小説:コンビニ幽霊

「名前、なんて言うの?」

「ヨル」

「夜?」

「夜だけ来るからヨルでよくない?ここにいる私は幽霊みたいなもんだから」

大体さ、私みたいな人間に名前って必要?

その子がそんなことを言うので、僕はそれ以上の事は何も聞けなかった。普通は聞けないよな、だってそれは拒絶の言葉なのだから、僕はそれをすぐに理解した、僕はそういう、行間とか空気とか、そういうそこにない物を読みすぎるぐらいに読む種類の人間で、それをちゃんと自覚している。

たしかにここは病院で、その左手に押して歩いている点滴台とか、長い髪をくるりとまとめて結っているその髪の結ぼれとほつれ、それから着ている衣類の感じ、顔の色、肉の薄い体、そのもろもろが「自分は長患いをしている人間です」とその子が特に何も言わなくてもそのまま僕に教えてくれていた。そしてそうであるのなら昼間、体に絡みつきそうな管や線に繋がれて病棟の清潔なベッドの上にただ静かに仰臥し、日に3度、プラスチックのトレイにつまらなそうな顔をして不愛想に並ぶ病院の食事を機械的に口に運び、服薬して、排泄して、それ以外の時間は窓の外にふわりと雲が風に流れていくのをただ静かに見つめながら時間が右から左に、あるいは上から下にながれていくのをただ待つだけの、そしてどういう方法で深夜の病棟の扉を突破してきているのかそれは分からないけれど、真夜中のコンビニの灯りに吸い寄せられるようにしてやってくる君は半分透明で存在がとても不確かな、言う通りの幽霊みたいなものなのかもしれないね。

「じゃあそう呼ぶけど」

僕がそう言うと、彼女は、ああヨルはふんと鼻をならして肯定の返事らしきものをした。それで僕は季節うつろいのようなものの、その温度や気配や香りや、なんなら時間さえあまり感じられないように思う平均気温20℃の白い病院の中にあってそこだけは雑駁な色調である場所で自分のことを『幽霊みたいなモン』であると主張する、なんだか闇夜に白く発光してしまうんじゃないかと思うほどの、とても色の白い女の子と親しくなった。


ヨルと出会う1年前、僕は高校3年生で、その時期、本来であれば『受験生』と呼ばれるはずの僕は、健康に何も問題のない普通の高校に普通に通う普通の18歳で、僕の眼前に世界はの窓は大きく開かれているのでありこれからどこに行って何を学んでもかまわないと、そう言われていた。でも僕はその世界を前に自分自身の未来への展望も将来の夢も何もない虚無で空虚で世界の全部をどうでもいいとしか感じられないでいる18歳だった。

だから両親や教師から、僕の成績はこのくらいだから、ここと、あそこと、ああそれからこの大学のこの学部をうけてみるのはどうだろうと進路指導室でタブレットを目の前にスライドショーのようにして大学の建物の写真やら受験要綱を見せられたところで、そもそも僕は大学とか将来とかそういうものにほとんど興味も意欲ももっていなかったし、そこでいったい何をしたいのか何ができるものなのかも皆目わからないでいた。それでも将来の希望同様、川の流れに逆らう気力を持たない僕は言われるままに大学受験というものに参加することになり、結果は受験した国立大の前期、後期、その他に2つほど受けていた私立大学の全てに、意欲というものが皆無なのだからそれは当然なのだけれど、見事に全部落ちた。結果を受けて僕はそもそも大学受験どころか

「1年後とか1ヶ月後とか、明日の自分がどうなるのかとか、そんなことにぜんぜん興味が持てない」

そう言って親や教師、僕の周辺の大人に僕の正直な気持ちを説明したのだけれど、それまで単身赴任と長期出張を交互に繰り返すことで殆ど家にいないまま、子ども達が「勝手に大きくなった」と本気で信じている様子で僕らの事を生存しているか否か程度しか気にしてこなかった父はともかく、母は

「そう、じゃあ好きにしなさい」

そう言って近所の私立高校を出ただけの、車の運転も出来ないし生活能力は皆無で何の資格もない、そのままで社会に出したりしたら即日、世の中の諸々に衝突し事故か事件かそういうものに巻き込まれてしてしまいそうな僕を丸腰で外の世界に放逐するなんて、そんな真似をする訳にはいかないのだと言った。母からするとそれは「だって親なんだから」という事らしいけれど、その理屈だとじゃあ父親は親じゃないのかとも思わなくはないよな、でもその辺のことは僕自身、誰かの親になったことがないのでよく分からない。母は不合格の通知と僕の顔、そのうちそのひとつを世界の終わりを眺めるように、あともうひとつを憐れむような目で交互に眺めて

「あんたは大学をちゃんと出て、自立して生きられる人間になって頂戴、普通の、健常な体の子なんだから」

そんな懇願するみたいな口調で僕に訴えた。僕はその母の言葉に対して即座に芽生えた

(大学で4年だか6年、何か勉強したら自動的に就労して自立して納税できる、誰にも迷惑を掛けずに生きられる人間が1人完璧に仕上がるって本当にそう思ってる?人間ってそんな単純なものだった?世界ってそんなに簡単にできていてるんだってお母さんは本気で考えてるの?それって経験則で?だったらそれっておかしくない?それに自立して生きるって何?健常だから何だって?それだとその対極にある介助なしで生きられないような人間は無価値ってこと?生産性がないってやつ?それを僕の目の前でお母さんが言うの?そんなのおかしいだろ)

そういう疑問、母から言わせるとヘリクツが、その場所の雰囲気では1ミリも許容されないだろうということを目の前の母の険しい表情で僕は十分に理解していたので、とりあえず「ウン」とか「まあ」とかの同意か肯定に聞こえるだろう返事を交互に繰り返していた。この時の母は

「大学に興味がないって、じゃああんた将来どうしたいと思ってるの、そんなに健康な体で正常なアタマで何がしたいかわからないからって何もしないで生きていくなんてそんな事、本気で世間一般に通用すると思ってんの」

そういう普通なら至極真っ当なことを言っていたと思う。一般的には健康で健常な体を持っているのに何もしたくないなんて『悪』でしかないのだろう。そんなこと僕にだってよく分かってるよ、健康に恵まれていることが、来年の予定とか将来が自分の未来にちゃんと存在していることがどんなに奇跡的なことかなんて、それは分かってる。

でも僕は、その僕の怠惰にしか聞こえない希望は置いておいて、なんでそんな実態の見えない世間とかいうモノにそこまで義理立てしないといけないのかってそのことを結構昔から疑問に思っていたんだ。だって世間一般とかいうモノがかつてこれまで僕らを助けてくれたことなんかあっただろうか。でも僕は、これは普段からそうなんだけど誰かと、ここでは母とだけれど意見が分かれた時に、それに対して反論したり反駁したりするための感情?情動?そういうものが脳内のメモリの中にひどく不足している人間で、僕のこれまでの例えば学校の成績表なんかに書かれている先生からのひとことは『覇気がない』が大半で、そういう人間なのだった。それで母親が言う『大学くらいは出ておくもの』というルート設定以外の道順を自分の中に見出せない、同時に将来への希望と熱量、その全部が著しく不足している僕は、とりあえずいろいろな疑問と異論を自分の内側にすべてしまって母に言われるままに自宅から一番近くにある

『成績保障!安心の合格実績!』

やや暑苦しくて、かつかなり押しつけがましい印象のある巨大な垂れ幕の下がっている予備校の入学手続きをさっさと済ませることにした。それでも、わずかに自分の中の潜在意識の片隅に残された世界への反抗のかけらのようなもの、それかもしくは18歳の僕のささやかな自立心のようなもの、これについてはそれがいったい何なのかを自分ではいまだに上手く説明できないのだけれど、とにかくそのどちらかに突き動かされて、件の予備校への入学手続きを終えた後に今度はそのまま、前の晩に生まれて初めて書いた履歴書に予備校の乾いた灰色の建物の外、いくつも並んでいる大体はジュースやコーヒーの自動販売機のなかにひとつだけぽつんと寂しく存在している四角い箱の中で撮影した自分の小さな顔写真を、それは多分光の加減なんだろうけれどなんだか死んだ人間のように映るそれを適当に張り付けてアルバイトの面接に行き、予備校と自宅の丁度中間地点にある大学病院の1階にあるコンビニエンスストアに採用されて、予備校の授業が始まるよりも先にバイトの深夜シフトに入ることになった。


「ウチみたいな大学病院の一階にあるコンビニエンスストアってね、店舗としては結構特殊な形態なんだよ」

というのが僕の採用面接を担当した細身で穏やかな口調で少々顔色の悪い店長の言葉だ。僕はその時、そもそもコンビニに普通とか特別とか特殊とか、そういう分類があるなんてこれまでの僕の人生の中では一切考えた事もなかったし、コンビニというものはアラスカにあっても東京にあってもとにかくコンビニだろうと思って特に気にした事なんかなかったので

「へえ、そうなんですね」

適当にさらりと会話を受け流しただけだったのだけれど、たしかに実際働いてみると店長の言う通り普段ここにやって来るのは3分の1が白衣の、と言っても青とか緑とかうすい紫色だとかそれは色々だけど、とにかく白衣で、3分の1が点滴台をごろごろと転がしていて、あとはまあ特に特別の服装でも装備でもない普通の人に見えるけれどもここは病院なのだから何かしら、病気とか不調とか、入院している家族へのいろいろの憂患を内面にずしりと重たく抱えている人達なのだろうし、そういう客ばかりが入れ代わり立ち代わりやって来るというのは、僕が普段ふらりと気軽におでんやコーヒーを買いに行く近所のコンビニとはすこしいや、かなり様子の違うものだった。

