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【エッセイ】母、ミュージカルin福岡

 それは、ある冬の終わりの出来事だった。

「──っ!」

 声より先にスマホを持つ手が震えた。私の血肉となっている小説がミュージカル化するという。
 複数のレーベルから出版されたすべてを揃え、一字一句の差異を比較しながら、ボロボロになるまで読み耽った物語。
 本棚の特等席を占めている物語が、福岡にやってくる。

 絶対行く。

 日程を見て逆算する。この時期なら下の子の授乳はきっと夜間のみになっているだろう。土曜日なら夫も休みだ。頭の中で予定を組み直していき、隙間を作る。
 私はカレンダーに大きく「母、ミュージカルin福岡」と書いた。

 鹿児島中央駅から博多駅まで、最短の新幹線で1時間16分。なんて近いのだろう。それなのに、どうしてこんなに遠いのか。
 理由は自覚している。趣味が私にとっての最優先事項ではなくなったからだ。
 子ども主体の生活で、一日家を空けるのは不可能ではないが、本当に骨が折れる。
 ライブ、コラボカフェ、展示会。行きたい気持ちと行くための苦労を天秤にかけて、結局いつも楽な方を選ぶ。鹿児島中央駅までおよそ1時間かかるのも、理由のひとつだ。
 行かない選択をしても、たいして悲しくないし、なんならイベントのことを忘れることだってある。

 それでも、このミュージカルだけは絶対に行きたいと思った。
 数年ぶりにチケットサイトにログインする。パスワードを忘れてなくてよかった。
 様々な先行抽選に申し込むもことごとく落選した。でも「縁がないんだな」と諦めることなんて到底できない。執念の一般販売で、手にした観劇権利に、無意識にガッツポーズが出た。
 昼食と夕食のお弁当を用意して、おやつもいつもより多めにした。リビングにトランポリンと滑り台をセットした。その一方で頭の片隅では、物販や着ていく服のことを考えている。日々のBGMが童謡からサントラに変わり、冷蔵庫に貼ったチケットが目に入るたびに胸が躍った。会場のホームページで座席を確認しては、そこからの景色を想像するのだ。

 そしてついに、その日が来た。
 久しぶりの鹿児島中央駅は大きな荷物を持った観光客でいっぱいだった。お土産売り場を覗きたい気持ちを抑えて、一直線に改札を抜ける。ベンチでコーヒーを飲む人たちを無視して、私はそのまま階段に向かう。だんだんと近付く外の空気が、高揚した頬を冷ましてくれた。階段を駆け上がると、数年ぶりのホームが私を待っていた。この角度から見る観覧車も久しぶりだ。
 私はさくらに乗り込む。木目が優しい曲線を描くこの内装にも懐かしさを覚える。座席は一番前の窓側だ。厚みのあるリッチなシートに座る。荷物は小さなバッグひとつだったので膝に置いた。
 ふぅ、と一息吐くと、我慢しきれない笑みが溢れていることに気づいて、頬を両手で押さえた。かさついた指先が、ここが現実であることを知らしめる。
 窓の外を見ると、さっきまでいたホームがある。そこは鹿児島だ。でも、私が座るこのシートは、鹿児島であり、福岡にもなる。

 私は実感した。
 ここに座っていれば、博多に着く。
 博多に着いたら、ミュージカルが始まる。

 私の頬がいつのまにか濡れていた。
 目一杯めかし込んだ女が、人目も憚らず号泣する姿に、きっとすれ違った人はびっくりするだろう。そう思っても、私は頬を伝うものを止められなかった。

 ベルが鳴る。
 扉が閉まり、鹿児島が向こう側になった。

『今日は、JR九州をご利用いただき、ありがとうございます』

 数年前まで聞き慣れていた、今では久しぶりになったアナウンスが響く。

 まだ幕は上がっていないのに、胸の奥ではもう拍手が鳴っていた。


読んでくださりありがとうございました。
今回、エッセイって難しいんだなって実感しました。

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