うむとき。
「出産の時どんなことを考えましたか」
ということを聞かれたことがあって、エッ何でしょうねと思って咄嗟にでてきたのは、自身の体から小さな人間が出て来た時の
「うわ!本当に人間が入ってた!」
という瞬発的で突発的な言葉で感想だった。陣痛に耐え、その後分娩室で格闘すること数時間、私の股のあいだからコンニチハした数秒前まで半分ほどこの世のものではない、胎児であった新生児のひとを見た瞬間、とっさにひらめいてしまう言葉は毎回それ。
人間じゃないのなら一体何が入っていると思っていたのだろうか自分は。
でも、そのひとはそういうハナシをしているのじゃないのだよな。
「どんなことを考えましたか」
それは我が子を世界に生み出した瞬時に閃いた言葉ではなくて、その現象が発生して、そこにある事象を確認して、それらを私が反芻して紡いだ言葉を聞いているはず、その人はそれを聞いているのだ。それで
「私、お産を3度しているのですけど、それって一体どの時ですか?」
それを聞こうと思ったのだけれど、私は子ども全員を37週以降に経膣分娩で、とりたてて大きなトラブルもなく、割に普通に産んでいるのでお産にあまりバリエーションというものがないのだった。
大体いつも明け方か深夜に始まった陣痛に、最長24時間、最短2時間じりじりと耐え、そして気合でいきんで普通に産んでいる。無痛というのか和痛というのか、麻酔はしたことがない、私は意外と痛みに強いもので、あとお産の進みが早すぎて多分間に合わないというか。
で、母子ともに健康。
違う、3人目だけが胎児期から分かっていた心臓疾患のために、生まれた数分後にはNICUにドナドナと運ばれて行き、親と子が数時間生き別れになった。だから2人健康で1人は病気。しかし全員元気な産声をあげて世界にやってきてくれた。母体は頑健にできている人なものでいつも産後はピンピンしている。
それでひとまず赤ちゃんは、ついさっきまでのライフラインであるへその緒をカットされ、胎脂とか体に付着したいろいろをサッと拭かれて大抵は助産師さんから
「おめでとうございます」
男の子もしくは女の子ですよと言われつつ、その生まれたてのホヤホヤを手渡してもらえるのだけれど、その生まれたてがまた、ガッツ石松というか、朝青龍というか、新生児というものは大体がよく似た傾向のよく似た顔をしているのもので、これを愛しい我が子と思って感涙にむせぶ人は…もちろんいるのだろうけれど、ウチは全員が常にガッツで、パンパースやムーニーの新生児用Sサイズのパッケージにプリントされているあの子達は選ばれし赤子であるのだよなあと、毎回しみじみする。
それで、どんなことを考えましたか、ですよね。
大体は不安です。お産なんて現代の人間の人生の中でそう何度も経験するものでもないし、なにぶん経験値が足りなさすぎる。
産んだけれど、そして無事に生まれたけれど、自分はこの子をちゃんと育てていけるのだろうか、私なんかで大丈夫なんだろうか。
お産の後の思考はそういう不安だけに支配されている気がする。でもその不安成分99%の中に1%だけ
「ようこそ世界へ」と言う確固たる気持ちがあって、それはもう少し詳細に表現すると
「新しく世界に生まれたアナタには不足だらけの母親ではありますが、こうしてご縁をいただいた以上、あなたに豊かで優しい子ども時代をお渡しできますよう、確約はできませんが、鋭意努力いたします」
だから私について来てください。
そんな何やらプロポーズのような気持ちがあったのは確かだ、と思う。ひとにはできるだけ幸福な子ども時代が必要なのだから、それを屋台骨にその先の長い人生を生きるのだから。
でも、じゃあそれって実際にどうする事ですかと追加で聞かれてしまうと、何しろ脊髄反射で良い返しの出てくる人間ではないもので、具体例を即座に挙げることはできないのだけれど、まずはこの小さいひとを世界中の恐ろしいものから守ることだろうと、だから私はこの先この子の為に体を張って頑張ろうと、初回のお産の時なんか特にテープタイプのオムツの使い方ひとつ知らなくて戸惑っていた癖に、そんなことを考えていた気がする。
まあ、でもそれは前述のようにその時の思考成分の1%であってあとは
「で、私はこれから、この小さい人をどうしたらいいのだろう」
という茫然自失の不安な気持ちだけ。それを3回。何ていうかホントに懲りない。
そしてその不安な予感の通り、その後の生活はけっこう過酷なもの。赤ちゃんというものは、お腹が空けば泣くし、オムツが濡れたら泣くし、眠くても泣くし、何かようわからんまま泣くし、その一挙手一投足が理解不能でもう一体どうしたらええのやと、頭を抱える日々が数年か何なら10年かもっと続く。
その間に、また次の子どもが生まれたり、家族の病気があったり、そのせいで経済的に不安になる時期もあるだろうし、そのまた次に生まれた子が重い病気だったり、あとは普通の子だと思っていたひとりめの子が実は何かの障害を抱えていたなんてことが判明することもある。
これ、全部ウチで起きた事だけど。
そんなだから、お産直後のあの清しい決意はある時は薄く、ある時は深い霧にまぎれて見えなくなるなんてことは頻発する。全部をひっくり返して、無かったことにしてフィンランドとかアラスカに遁走してやろうと思う日だってある。
そしてしばらくしてからまた自問するのだ、私は子どもに幸福な子ども時代を作ってあげられているのかしら。
ところで冒頭の質問とは別にもうひとつ、互いに互いを薄く知っている方から、自分は障害児の兄弟で、それで自分は豊かで優しい子ども時代を実の親から享受することができなかったのですけれど、そしてそれは自分にはとても辛いことなのだけれど、あなたは私の母とおなじ立場の人として、そういうのをどう思いますかと聞かれたことがある。
私は心臓疾患児で障害児である4歳の子を育てているので、その子のきょうだい、4歳にとっての10歳の姉と12歳の兄はその質問の主である人と同じ立場、ということになる。
どう思いますかって、どうだろう。
既に中学生である息子は、16㎏の心臓疾患児である妹を簡単に抱きかかえることができるし、酸素ボンベも難なく担ぐ。小学4年生の娘も16㎏を抱き上げる事は危ないけれど酸素ボンベの入ったリュックを背負うことはできる、だから生活の中で、その時々に彼らを頼ることはある。
「ゴメン、ちょっとこれ持っててくれる?」
「ねぇ、ちょっとかまってやって」
日に日に成長し、その年齢なりの社会性を身に付けつつある10代の我が子を頼ることと、依存することの線引きはどこなのだろう。
私はとりとめもない事を延々と考えることにつけては10代のころからそれは名人なのだけれど、その人の質問の答えを考えて我が子の、特に4歳の兄と姉への依存とお手伝いの線引きについてぐるりと脳内を一周して思考して、それでお産の日のあの脳内の1%分しかしめていなかった脆弱な決意をまた、思い出したのだった。
「あなたに豊かで優しい子ども時代をお渡しできますよう、確約はできませんが、鋭意努力いたします」
依存とお手伝いの国境線は、あの日の決意のある場所とない場所、その違いなのかもしれないな。
私は親で、あなたは私の子。
どの子にも豊かで優しい子ども時代を、そうあるように努力します。それって「子ども時代を無くしてしまった」とずっと嘆きながら、しくしくと泣き続ける子どもを抱えたまま大人になったあなたが、私に、というより私の10歳と12歳の子どもに対して危惧している事への回答になるでしょうか。
私はまだまだ、その努力の途中にある人なのですけれど。
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