白衣達はたいへんに動きが機敏でいろいろの、弁当だとかパンだとかの取捨選択と言うものに迷いがなく、反対に病衣は動きが、まあそれはあたり前のことなんだけどたいへんに緩慢で、入院中の人というものはこまごまとした買い物が多いので店内には『ご自由にお使いください』と書かれたポップの下にプラスチックの小さな買い物かごが設置してあるのだけれど、そんなものひとつ持つのも大儀そうに見えた。それとあとの「まあ普通に見える」ひとびとは例えば、セルフサービスのコーヒーの紙コップを持ってコーヒーメーカーの前に並んでいる時に『ドリップ』のボタンを見ているようでいてあまり焦点の合っていない、なんだかぼんやりと呆けたような表情をしているし、そうかと思うときっちりと隙間なく陳列されたおにぎりの棚の前で泣きそうに顔を曇らせている。そのそれぞれの属性にある人たちがレジにいる人間なんか肉まんの保温ケース程度の店の備品くらいにしか思わないでいてくれる場所。そこは何者でもない何者にもなりたくない、ただ自発呼吸をして心臓を動かして生きて存在しているだけのコンビニの備品同様の存在でしかない僕にとって呼吸のしやすい、ひどく楽な場所なんじゃないのかなと思えた。

だからここならいいやと、僕は思ったのだった。


その時から僕のシフトは殆どが深夜だ。だから実際のところ僕だってあの『ヨル』と同じで幽霊みたいな人間なんだよな、そう言わざるを得ないと言うか。と言っても僕の場合はヨルと違って自分で好き好んでこの幽霊のような生活を選択しているのだけれど。

だいたい地上15階、地下2階、この地域を小高い丘の上から遥かに見下ろす要塞のように巨大な大学病院内にひとつしかないコンビニエンスストアの昼のシフトの忙しさというのは、この世界の『繁忙』とか『忙殺』とかそういうものをすべて集めて煮詰めたようなもので、何日も自宅に帰ることのできないことが常らしい白衣と、病棟を休むことなく回遊魚のように動き回り常にくたくたの、死んだような表情である白衣と、外来診療の順番を朝からずっと『ただ待つ』という行為に疲弊している患者が食べ物と飲み物を奪い合うみたいにして買い求めてレジにずらりと長い行列を作っている。そしてそこに配置されている昼シフトの店員というのがまたその大勢の客を出来るだけ早くさばくために居酒屋の店員みたいな大声を張り上げなくてはならなくて、それでそもそも『覇気がない』というのが客観的な人物評価であって、自分でもそういうものの一切が苦手な僕は採用面接の時にシフトの希望を聞いてきた店長に

「深夜シフトが希望です」

そう言って自分から夜の住人になる事を頼んだのだった。

「そうなの?助かるよ、今深夜帯に入れる子が全然いなくてさ」


以来、僕はほとんど毎日、足元がほんのりと見える程度まで照明の落とされた薄暗い大学病院の一階の廊下の奥のさらに奥、『核医学検査室』と言う僕にはいったい何をしている場所なのか全然皆目分からないけれど、いつも剣呑な表情をした事務の女の人が1人で受付に座っているその向かいの、ひとつだけぽつんと灯された小さな明かりの中で僕もひとりであかりの番人をしている。

毎日真面目にレジに立ちおにぎりや弁当を補充しドリンクを陳列してお菓子の新商品を入れ替え、週刊文春とか新潮とかあとはジャンプとかオレンジページとかそういう雑誌を綺麗に並べ、コーヒーサーバーを清掃し、バイトが終わると自宅に帰ることを、と言うよりは家にいる親と顔を合わせることをできるだけ避けて予備校の自習室の机を寝床とし、そのまま予備校の授業を聞いているふりをしながら机に突っ伏して眠るか、誘われて招かれた誰かの部屋とかホテルとかとにかくその辺の適当なベッドで眠る、そんな暮しを1年続けた。それでまあこれは当然の帰結ではあるのだけれど、次の年の春も受験した大学にすべて落ちた。僕は母とまた18歳のあの春と全く同じやり取りをして、もう一度浪人生と言う名前の、でも実際のところは深夜のコンビニで棚にいろいろを綺麗に並べる事を主な生業とする、そんな生活を送る事になった。


そんな2浪中の僕が普段働く深夜シフトの時間帯の白衣と白衣の隙間に、水色のなんだかぬいぐるみのようにふわふわともしくはもこもこしたフーディーを着た女の子が混入するようになったのは今年の夏の始め頃のことだ。

最初僕がその子に目を留めたのは、その子が中学生、いやそれ以下の年齢の子どもに見えたからだ。その子は見れば見るほど華奢で病的に、まあそれはここに入院しているのだから当然なのかもしれないけれど、不健康に痩せたとても細いからだをしていた。それで中学生か下手をすると小学生くらい見えるその子はきっと小児病棟に入院している筈だし、小児病棟ではその子がいくら病棟の外を1人で出歩けるようなそこそこ安定した状態なのだとしても、こんな深夜に病棟を抜け出してふらふらとコンビニに遊びに来ていたら看護師が探しにくるか、病棟の扉を通過する前にナースステーションにいる誰かに見つかって叱られてしまうんじゃないのかな。それで客の姿かたち属性についてはいつも特に注意を払わない僕にしてはとても珍しく、その子のことがなんだか少し心配になって、

(あの子、黙って病棟を抜け出して来たんじゃないかな)

憂患、憂慮、心配、そういう明確な言葉になるもっと前のことばとしての形を持たない、なんだかもやっとしたものが咄嗟に僕の頭のなかに芽生えたのだった。だからと言って看護師でも医師でもないただのコンビニ店員の僕が夜中のコンビニにふらりとやって来るその子に突然声をかけて

「ねえ、こんな夜中に病棟から抜け出して出歩いたりしたら看護師とか医者とか?そういうのに怒られない?」

とか言うのも何だか変だしなあ。そう思って僕はその子に特に何も言わず、でもその子が来店すると何となくパジャマの裾とサンダルの隙間に見える全く肉の無い、ひどく骨ばっていてちょっとの加減でぽっきりと折れそうな細い足首や、長い髪をくるりと頭の上でまとめている時のうなじの青白さ、そういうものを目で追うようになり、夏の終り頃にはその子がレジに持ってくる500mlのペットボトルのミルクティーと小さな菓子、それはチョコレートだったり、ビスケットだったりするのだけれど、それの会計をする時、ひとことふたこと言葉を交わすようになった。

あれはたしか会計の時に偶然触れたその子の指先が夏なのにまるで氷のように冷たくて、僕がつい「冷たっ」と独り言のように呟いてしまったことが最初だったと思う。

「ああコレ?私ねえ、血のめぐりってやつ?そういうのが普通のひとより相当悪いんだよね。それで指先とか足の先なんかもすごい冷たいの、ね、すごいでしょ、でもこれ治んないんだよね」

「あー…あのそれってさ、なんか手袋とか?したらいいんじゃないの」

「手袋?いま夏だよ?イヤだよ暑苦しい」

「そう?手がずっと冷たいのってイヤじゃない、なんか死んでるみたいでさ」

そう言ってから僕は、今言ったことが凄い失言なんじゃないかと、それに気付いて次の言葉を中空に探して相当に目が泳いだ。だって、きっと長期入院しているんだろうなって、そういうのが分かってる子に「死んでる」だなんてさ。ただ言い訳をするつもりじゃないのだけれどその位ヨルは、ほとんど体温を感じない冷たい指先もそうだけれど、陶器のように白い顔に細い体の、あとはなんて言ったらいいんだろう、大きな二重の黒目がちな瞳とか、そこを色濃く縁取る長い睫毛だとか、傾斜角度が完璧に設定されている鼻梁だとか、小ぶりに形よく作られた肉の薄い唇だとか、とにかく全部が作り物のように完璧な造形で、そのすべてがなんだかヨルをひときわこの世のものに見えない何かに見せていたのだ。

僕はあからさまに「しまった」と言う顔をしていたらしい、人から言わせると『覇気がない』僕はその性質と並行して思っていることが割と顔に出てしまう人間なんだ。でもそんな僕の「しまった」と言う表情を見たヨルは別段気を悪くしたような様子もなく、逆になんだか面白そうにその大きな黒い瞳をくるくるとさせて少しうろたえた表情をしている僕の顔を覗き込んでから少しにやっとして

「ねえ、名前、何て言うの?」

突然僕の名前を聞いてきた。何、名前?僕の?

