと彼のそばに立つ。
「あなたの人生は、まだ終わっていない」
老人はゆっくりと顔を上げ、誰もいない空間を見つめた。しわだらけの目が、雨粒を探すように動く。
「……もう、十分に生きたよ」
その声には、諦めよりも、どこか懐かしむような響きがあった。
「奥さんへの土産話は、もう揃った?」
老人は一瞬、きょとんとした顔をし、それから、胸の奥から小さな笑いをこぼした。
「……あいつは、うるさいからな」
彼は写真を取り出す。そこには、若い頃の彼と、隣で笑う女性が写っていた。指でその輪郭をなぞり、ゆっくりと息を吸う。
「もう少し、増やしてもいいかもしれん」
彼は杖に体重をかけて立ち上がる。霧雨の光の中で、その背中はわずかに伸びていた。
私は記憶されない。私の言葉を聞いた人は、それを自分の内側から湧いた声だと思うだろう。それでいいのだ。
私は世界に影響を与えながら、世界に存在しない者になったのだと実感した。
ある日、桜並木の下でかつての友人を見つけた。花びらが光の中で舞い、彼女の頭に乗っている。私をすり抜けるように通り過ぎ、まったく気づかない。
私は彼女に言った。
「あなたは、ちゃんと愛されていた」
彼女の目には涙が浮かび、桜を見上げた。桜は何も答えない。ただ、優しい影を落とす。歩き出すのと同時に、花びらが落ちた。
それでよかった。
名前があれば、私は誰かとして覚えられただろう。けれど名前がないからこそ、私の言葉は誰のものにもならず、誰の中にも入り込める。
私は、光のようにそこにいて、風のように、そこを去る。名前はない。けれど、誰かの胸に芽生える小さな春として、私は生きている。
それが、私が選んだ在り方だった。
(1598文字)
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