「残された少女」は、ほんとうに残されていたのか―― 一枚の絵から、自由を選ぶことを考える

この絵を、最初から「象徴」として見ていたわけではない。

ただ、立っている背中が気になった。

何かを待っているようで、
何も待っていないような背中だった。


プロローグ

イーストマン・ジョンソンの1872年の作品
『後に残した娘(The Girl I Left Behind Me)』。

この題名は、当時、戦場へ向かう兵士たちが歌っていた軍歌から取られている。
文法的には、「去っていく私」が、「少女を後ろに残した」ことを意味する言葉だ。

けれど、キャンバスに描かれた少女の後ろ姿は、その文法から、少しだけはみ出しているようにも見える。

彼女は、本当に「残された存在」なのだろうか。
それとも、自分を縛っていた世界を、
自らの意志で後ろに置いてきたのだろうか。


Estman Johnson - The Girl I Left Behind Me

作品について

この絵が描かれた1872年は、
アメリカ南北戦争が終結し、社会が再編の途上にあった時代だ。

低く垂れこめた雲、吹きつける風、
そして、その中に立つひとりの少女。

彼女は弱く描かれてはいない。
ただ、孤独である。

ジョンソンは、人物の内面を、
光と影、そして沈黙の中で描く画家だった。
この少女もまた、説明されすぎることを拒む存在のように立っている。

軍歌が語るもの

『The Girl I Left Behind Me』という軍歌は、
去る者の視点で語られる歌だ。

勇ましく歩き出す男と、
その背中を見送る、悲しみに包まれた恋人。

けれど、この絵の少女は、
その物語の中に、きれいには収まらない。

彼女は泣いていない。
すがってもいない。
ただ、風の中に立っている。

リリスという名前

ユダヤの伝承に登場するリリスは、
アダムと同じ土から作られた、最初の女性とされる。

彼女は従わなかった。
楽園を追われたのではなく、
自らの足で、楽園を去った存在だと語られている。

この絵の少女もまた、
「何かを失った人」ではなく、
「何かを選んだ人」に見えてくる。

彼女の手にある本は、
与えられた物語ではなく、
これから書かれる、白紙のページなのかもしれない。

ニーチェの言葉と背中

ニーチェは、
自由とは与えられるものではない、と書いた。

それは思想というより、
生き方の姿勢に近い言葉だ。

絵の中の少女の背中は、
その言葉を説明するために、
そこにあるようにも思える。

嵐は、彼女を試しているのではない。
古い殻を、静かに脱がせているだけなのかもしれない。

『群青』が歌うもの

軍歌が「残された者」を歌うのだとしたら、
YOASOBIの『群青』は、「選んだ者」の歌だ。

自分の色を選ぶことは、
たいてい孤独で、勇気がいる。

けれど、その瞬間にしか、
人は自分になれない。

無彩色だった風景が、
意志によって、少しずつ塗り替えられていく。
そんな感覚を、この曲はそっと歌っているように聞こえる。

              ハイブリッド・ステージ

Stage 1:軍歌の沈黙

行進曲のリズムは、丘を吹き抜ける風にかき消される。
彼女は、歌が終わるのを待っているようには見えない。

Stage 2:リリスの選択
振り返らないことは、冷たさではない。
それは、自分の足で立つという決意だ。

Stage 3:群青の荒野
彼女はもう、「残された少女」ではない。
嵐の中で、自分の音を探している、
ひとりの存在だ。

結びに

150年前に描かれた背中と、
今日、私たちが選ぶ一歩は、
どこかでつながっているのかもしれない。

あなたは、
今日、どんな色を選びましたか。



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