「えっ?僕?前田」

「そんなの名札見たらわかるじゃん、違うよ、下の名前」

「下の名前?ああ、しゅうや、ヒイラギにナリで柊也」

「ヒイラギ?じゃあ冬生まれだ。でしょ?クリスマスとか?」

「うん、まあ正解。クリスマスイブ生まれなんだ」

深夜、ぽつりぽつりとしか客の来ない閑散とした店内の、病院と言う場所には少しそぐわない軽快で明るい、明るすぎてもはや能天気な感じすらあるJ-POPの流れる中で僕はだいたいいつも同じ時間にやってくるその子の興味のおもむくままに出てくるこまごまとした質問に答えるようになった。

大学生なの?
違うの?
じゃあ何やってんの?
予備校生?
勉強しなくていいの?
2浪ってさ、バイトなんかしてて親とか家族とかに怒られたりしないの?
ふうんお母さんだけ心配症なの、うちと一緒だね。
友達っている?
1人しかいないの?なんか寂しい人生だね。
じゃあさ、兄弟は?
お兄ちゃんがいるの?へぇ、なんか見えない、一人っ子っぽい。

「この時間帯って誰もいないし暇だしいいでしょ」

その子はそう言いながらレジカウンターに頬杖をついて、僕のことをまるで職務質問みたいに聞いてくるので、僕は答えられる質問には答え、伏せたいことは適当に誤魔化しつつその子の聞きたがる僕のいろいろに答えていた。それである時、僕もふと思いついてその子にひとつだけ質問をしてみたのだった。だって僕だけが答える方で、どんどん個人情報をこの子に公開しているのって何かフェアではないのじゃないのかなって思ったんだ。僕は年齢氏名職業勤務先、出身高校までその全部をこの子に知られているんだから、この子の名前くらい聞いても構わないだろうって。

「名前、なんて言うの?」

でも、そうしたら返ってきた答えが

「ヨル」

「夜?」

「夜だけ来るからヨルでよくない?ここにいる私は幽霊みたいなもんだから」

そんな答えになっていない、それでいて不思議に寂しいものだった。それでその後もたまに、ヨルが僕の事を根掘り葉掘り聞いてくる途中、ちょっとヨルのことを、家族とか年齢とかヨルって本名じゃないだろとかそういう事を聞いてみたのだけれど、ヨルはヨルであること以外を僕に何も教えてくれないし、しかたなくそれ以来僕はその子のことをずっとヨルと呼んでいるのだった。

「最近さ、夜の11時か…いや搬入の後だから12時位かな、中学生くらいの女の子が来るんだよね。いつもミルクティーとか小袋のビスコとかそういうの300円分くらい買い物して、あとは少し世間話するみたいに少しだけ話…って言っても大体はむこうが僕に一方的に質問してくるって、まあそんな感じなんだけど、そういうのって大丈夫なのかな、絶対に病棟から勝手に抜け出して来てると思うんだけどさ、そういうのってアリなの、病棟に戻った時にすごい怒られたりさ、もしくは病室にいないってバレた時点で病棟あげて捜索されたりとかしないモンなの」

「中学生?小児の長期入院棟の子なら、俺も今4、5人担当してるけど、俺の知ってる子かな。俺、ここんとこ小児病棟に一番よく行ってんだよ。でもさ『抜け出して来てる』って言ってもちょっと飲み物買いに来てる程度なんだろ?それならいい運動になってるんじゃない?それでちゃんとその後に病棟に戻ってるんなら看護師の方だって意外と見て見ぬフリっていうか、知ってて見逃してるのかもよ。その子、そのまま深刻そうな顔して例えば7階の庭園に出て行ってそこの柵乗り越えて飛び降りますって、そういう感じでもないんだろ」

「それはまあ、そうだなあ…見た目はかなり白くて細くて弱々しいけどいちいち言葉に迷いがないって言うか、気がすごい強そうっていうか、なんか死にそうにないというか、既に死んでる感じすらするって言うか…」

「何だよソレ。でもまあ子どもだって、例えば1ヶ月安静指示とか昏睡とか鎮静とか、まあとにかく寝たきりの状態が続いたらてきめんに筋肉が落ちて足が棒っきれみたいに細くなって全然歩けなくなるモンなんだよな。だからもしその子がすこしぐらい病院の中を歩き回っても特に体調に問題が無いって言うなら、1日のうち1時間でもちょっとその辺をうろうろ歩いてくれてた方がリハビリする側としては有難いけどね、筋肉とか身体機能の維持のためにさ。柊也もいくら立ち仕事だからって同じ姿勢ばっかりのコンビニバイトばっかりしてると体がなまるぞ、少しは走るとかして筋トレしないと、人間ってまずは足から衰えていくモンなんだから」

僕の顔を見るといつも僕の足が細すぎるだの筋肉がぜんぜん無いだの今いったい体重何キロなんだよまた痩せただろと言って最後には必ず

「体を鍛えろ、人間、最後は筋肉だぞ」

そんな風にいちいち筋肉と運動の重要性を説く、それで僕がいささか辟易してしまうほど健康と筋肉へのこだわりの強い康太は、僕のバイト先のコンビニのある大学病院のリハビリ科で理学療法士という仕事をしている。普段は手術や長期入院ですっかり四肢の筋肉の落ちてしまった患者の筋力回復のために患者と一緒に病棟の長い廊下をゆっくり歩いたり、障害や病気のある子どもの身体機能がそれ以上弱って後退していかないように、その子の自宅や病室に出向いて長期の鎮静や安静、もしくは麻痺のせい筋肉の殆ど無い、それだから折れそうに細いかあるいは酷く浮腫んでいる体を動かしてやることを生業にしていて、病院のすぐ近くにある職員用の寮でひとり暮らしをしている。寮と言ってもそれは借り上げの真白い1DKのマンションで、康太は普段からそこを僕が予備校からバイトに行く間、もしくはバイト明けの数時間を待って予備校に行く間、そういう隙間にぽっかりと空いた空白地帯みたいに何もない時間に自由に使わせてくれている。僕より7歳年上の社会人4年目、初対面の際に康太に威圧感を感じないでいられる人間は果たしているんだろうかと思えるほどに屈強で巨大な体躯と、それに反してとても優しい気性を併せ持つ、僕にとっては本当に貴重で希少な、ヨルに言わせると『寂しい人生』を送る僕の現在たったひとりの友達だ。



康太と僕が親しくなったのは僕があのコンビニでバイトを始めてから半年経った秋頃のことだ。それは日勤帯と夜勤帯の病院のスタッフが入れ替わるには少し早い時間に僕がコンビニの深夜から明け方の勤務を終えて退勤し、康太が、それはいつもの事らしいのだけれど他の職員よりかなり早めに出勤してきた日、患者を乗せたストレッチャーやベッドを丸ごと入れる関係で寒々しいほど広く無機質に四角い職員用エレベーターの前室で康太が僕に声をかけてきて、その後に起こった諸々のことがきっかけだった。

いつもひどくゆっくりとしかロッカー室のある地下2階に降りて来ないエレベーターが下降して来ることを示す停止階表示をぼんやりと眺めていた僕の顔を、たまたまそこに居た康太があまりにも、瞬きもしないでじっと見つめているのに気がついた僕が訊ねたのだ。

「あの…何ですか」

康太の視線にはそれほどの不穏さはなかったのだけれど、しかし若干不審な感じがしなくもなかったの僕はそう聞いた。何か御用ですかと。そうしたらその時、腹でも痛いのかとこちらが心配になってしまうほど張り詰めて緊張した雰囲気を全身に纏い、外はもう肌寒さを感じる晩秋の早朝であるのにもかかわらず、短く刈り込んである髪の生え際と額にうっすらと汗さえかいている康太が僕に向って、うめくような小さい声で

「あの…俺、どうかな?」

そう聞いて来たのだった。でも僕は最初その康太の言った言葉の意味が全く分からなかった。どうって、なに、どういうこと?

「どうっていうのはあの…何が『どうかな』なんでしょうか?」

僕が確認のためにそう聞くと、僕よりも頭ひとつほど背が高くふた回りは体の大きな康太は極限まで緊張している表情のまま、その長身をふたつ折りにして屈めるような姿勢で自分の顔を僕の顔の目の前、かなり近距離まで近づけて来て

「その…男って大丈夫?それとも全然駄目?」

その体躯に全く不釣り合いな、本当に消え入りそうな優しくてか細い声で僕に恥ずかしそうに聞いてきたのだった。それでその言葉で康太の酷く緊張した表情や生え際の汗や、か細く小さな声のもつ意味の大体を察した僕が、特に何も考えずに

「あー…やってやれないことは、無いと思いますけど」

そう答えると、康太はその僕の曖昧に曖昧過ぎる返答を自分の問いすべてへの肯定であると、そう捉えたらしい。普通のエレベーターよりもずっと巨大で無骨な鈍色で業務用の冷蔵庫みたいに見える職員用エレベーターの扉の前で康太はいきなり僕の顔を大きな掌でわしづかみにして固定すると、僕の唇に噛みつくように吸い付いてきた。その時の僕は当然びっくりしたしお陰で目を閉じることもできないままで、僕の顔を易々と全部包み込んだ大きな康太の掌の指の先端の爪の形だとか間近に迫って来た康太の意外に長い睫毛とかその全部を凝視することになった。それで僕は勢いよくぶつかって来た康太の前歯で上唇を少し切ったらしい。僕の口の中に流れ込んで来た血液が、その時は瞬時にそれが僕のものなのか康太のものなのかぜんぜんわからなかったのだけれど、でも確実に口の中には血の味がしたし、唇には微かにではあるけれど鈍いような熱いような感覚が走って、何より初対面の人間がいきなり僕の口をその口で塞いできたという事実にとても驚いて、まあ普通は驚くよな、そういうのもあって

「あ、あの痛い、口…」

僕は、口をふさがれているのもあってうわずって小さく啼くような声を漏らすことになった。そうしたらその小鳥の雛みたいな僕の声を聞いた康太は急に我に返ったのか、ひどく驚いた表情をして僕の体から飛び退くようして離れ、それから僕の唇の傷を見て僕に声をかけてきた時よりも更に小さな声で僕に謝罪した。

「ごめん、大丈夫?痛い?」

それに対して僕が大丈夫だと言うと、康太はなんだかどもったりつっかえたりしながら、ことの経緯を、自分がこういう突発的で衝動的な行動に出たことの意味というか言い訳というか、とにかくその類のことを僕に説明してくれた。

「俺は変質者とかエレベーター前の強姦魔とかそんなつもりはなくて、この春、君の姿をコンビニで初めて見て以来ずっと君の事が好きだったんだ。この初期設定の点からすでに気持ち悪かったら本気でごめん。でもそれであの、いつも僕が見る君は誰に対しても嫌悪もしない代わりに特別な愛着もないというか、人間全般に興味のなさそうな、虚無的っていうのかな、そんな表情をしているし、それなのに自分のまわりでは『コンビニのバイトに入ったマエダという男の子がとても可愛い』ってなんだか評判で、実際君は僕の目から見てもとても可愛いし、あああこういうのも気持ち悪かったら悪い、いやホントごめん、それでもしかしたらもう既に誰かが君に声をかけていて、君には特別な誰かがもういるのかもしれないし、大体君は俺のことなんか見向きもしないどころか視界にも入っていないのだろうとか、そんなことを思うとスゴイ寂しい気持ちになって、何ていうのかな、今日たまたまこの空間に君と2人だけになって、それで思いつめてた気持ちが急に暴走したって言うか、突然おかしなことをした上に怪我までさせてしまって本当に申し訳ない、赦して欲しい」

そういう本来なら自分の内側にそっと隠しておくつもりだったのだろう嘘も偽りもない丸ごとの正直な気持ちを、まるで女子中学生のように耳まで赤くして僕に告げてきたその姿が遠目には本気で熊とかゴリラに見まがうほど巨大な康太の見た目にぜんぜん似合わなくて、なんだか康太が本当に柔らかくて暖かくて僕より体のひとまわり小さな本物の女の子のみたいに思えたんだ。後から聞いたら康太は別に自分を女の子だと思っている方の人間ではないらしいのだけれど、ともかく僕はこの康太という人間を正直でまっさらな、小さな少女のように美しい心の持ち主なのだと思った、だからその気持ちに対して僕はまずきちんとお礼を言った。

「そうなんですか、ありがとうございます」

「えっ、その『ありがとうございます』っていうのはさ、俺と付き合ってもいいって事?」

康太は心根は僕の1000倍位、いやきっとずっともっと数値化できないほど透明に澄んでいて美しいのだけれど、この一連の行動に示される通り、頭に血が上りやすいというか、そうなると話の文脈をきちんと読み取る力が小学生並みに低下してしまうというか、まあともかくそういう人間で、そして僕と言えば基本的に言葉というものが曖昧過ぎる位曖昧で婉曲表現で適当に真実を誤魔化すことをたいへんに得意としている人間で、それで結局、なんだかかみ合わない僕達2人のこのやりとりが康太の中ではどういう訳か

『前田柊也という男は自分の好意を拒否しなかった』

という認識になったらしい。でも僕はその時、まあそれならそれでもいいやと思ったんだ、康太がそれで嬉しくて幸せだと思ってくれるのなら。それで康太が僕の体に触れたいと、僕とそういう事がしたいと言うから僕はその気持ちにもちゃんと応えようと思ったんだ。僕は生物学上男だし、性自認の上でも自分を男だと思っている方の人間で、恋愛対象と言うのかな、性愛の対象として男が好きだという訳でもないし、どちらかと言うと女の子の優しくてふわふわと柔らかな体の方を好む多数派の方のごく平凡な男で、セックスをした事があるのは基本的には女の子だけだし、マスターベーションの時に思い浮かべるのも女の子の体のいろいろの部分ではあるのだけれど、誰かが『そうしてほしい』と僕に望んだ事を自分の感情とか属性とかを全部度外視して受け入れて叶えないといけない、そう思ってしまう思い癖みたいなものがあって、例えばそれがセックスでも、自分に可能である範囲のことはなんでも応じて叶えるべきなんじゃないかと、いつもついそう思ってしまうのだった。

でもこれは『思い癖』と言うよりは、なんて言うのか、もう強迫観念みたいなものなのかもしれない。

ただ、僕が僕自身をどう思っていても、僕自身も見たことがない僕の深層心理に強迫観念というものが巣食っていたとしても、物理的な身体機能にはそれなりに限界というものがあるらしい。僕らは実際に康太の部屋の布団の上でそれを試してみたものの、康太が持っていたワセリンみたいな透明なゼリーを使っても、康太が色々と頑張っても、僕がどう痛みをやり過ごそうとしても、だいたい康太に衣類を丁寧にはぎ取られた時に

「ガリガリだなあ、エッ60㎏ないの?じゃあ50㎏台ってこと?その身長で?それってちゃんと毎日メシ食っててそんななの?甲状腺に問題があるとか言われたことない?」

驚きと共に病気でもあるのかと心配されてしまった貧相な体格の僕より康太は30㎏以上体重があるらしいし、そうなると当然なのだろうけど康太は僕に比べて体の各器官の色々が僕より全部でかい。それでそもそも僕の体の『何かを入れる』には相当無理のある小さな孔に硬くなった康太を迎え入れるなんてことが、多少慣れているのだろう康太と全く初めての僕の組み合わせではなんだかやっぱりうまくいかなくて

「ごめん、やっぱり無理かも」

僕は途中で申し訳ないけどと白旗を上げた。それで極力体重をかけないようにして僕の体の全体を覆っていた康太の下から這い出すようにして体を起こし、布団の上で姿勢を正してから康太に頭を下げて謝った。そうしたら僕の謝罪を聞いた康太は

「もしかしてっていうか、やっぱり男とこういうのってしたこと無い?ていうか、そもそも男って実はぜんぜん駄目だった?」

自分も起き上がって相当に心配した声でそう聞きながら僕の顔を覗き込んできた。その時の康太と言えばまるで雨の日の誰もいない河川敷でうっかり迷子になってしまった仔犬のような、世にも情けない顔をしていて、それを見た僕はとても心が痛んだ。それで「いや、やっぱり大丈夫だからもう一度頑張ろうか」という言葉が喉元まで出かけたのだけれど、そうしたら康太は至極真面目な顔で裸のまま正座をして僕に向き直り、実は自分はこれまでこの手の殆ど制御不能に近い恋心を自分の中にどうしようもない状態にまで肥大させては、相手の気持ちやセクシャリティを全部無視して暴走させてしまって、そうなると相手の顔色も属性も出方も全く見えなくなってしまうものだから当たり前に何度も失敗を、相手に嫌われたり怖がられたりして逃げられてしまうと言う、最悪の讃嘆たる結果を生んでいるのだと、それは康太の言葉によると

「それって俺がこんな感じにでかくて見た目がアレだからって言うのも絶対あるんだけどさ、何かこう…凶暴な野生動物を見るような目で見られて避けられるようになって、相手が俺の前から姿を消す結果になるんだ、遠くに引っ越されちゃったこともあった。それか逆に俺がそのコミュニティに居られなくなるか、だいたいそのどれかなんだよ」

そういう結果に終わるのだと、僕に明日世界は終わりこの世のすべてが広大な白い空間の中に消滅するのだと告げるような、本当に弱々しく絶望的な声で僕に白状してから更に

「俺の事キモいとか思う?もしかしてコレやってお金が貰えると思ってた?そっち系の勧誘だと思ったとか?こういう思いつめて挙句、暴走して激突して自爆みたいな真似、良くないってわかってるんだよ俺も。相手の嗜好がどうであれ、俺のこの見た目と勢いで迫られたら向こうはまず絶対に怖がるって思っておいた方がいいんだぞって、場合によってはそれは強要とか強姦になるんだって、それって事件だぞって、俺のこういう性格をよく知ってる知り合いなんかにもよく注意されるんだけど」

なんか、好きになると駄目なんだ。そんな事を言うので、そうじゃないんだと僕は首を左右に激しく振った。僕は康太のまるで告解のような本当に正直な告白を受けて、僕も僕の正直な心情と、結果自分の悪癖というか、そのころの決して褒められたハナシではない自分の特異な行状を白状することになってしまった。

「あの、あのさ、僕はその…人から期待された事は全部応じないといけないって思う、そういう人間だって言うか、これは癖なんだよ。ごめんね、君が望んでそれを僕ができるのならもうそれでいいやって思ったのは僕であって、君は何も僕に強要してないよ、結果上手くいかなかったけど、なんて言うかこうすることで君を傷つけるつもりなんか無かったんだ。勿論お金なんかいらないし、別にその手の勘違いをしてた訳でもないよ。でも確かに病院のホラ、君が声をかけてきたエレベーターホールで僕にその手の要件で声をかけてくる人って割と多いんだ、だから僕もついテキトウって言うか曖昧な返事をしてしまって、なんか、ホントにごめんなさい」

僕がそう言ってぴょこんと頭を下げると、康太はさっきまでの俯いた河原の迷い犬であるところの表情を突然動きが機敏で発声のとても明瞭な、きっと昼間はいつもそうなのだろうけれど、快活な理学療法士の顔に切り替え、僕の顔を瞬きもせずに真っ直ぐにじっと数秒間見つめてから

「多い?こういう…その一回いくらでどうとかそう言うのが?ウチの病院のスタッフに?」

そう聞いて来た。康太は真顔になると、まっすぐでとても強い印象のある太い眉とか、ぎょろっとした大きな黒目とか、その顔の造りが全てくっきりとはっきりとしているせいで、それだけで人に有無を言わせない力があるというか、端的に言うとその体躯と相まって本人の言う通りとても高圧的で怖い。

「あの…そこまであからさまじゃないけど、暇なら一緒にご飯食べに行かないって、その流れでついでにセックスしないかって、なんかみんな僕が清潔そうで、童貞っぽくて、やばい病気持ちでもなさそうに見えるからって」

「それ、全部応じてんのかお前?男女問わず?」

「いや、これまでセックスしたのは全部女の人で、男とは食事してちょっと触らせた程度で、男でここまでしたのは君が初めて。僕ちょっと前に色々あって家に居づらくて、それで今予備校に行ってるんだけど、そこの授業とバイトの間に風呂に入ったりご飯食べたりする場所が貰えると助かるから、声かけてくれた人にご飯食べさせて貰ってついでにセックスして風呂にも入って、でもそれだけだよ、お金は貰ってない」

「バカかお前!そんな家出中の女子高校生みたいな真似やめろ、今すぐにだ!」

僕はさっきまで迷い犬みたいに情けない顔をしていた康太に『求められた事をほぼ断らない』という僕の人生の基本方針が、端的に確実にどう考えても大間違いだから今すぐ思い直せと物凄い大声で怒鳴られた。それで僕は、ああ康太もだけれど裸のまま正座をさせられて小一時間説教を食らったのだ。

「お前のその考え方はおかしい、お前は…名前何だっけ」

「前田柊也」

「ああ前田な、それで柊也な、柊也の倫理観は一体どうなってるんだよ、しかも柊也ってまだ未成年でついこの間まで高校生だったんだんだろ、柊也はそれで良くても世の中の大半の大人はそういうのをダメだと思うモンなんだよ、なんで世間の大半がそう思ってんのかって、モノによっては法律にさえ触れるんだって、どうして世の中がそういう構造になってんのかってよく考えろ。何よりそんな事やってたらどんどん自分が虚しくなるだけだぞ、その手のことはな、やればやる程自分の中に自分が無くなっちゃうんだよ。そんなに今、居場所が必要ならこれからは俺の部屋を使えばいいだろう。俺の事好きにならなくてもいい、俺の事が怖くなくて気持ち悪くないってお前が思えるんなら、俺の中の乙女の恋心はとりあえずもういいから俺たちは友達になろう、お前はこれから俺んちの外猫みたいにここに勝手に来て、適当に寝たり食ったりしてていい」

「へっ?なんで?」

「そうでもしないと柊也、お前な、そのうち変な病気になるか、サイアク痴情のもつれってヤツで誰かに刺されて死ぬぞ、俺は知ってるヤツがそんなことになるのがイヤなんだよ」

康太は中学高校大学と、ずっとラグビー部で最高学年ではいつも主将をしていたらしい。ポジションはプロップ、花形とは言わないけれど守りの要なのだそうだ。だからなのかな、性欲であり恋でもある制御不能の感情をすべて投げ捨てて取り払って冷静になった時に相手の表情や行動からその心情のようなものを読み取る直感に長け、病的に面倒見が良くて、異様に情に厚くて、そしてなにより年下の僕を叱責する声と態度が堂に入っていた。

「だって、僕は君とはセックスはできなかったんだよ、そもそも『友達』っていうのは君の望んでいた関係じゃないだろ」

「でもお前、居場所がないとまた職員用のエレベーター前で売春みたいな真似すんだろ」

「別にそういうつもりじゃないよ、だいたい向こうが僕に勝手に声をかけて来るんだからさ」

「でも一切断らないって言ったろ、俺と寝ることすら断らなかっただろ、それにエレベーターホールでもう何人もお前に声をかけて来てるっていうのはな、既にどっかのフロアか科かもしくは同じ職種の連中とか?そういうのの中で密かに評判になってんだよお前は」

「そうなの?」

「そうなんだよ。大学病院なんてな、巨大で先進的で前衛的な組織みたいに見えて、実際のところは狭くて封建的な農村みたいな場所なんだからな、人事のちょっとした噂なんか一晩で関連病院、分院、各階スタッフ、果ては患者家族にまであっという間に伝播してくんだぞ。だからもうこの部屋にいとけ。ここにある、ホラ風呂とか布団とか電子レンジとか勝手に使っていいから、それでもう誰かに声をかけられてもホイホイついて行くな、俺とは友達だ、それでいいだろ。愛がなくても恋じゃなくても代わりに友情がそこにあるなら俺はもうそれでいい、ついでに互いの秘密も、これ以上は他言無用だぞ」

「秘密ってなんだよ」

「お前は誰彼構わず売春の真似事をしてたってことで、俺は男が好きだってことだよ、特にお前のは相当な黒歴史だぞ、もう全部なかったことにして封印しとけ、二度とするなよ」

それで僕と康太は恋人でもなければセフレでもないただの友達になり、以来僕は授業とバイトの合間に康太の部屋を勝手に使わせてもらっている。康太はそのとき、数分前までは狂おしい程の性愛の対象であって、完遂こそできなかったけれどセックスさえした僕に対して、いやあの時互いに全裸のままだったのだから康太の欲のまま組み敷いてしまえば僕の同意なんかなくてもそれは完遂できたはずなんだよな、それなのに『今から俺たちは友達だ』と言ってくれたのだった。思えば凄いヤツだな、それに多分生まれ初めてじゃないだろうか、僕を友達だと言い、僕も相手を友達だと思う、双方の認識の合致している友達ができたなんてこと。

「誰かが部屋に居た方がいいんだ。俺は寂しいのがホントに嫌いだし、柊也は掃除もしてくれるし」

そんな風に言って、玄関ドアの前においてある、昔手ひどくフラれた元彼に貰ったらしいベンジャミンの木の鉢植えの下に合鍵を隠して僕に「これで入っとけ」なんて気軽に丸ごと部屋を明け渡した康太は、未成年で世間という海を碌に知らない僕が言うのも何だけれど無防備に人が良すぎやしないだろうか。僕は康太がいつも僕や、これは康太の話から聞いて僕が大体を察していることだけれど、僕以外の同僚や担当の患者や患者の家族にさえも物凄く親身で親切すぎるくらいに親切だし、いつだったか担当していた退院目前の患者が夜中突然急変して翌朝あっさりと死んでしまった時なんて誇張なしに勤務時間以外3日間という時間を泣き続けてその間一切何も食べなかった。情に厚すぎるんだ、他者への重厚すぎる隣人愛なんて現代ではちょっと考えモノだろ、そんなだからいつか悪い誰かに騙されたりしないかと僕は割と本気で心配している。今日も予備校に一応行ってそこに決められた時間ただ座ってからその後、僕は康太の家で風呂を掃除してついでに風呂に入り買って来た弁当を食べ、康太が仕事のものらしい分厚い専門書を読んでいる横で少しだけ眠ってからまたコンビニに出勤する。

そうしたらこの日、康太は僕が康太の部屋のベッドとソファ、双方の機能を兼ねている大きな脚付きマットレスの上で半分寝て半分起きていた僕の頭を突然、こつんと小突いて

「なあ、お前って今もやっぱり家に帰んのイヤな訳?それって兄ちゃんのことで?」

突然、僕の家のことを聞いて来た、なんだよ急に。

「たしかにさ、柊也のお母さんの…家族のやり方は間違ってたとは思うよ、俺、柊也の兄ちゃんに病態っていうか、状態っていうかそういうのがよく似た子のリハビリをさ、ここしばらくずっと担当してるんだけど、そういう子のケアをさ、自宅でずっとやることになった家族は本当に大変だと思う。本当なら…まあ大体はほとんどの場合母親が請け負うんだけどさ、そのひとりの手に負えるようなものじゃないんだよな、肉体的にも精神的にも。だから本来なら家族がその愛でもって全部まとめて引き受けますって所謂美しい話じゃいけないんだよ、無理だし無茶だよ。でも現状はぎりぎりの所で母親がふんばるしかなくて、そうしたらそこにいる患児のきょうだいだって否応なしに巻き込まれていくわけだし」

「何だよ急に、前も言ったけどさ、兄ちゃんの事はもういいんだよ。全部もう終わっちゃったことで、今更さ」

僕には、これまで友達らしい友達が全くいなかったというのもあるのだけれど、僕は僕の、多分よその家とはぜんぜん違う特殊な家族の事を誰かに話したことがなかった。でも康太は、友人として付き合ってみれば見る程、こちらが心配になるほど底なしに優しい性格をしていて、誰に対してもとても親密で同時に大らかで、何より理学療法士、康太は自分の仕事のことを『PT』と呼ぶけれど、そういう医療の関係の仕事をしていて、だからもしかしたら僕の内面にある数えきれない程沢山の、多分その一部はあと数ミリで致命傷になって僕を精神的な死に至らしめるものですらある、そういう傷のいくつかの存在と理由を分かってくれるのかもしれないと思って、それで康太に僕は自分の家族のことを話したことがあるのだ、そんなことは僕の人生史上初めてのことだと思う。


僕の兄、と言っても実際の僕らはそれぞれ別の受精卵からなる同年同日に生まれた双子なんだけど、その兄が僕と生物学上はまあ二卵性なんだから配分に多少の差異はあっても同じ両親、同じ成分でできている双子で、そのはずなのにどうしてなのか兄だけが少し特殊な難病とよばれる類の病気で生まれた。それは現状の医学の力をもってしても未だ根治とか完治という概念を持たない、いずれ緩慢にそれでも普通の人間よりはずっと性急に、体の自由のすべてを兄から剥奪した上、最期は心臓を動かす機能さえ兄から奪い死に至らしめる、そういう容赦の無い冷酷な性質もので、そもそも生まれた時から身体機能に欠けがなく健康に健常である僕とは違い、先天的にその身体機能のいくつかを既に欠いていた兄は、病気の進行により年齢を重ねるごとにそこにわずかに残された身体機能を、生命維持に必要な呼吸であるとか、食物を咀嚼して嚥下する力とか、そういう生存のための能力自体をどんどん失い、それでも僕達家族は、兄を病院ではない自宅で生かしてやりたくて、実際のところはそうするしか選択肢がなくて、家の中に病院のようないろいろの医療機器をいくつも設置し、その管理と維持のために家族が、とりわけ母はギリギリのところまで頑張って頑張って、結果もう一人の子どもであるはずの僕の生活や学校がどうなっているのかなんて気にするどころでない状態にまで疲弊し、父は仕事と言う名前の逃げ場に逃亡して、一体いるのかいないのか全然分からない人になっていた。

そして僕と言えば今とそう変わらない現実に何をどうする力を何も持たないコドモで、年々体の自由を、声も息遣いも表情さえ失っていく兄をただ見つめることしかできず

『ぼくらは双子なのにどうしてこんなふうに運命が全く真逆に別れてしまったのだろう、どうして僕が冬也で、冬也が僕ではないんだろう、冬也は僕が自由に動くことのできる姿で目の前を横切る時、何故その運命を引き受けることになったのが自分であって弟の僕、柊也ではないのかって、運命を呪う以前に、僕の事を憎んだりしていないのだろうか』僕なら、憎むかもしれない、その権利が冬也にはあるんじゃないだろうか。僕を恨んで憎悪する権利が。

そういう答えのない疑問を内側に抱え続けそれは年を追うごとに膨らませていったのだった。

その果てに僕は、この兄のせいで普通の生活ができない、母は兄に張り付き、父は兄の存在を自分の中からキレイさっぱりと消して『なかったこと』にして仕事に張り付き、だからその結果、僕には参観日も運動会も日曜に家族とちょっとした買い物に行くとか、そんなささやかなことすら叶わなくなり、家族の、特に母親との楽しい思い出のようなものがただ僕の願望の断片としてほとんど未消化のまま僕の内側にずっと存在していて、寂しさとか哀しみとかを越えたもうどうしようもできない黒くて汚い何かに変化している事実が現実が嫌だし辛いと、そんな不満や怒りを持つこと自体が自分にとって罪で悪なんじゃないかとそんな風に思うようになった。

だって、僕は兄のことを疎ましく思いながら同時に物言わぬ兄のことをとても好きだったのだ。

僕の幸福な子ども時代を一番阻害した存在は兄で、でもこの世界で兄という存在を一番愛しているのはきっと僕で、その対立するふたつの命題を自分の中で一体どう処理していいかわからないまま僕は成長し、中学生になる頃には、もう自力では殆ど指先程度しか動かせなくなってはいても、僕に似た顔かたちで僕と同じように二次性徴の只中にあった冬也が、母やそのほとんどが女性である訪問看護師に入浴を介助されるのをもしかしたら恥ずかしがっているんじゃないかと思い至り、僕が風呂に入れることを手伝うようになった。

その延長で服薬や食事なんかも僕は手伝うようになり、そうやって段々僕自身が冬也の保護者のようになっていって、余計に兄が僕にとって何なのか、僕の中にある冬也への感情がそれが憐憫なのか愛情なのかはてまた嫌悪なのか、それもよく分からなくなって今、その懊悩も疑問も葛藤もすべてを未消化のまま、僕の中にあるその黒い塊のような感情は大きく肥大化してそれは今日も僕の体内で僕の内側に傷をつけ続けているんだと、同時に僕達の場合は家族というものがほとんど空虚な意味の無い入れ物になってしまって、空中分解したような状態になっているんだということを少しだけ康太に話しをしたことがあるんだ。

康太は僕の内面にある傷の断片みたいなものをこの世でただひとり、知っている。

「だから、僕はもう何をしていいかよくわかんないんだ、僕には僕の半分がもうないんだよ、それで大学受験が終った時しばらく家に帰りたくないって思うようになったんだ、今更だけど定期的に家出してる感じって言ったらいいのかな」

おかしいだろ。

あの時はそうだ一緒にピザを食べていたんだ。康太が給料日だから奢ってやるって言ってマンションのすぐ近くにあるピザハットで凄く巨大な、ペパロニとかベーコンとかプルコギとか肉ばっかり乗っかってるのとコーラとビールを大量に買ってきて来てくれて、とても楽しかった。そういう時だったし、だから出来るだけ軽い感じで、ちょっと意識して口角を上げながらこんな話暗いよなおかしいよなと言って僕が無理に笑った時、康太は普通にしていても大きな目を、更に瞳孔さえ更に大きく開いてるんじゃないかと思う程大きく見開いて僕の顔をじっと見ながら

「いいか、これは性的なアレじゃないぞ」

そう言って断ってから、突然僕の体を渾身の力で抱きしめて僕の髪の毛をまるで犬の頭を撫でるみたいにして掻きまわしてから

「辛かったな。柊也は自分で思ってる以上にぎりぎりまで我慢して、もの凄く頑張ったんだぞ。全部が終った今、すごい空虚だって、それでしばらくは何もできないって柊也が思うのは当然のことだ、それは今、お前にあたえらた権利なんだよ」

お前は本当なら、ただの子どもだったんだ。

そう言ったので僕は、あの日、エレベーターの前で康太が突然僕にキスをしてきた日よりもさらにずっと驚いて、そしてなんだかよく分からないけど涙が出た。

以来、その話を康太はたまに思い出したみたいに僕にしてくる事がある、僕が当時どんなことを考えていて、何を辛いと思っていたかとかをなんとなく聞いてくるようになった。今リハビリで担当している子に僕の兄に似た病気の子がいるんだってことは、きっと僕に似た立場の子もきっとその子の兄か姉か妹か弟か、そういう子が周辺にいるんだろう、そして康太はきっとその子のことをとても気にしているんだろうな、康太はそういうヤツだから。

「僕だって兄ちゃん…冬也みたいなのを家で看るのが凄く大変なのはよく知ってるよ。だって僕らは生まれる前からずっと一緒だったんだ。最後の頃なんかお母さんは半分死人みたいな顔してたよ、だから僕も冬也の為に人工呼吸器の使い方とか薬のこととか体の向きを時間ごとに変えてやることとか、そういう看護っていうか介護の色んなこと覚えたよ。結果それで今度は僕が冬也の世話に追われて結構大変なことになったんだけどさ。でも僕が家に帰りたくないのは、そういう冬也の世話を巡って僕の子ども時代が剥奪されてきれいさっぱり消えてたとかそういう分かりやすいことが原因じゃないんだよ、僕は誰も恨んだりなんかしてない、だって誰かを恨んでもしょうがないことなんだから。僕は冬也を嫌いになんかなれないし、僕の中にある冬也への感情はむしろその逆のものだよ。もし、恨みって感情が僕らの家族の物語の中にあるとしたら、それは冬也の自分の運命への恨みだとか、双子なのにその運命をひとつも引き受けなかった僕への恨みだよ。うん…そうだと思う。それと今日は退勤したら家に帰る、もうそろそろ1週間帰宅してないから親に心配されて捜索されちゃうかもしれないし、そういうのは流石にさ」

「そういうものわかりと諦めの良いとこが俺は歯がゆいんだよな。柊也みたいな…うんまあそうだな『きょうだい児』って呼ばれる子どもって、皆そうなっちゃうんだろうけど、それがあるから余計辛いんだよ。誰を恨んでも仕方ないならお前が罪悪感みたいなモンを背負う必要だって全くないだろ。お前の話聞いてるとさ、俺は医療者として無力だなあって思うよ。俺はPTとしてその子の身体機能がぼろぼろ抜け落ちて行かないようにぎりぎりのとこを維持する努力をすんのが精一杯で、俺の事を『先生』だなんて呼んで慕ってくれる家族のことなんかちっとも救えないんだ、なんなんだろうなこういうのって、ドクターとかナースも同じこと思うのかな」

「康太は大げさだよ『家族を救う』なんてさ、それは福祉とか社会とかそういうものの仕事だろ、康太が気に病むような範疇のことじゃないよ。それにそもそも長期生存に全く向かない人間を、手術とか投薬とか、最後にはでっかい機械まで使ってあらゆる手を尽くしてぎりぎりまで命を引き延ばして生かすってこと自体が、神様への反逆で社会に対する無茶振りなんだから多少のことは仕方がないんだよ。わかってて僕らはそれを選んだんだ、ほころびくらい出るよ。全部がうまくいってみんな幸せでめでたしめでたしなんてそれは流石に無理にきまってるよ」

僕がそう言って笑うと、康太はちょっと嫌そうに顔をしかめて頭をぼりぼり掻いた。

「『僕らはそれを選んだんだ』ってお前、決めたのはその時柊也の兄ちゃんについての決定権を持ってた両親とその治療方針を選定して決定する立場にあった医療チームっていう、とにかくそこにいた大人全員であって柊也じゃないんだぞ。それはもっとこう…複合的なものなんだ。その中ではお前みたいな立場のヤツはものわかりなんか悪くていいんだよ。それにな、そういうのを家族の中だけの問題だって諦めて矮小化しちゃダメなんだ。たしかに『めでたしめでたし』っていう大団円は無理でもさ、せめて俺みたいな医療者は違う場所を目指さないと」

この手の話をすると、大体最後に康太は難解そうな顔をして黙り込んでしまう。いいんだ、全部済んだことなんだからと僕が言っても康太はいつも僕のこの出来事はぜんぜん終わってなんかいないんだと言う。だからもしいつかそれが出来ると思えたら両親に自分の思っていることをちゃんとぶつけろとも言う。聞いてもらえなくても、理解されなくても、何をいまさら言ってんだって言われたとしても、親を相手にして『言った』って事実が大事なんだからと。康太はそういうのを今必死で勉強して、一生懸命考えているところなのだそうだ。

「あと、今日もしヨルって子がコンビニに来たらさ、普通に歩いてるように見えても足元がふらついてないか注意しておけよ、自立歩行が可能でも実は日中ベッド上安静指示が出てて、昼間は殆ど歩いてないような生活してる子だったら本当に足首がしっかりしてないんだよ。その上その子って極端に痩せてて、身長に対して十分な体重なんか全然ない感じなんだろ、それだとあのコンビニの床のリノリウムって滑るし転倒しやすいから気を付けてやって」

「うん、わかった」

僕の出勤時間が迫っていることに気づいて話題を替えた康太は結局また今度は違う子の心配をしてたりするんだ。僕は康太のその指示に対して軽い了解の返事をして、スニーカーを履き、いつも持って歩いている着替えとか教科書とかその手の物が適当に詰められている黒くて巨大なデイバッグを持って康太の部屋の玄関を出ると大学病院のコンビニに出勤した。

この日も僕は、深夜の大学病院の一階の奥にひとつだけ灯されたあかりの番人をする。


(そう言えば、この2日程ヨルの姿を見ていないな)

僕がそう思っていつも通り、面会時間終了の20時のアナウンスを受けて夜の暗闇と入れ替わりに人々の波が静かに建物の外へと去り、次いで病衣姿の客の一切ほとんどが姿を消す病棟の消灯時間である21時過ぎを確認してから暇に任せてレジ横のホットスナックの入れ替えなんかをしていると、店内に人間の影が1人分、足音も立てずに入って来る気配がしたので僕は一応「いらっしゃいませこんばんわー」というマニュアル通りの特に愛想と礼節を感じない、かつ僕らしくあまり覇気のない挨拶をしてその客の方向に視線を向けたら、そこにはヨルがいた。

どうしたんだろ、今日は妙に早いんだな。

僕は笑顔で片手を上げて僕にとっての夜の固定客であるヨルに挨拶しようとして、3秒、そのヨルだと思った女の子をじっと見つめて、それで僕は上げかけた自分の手の動きを静かに止めた。

彼女はヨルであってヨルではなく、いや、その顔の造作とかレジの右横に置かれたコーヒーメーカーより10㎝程低い小ぶりな身長とか、長く伸ばした髪の毛先にほんの少しくるりと巻き毛のような癖のある感じなんかはほぼヨルのものなんだけれど、普段よりずっともっと顔色がよくて、着ている物もいつものパジャマの上に羽織った水色のフーディーではなくて普通の、それも同じような色調の薄い水色のTシャツの形をしたワンピースで、右肩に大きな帆布のトートバッグと足元はニューバランスの白いスニーカー。いつもなら血色の悪さが極まって赤黒く、触れればひどい冷気を纏っている指先はほんのり桜色に色づいていて、そこにはちゃんと血色というモノが存在しているし、その先端の爪はきれいな赤に彩られて何よりあの病的に折れそうな線の細さがほとんどそこに存在していなかった。

それからこれはかなり余計な推測だとは思うのだけれど、普段僕が見ているヨルよりも10㎏は体重があるんじゃないんだろうか。それでもヨルは極端に痩せているので、ヨルのようなその子はまだまだ細身の範疇ではあるのだけれど。でもそれは削げたように胸にも腰回りにも肉らしいものが何ひとつ付着してないことが服の上からでもわかるヨルと比べると健康的に各所に脂肪がついていて、薄く化粧をしている分、かなり大人びた印象のある、いつもの幽霊みたいな存在じゃない、現実の肉体を持った健康的できれいにマスカラまで施している生体反応のあるヨルだった。

それはヨルであってヨルじゃない。

君は一体、誰なんだ。

僕はその子の、本来ならじろじろと見るべきではない客の顔を不躾にかつ不審な印象を持たれるほどに凝視していたのだろう、その子は当然少し怪訝そうな顔をして僕の様子を少し伺ってから、何も手に取っていない状態で真っ直ぐにレジに、僕のいる場所に確実な足取りで向かってきた。何だ、僕の不躾であからさまな視線のせいだろうか、僕はほんの少し身構えた。そうしたらそのヨルであってヨルでない『ヨル´』とも言うべき女の子は僕に

「あの…前田柊也さんですか?」

僕の名前を聞いて来たのだった。確かに僕の名前は前田柊也だけど、でも君は誰なんだろう、ヨルに一番欠けている健康という成分を入れて攪拌し新しく作り直したような、それで本来のヨルにはない桜色に血色の良い指先や健康的な肉付きを手に入れて、更には店のリノリウムの床の上を少しもふらつかずに危なげなく歩行することが可能である君は。僕はそんなことをほんの少し考えていたのだけれど、その子はヨルと同じように僕を真っ直ぐに僕の顔を見て僕の答えを待ってる様子で、それに気づいた僕は慌てて

「えっ、あっ、ハイ、僕が前田です」

少し声の裏返ったなにやら情けない返事をした。何なんだよ僕が前田ですって。そんなの名札に書いてあるだろ。僕はなんだか物凄く恥ずかしくなって『ヨル´』の丁度額当たりを見つめていた目が泳いだ。

「よかった、あの、ここって夜中によく私そっくりの子が来てるでしょ、その子にこれ渡してもらえませんか」

『ヨル´』は右肩に掛けていた大きな生成り色の帆布のカバンの沢山の多分参考書だとか教科書あとはノートとタブレット、そういうモノの中から、それと同じような本かノートか、多分そういうものの入った厚手の紙袋を僕に渡して来た。それは僕としてはぜんぜん構わない、ここに今からやって来るのはせいぜい深夜勤務の看護師か当直医か救急で運ばれてきた誰かの家族程度でそれなりに夜はいつも静寂で密やかで穏やかだし、だからこそヨルはその時間帯を狙ってやって来て僕といつもごく他愛のない、そしてとりとめのない話をしに来るのだから。でもさ、そういう君は誰なんだろう、ヨルというあの白い子が君の本体なのか、それとも君があの白いヨルの本体なのか、よく分からないけれどヨルの姿を纏っている君は多分あのヨルにまつわる何かなんだよな。

「それは構わないけど、あの、君はその、僕がヨルって呼んでるあの子の、何?本体とか実体とかそういうもの?」

思えば僕のこの時のおかしな言葉で、この『ヨル´』がよくその場から踵をかえして逃げて行かなかったよなと思う、僕ならそうするけどな。『ヨル´』はヨルと同じではっきりとした性格性質をその姿同様に踏襲しているらしく、大変にわかりやすく眉間に皺をよせた、凄く怪訝な顔をされてしまった。

「…ねえアタマ大丈夫?本体って何の事?依里ってあの子、自分のこと、アンタ…じゃなくて前田さんに一体なんて名乗ってんの?」

「ヨルって名前の、幽霊」

「前田さん、それ本気で信じてるの?」

「いやそういう訳じゃないけど」

僕はそう言ってから、でも自分を『幽霊みたいなモン』だと言ったヨルの気持ちというか心情はこのもう1人の『ヨル´』を見ていて何となく、それはうすぼんやりとした霧の中の何かのようにだけれど、それでもちょっとわかるような気がした。それからそもそもヨルは僕が何をどう聞いても、自分の名前はヨルでそれ以上の事は何もないんだと言ってそれ以外の情報の一切を開示してこなかったのだから、僕としてはヨルの初期設定をそこから上書きしたり変更したりすることが出来なかったのだと、そういう事情を『ヨル´』には伝えた。そうしたら『ヨル´』は少し呆れたような顔をしてから自分はその幽霊のヨルの妹であると僕に告げたのだった。

彼女の名前は真里で、ヨルの本当の名前はヨルではなくヨリ、漢字で書くと『依里』。彼女達はひとつの受精卵が母親の体内で妊娠期間のごく初期のある時何かの拍子にふたつに分かれた一卵性の双子であり、本来であれば全く同じ人間であるのだと、真里というもう一人のヨルが僕に教えてくれた。常識的に考えれば、自分達はこんなによく似ているのだから、私と依里、2人は血縁上何か関係のある、とにかく家族のだれかだろうって即座に思い当たらないのかと、真里はなんだかひどく気の毒な人を見るような目で僕のことを見たけれど、この時の僕にはその『双子』という考えが可能性としてすら全く思い当たらなかったんだ。そのくらい僕にとってのヨルは、僕と同様にこの病院の暗闇に住む、世界からそれは自主的にか否応なしにか、そういう違いはあるのだけれど、とにかく疎外されて存在が白く透けてしまったこの世ならぬ何かだったんだ。僕はそうか、そうだねと一言だけ言ってあとはぽかんとしてヨルの妹である真里の顔をみつめていた。そうしたら真里は

「あの、じゃあこれ、依里に渡してください、過去問だって言ったらわかると思うから」

そう言って紙袋をレジのあるカウンターに置いて、そのままくるりと体の向きを出口に向けたので僕はつい

「あのさ、折角来たんだし自分で渡してあげたらいいんじゃないの。ヨル…ああ依里だっけ、あの子ならあと2時間もしたらここに来るだろうし、そうじゃなくても今呼び出したら病棟の扉なんて易々突破して来てくれると思うけど」

そう言ったのだった。ヨルは自立歩行が可能だし病人の癖に深夜徘徊の名手だし第一君たちは姉妹なんだろう、だったら。でも僕の提案と疑問、その中間くらいの言葉への真里の回答はすこし、いやかなり寂しいものだった。

「いい、依里は私のこといま嫌いみたいだから」

「どうして」

「どうしてって…うーん…だってさ、見た感じでわかると思うけど、私は凄い健康なのに依里は生まれた時からずっと病気で、今みたいにしょっちゅう入院して冗談抜きで人生の半分を病院で暮らしてるんだよね、高校だって一緒に頑張って同じ高校に入学できて1年生の1学期はおそろいの制服で結構調子よく通えてたのに、2学期から急に調子が悪くなってまた長期入院ってことになっちゃって、そしたら入院が多くて出席日数がやばすぎってことで結局高校はやめるってことになって、今は依里だけが通信制の高校に行ってるの。今回もいつ出てこられるかわかんないんだって。そういう自分と全く同じ人間の1人が凄く重い病気で制限だらけの人生を送ってんのによ、もう1人は健康で自由な人生を謳歌してくださいって、そんな設定、普通なら耐えられると思う?だから依里はね、私のこと嫌いになったの、絶対自分ばっかり病気で真里だけが健康だなんておかしいしずるいって思ってるんだと思う、薄々そうかなーって思ってたんだけどね、だって私なら思うもん。だからもうあんまり会おうとしてくれないんだよ、今回なんか特にそうなの、私が受験生で依里は休学中で人生何度目かの足踏み中なんて依里は辛いよ、前田さんにはそういうの、よくわかんないかもしれないけど」

「わかるよ」

僕は、僕にしてはとても珍しく、性急な早口で、ほぼ相手の、真里の言葉に被せるような返答をした。僕には君の言っていることが物凄く良く分かるよ、僕らは全く無関係の初対面の2人ではあるのだけれど、ある側面では全く同じ人間だと言っていいかもしれないんだ。だから僕は、もう1人のヨルであるところの真里に強い口調でもういちど自分には君の言うことが丸ごと理解できるんだと、更にこうも言った。

「わかるよ、僕にもそういう…ずっと病気だった兄がいたんだ、同じだよ。僕らは2卵性の双子だったんだけど、それでも顔の造りのホントによく似た双子だったんだ。兄は僕と同じ学校に通ったりすることが出来るような状態の人じゃなかったけど、それと僕をどう思ってるのかって聞いて答えてもらえるような人でもなかったんだけど。そもそも色々な自由を最初から何かに剥奪されていた人で、僕はそれをすごく理不尽で不当な運命だと思ってたよ。だって僕らは同じ親から同じに日に生まれたはずなのに、僕だけが健康で何もかも自由で、兄はそれとは全く違う人生を生きる事になって、だから君の言ってることは僕には本当に真実として、よくわかる」

僕の性急な早口の自分語りに真里はきっと驚いたと思う。僕だって驚いたよ、こういう偶然が世界にはあるのだと言うことに。それからあまり他人に立ち入らないし自分のこともほとんど人に話した事がなんかない僕がいくらヨルにそっくりな双子の妹が相手だからって初対面の相手に兄の事をすらすらと話しているなんて、そんなことをする自分なんて、これまで考えたことすら無かったのだし。

「あの…そのお兄さんて、今どうしてるの、もしかしてさ」

真里は僕にその驚いた顔のまま、僕の言葉から拾い集めて大体の確証があったのだろう可能性をひとつだけ質問して来た、それで僕はそれに対しても端的に正直に答えたのだった。

「死んだ」

「いつ、最近?」

「2年と少し前、僕らが17歳になってすぐの冬だよ。もともとここ病院で生まれてここにずっとかかってた人だから、急変して、それですぐさまここの救急に運び込まれたんだけどダメだった。でもどんどん進行して身体機能が弱ってく感じの病気だったから17歳でもかなり長生きした方なんだ、死因は呼吸不全だったけど。だからさ、もし、もしね、ヨル…依里が一生を病気に支配されている不可逆的で根治不可の、しかもそれが、その…ごめんね嫌なこと言うけどさ、それこそもしそう長い生存を約束されている人間じゃないって言うならさ、自分のことを心底嫌いなのかもしれないって憶測よりも何よりもまずちゃんと会いに行った方がいいよ。それで何でもいいから話をした方がいい、ヨルはちゃんと話せるんだから。死んじゃうってさ、当たり前のことなんだけど本当にいなくなっちゃうってことなんだよ。そうしたら、僕の場合は鏡を見るのが辛くなったよ。だって兄の顔がそこにあるのにもう実体がないんだ、それって毎日僕の前に現れる幽霊なんだよ。毎日顔を洗おうとするだろ、そうしたらもう体を失った筈の兄の顔が目の前にあって、それで僕は、目の前の兄の姿に自分の理不尽な人生を呪ってるかって、僕のことを怨んでるのかって、答えてもらえるわけないのに今もずっと聞き続けてるんだ」

だから聞いて、話した方が良い、その問いに対して返ってくるのがどんな回答であったとしてもさ、そうでないといずれ答えのない懊悩を自分の中に閉じ込めて、結果自分のことを酷く傷つけることになってしまうから。

(ああ、でも、だから君はヨルと言う名前の幽霊だと、そう名乗る事にしたのか)

僕は真里と向き合って話を、自分の内側にある秘密を話して聞かせながら、一体どうしてヨルが僕に自分のことを実体のない幽霊だと名乗ったのか、その意味をやっと確実な形で理解したのだった。最初は只の自虐混じりの冗談だと思っていたのだけれど、君は妹に対してもう自分は実体のない幻なんだって言いたかったんだろうな、自分が存在することで自分の半身である真里にもういちいち傷ついたり、色々と気をまわして疲れたり、その気遣いが徒労に終わったりしてがっかりしないでほしいって。

だったら、自分はもう幽霊でいいんだって。

真里は僕の話を多分信じてはくれたようなのだけど、やっぱり会うのはさ、なんか難しいの、あの子ってすごい頑固だし一回でも『もう会わないし話すことなんかないよ』とか言い出したら聞かないもん。そんな風に言って力なく首を左右に振った。そこは僕も大変に理解できる、だから真里は今日はやっぱり帰ると言ったので僕は

「でも、もしよかったらまたおいでよ、僕大体この時間にいるから」

真里にそう伝えて、ついでにこの一連の会話の中で初めて露見した、これまで僕がかなり間違って認識していたらしい点をひとつだけ確認した。

「あのさ、さっきの君の話、一度はヨルと同じ高校に入学して通ってたってハナシさ、そしたらもしかしてヨルってその…高校生なの?今」

「そうだよ、今高3。ねえ前田さんて依里のこと何歳だと思ってたの?」

「下手したら小学生くらいかと思ってた…」

「まあ、うちら2人とも小さいし、その上依里なんか私よりずっと痩せててその分小さく見えるからね、でも小学生ってさあ、ちょっとひどくない?」

真里はそう言って女子高生らしく大らかにそして弾けるように笑って、その笑った時に極端に強い眠気を纏った猫のように細くなる目元がまったくヨルのものと同じで僕はふいにそれをとても、とても愛しいと思った。でもそのあとすぐに真里が僕のこの勘違いを

「そしたらさ、それ、依里に言っとく」

なんて言うので

「えっ、困るよ、ヨルは直ぐ怒るし、うっかり地雷っていうかその手のこと、踏んだりしたら結構本気で僕の尻とか蹴ってくるんだから」

そう言ってほぼ懇願に近い表情でその辺は本人には言わないでくれとそう頼んだけれど、真里は今夜中に僕の失言を依里に電話して伝えておくと僕に言い、そう言ってからほんの少し瞳を少しだけ宙に浮かせながら少しの間、何かを考えて、うんやっぱり電話してみると、何かを決意したように言い直して、ほんの少し口元をほころばせた顔でコンビニの自動扉を開けて足早に出て行った。

そうか、今夜君たちはちゃんと話をするんだ。

ヨルが真里のことをどう思っているのかそれは僕にはわからないけれど、真里がヨルを姉として、そして自分の半身として、それだけじゃない実際いろいろの感情もそこにはあるのだろうけれど、それでもそのいろいろに抗って、これまでの出来事の周囲にへばりついている余計な感情を取り払ってみた時、やっぱり自分の姉であるヨルのことをとても大切に思っているんだってことがちゃんと伝わるといいな、それは相手が生きていて、呼吸をして、世界をその瞳に捉えられる内に伝えておくべきことなんだ、そしてそれを僕はうっかりし損なったんだよ。

その日、ヨルはコンビニには現れなかった。

僕は、いつもならヨルがやって来て、今日は何をしていたのかとか昼は何を食べたのかとか、ねえやっぱり今年も大学受けるのとか、だったらこんなに毎日バイトばっかりしてて大丈夫なのとか、そういうことを僕に聞いて来る時間、能天気で空虚ですらある音楽だけがそこにある店内でヨルがいないのなら特に話をすることもないしと、雑誌の棚の整理をしていた。その時、僕が視線を感じてふと顔を上げてみると、店内と廊下を隔てるガラスの壁の、向こう側の廊下が深い暗闇でありこちら側の店内が煌々とした明かりに照らされて鏡のようになっているそれに、僕のものであり冬也のものである顔が鮮明に映し出されていて、僕はふと

「なあ冬也、僕を怨んでるか」

そう聞いてみた、当然答えなんかない、それで僕は

「僕は多分、冬也のことをとても好きだったよ」

ひとことだけ冬也であり僕であるその顔に話しかけてみた。

僕はあの頃の全部を、美しい思い出とか物語に変える事なんかは今はまだとてもできないんだ、とにかく色々なことがあった、お前がいなければ僕の生活はもっと平穏で豊かだったんだろうなって思ったことは正直なところ沢山あるよ、お前のことが疎ましいって、いなければいいのにって。

でも逆にお前がいなかったら感受できなかった色々な感情だってある。良いか悪いかは別にして世界は理不尽に溢れているんだって、命が恐ろしく脆くてその分大切だって知ったのはお前が存在していたからだ。僕らの17年間には眩しい程に美しかったり、恐ろしい程幸福な一瞬だって確かにあったんだよ、それは凄く刹那的にだけれど。それとは別に今もまだ消化できないままの辛くて痛くて苦い感情もたくさんあるけれど、それは絶対にお前のせいじゃない。そう思えるように今この瞬間も僕は実は闘っているんだと思う。

きっとあの子達も同じだよ。

ただ、お前は死んじゃったんだけどな。

ガラスの壁に映る冬也は、当たり前だけれど、僕に何も答えてはくれなかった。

あの夏の終わり、段々とコンビニから足が遠のいていたヨルはもう深夜の散歩を黙認されない程からだの状態が悪くなっていて、だからこそというかやっぱりと言うか、余計に妹である真里を出来るだけ遠ざけていたらしい。

「あの子の幼稚園とか小学校とか中学…それに今もかな、思い出みたいなものを虫食いだらけにしたのは私だから。真里が中学生の時の修学旅行の日にねえ、私いまみたいに入院してたんだけど、なんか突然急変して死にかけてさ、先生がもう駄目かもしれませんて言うもんだから、親どころか真里まで就学旅行先から呼び戻されたことなんかもう語り草だよ、それで3日後くらいに普通に生きかえってるし、ウケる。でもあの時もホント悪い事したと思う。私の家はねえ、私のせいでずっとそんなだったの。それなのに真里は、私と同じ高校に行くんだってきかなくて、大体私の方が全然頭悪くて、ホラ入院に次ぐ入院の人生で小学校も中学校も全然まともに行けてないからね、だから真里の方がずっと成績が良いのにわざわざランク落として同じ学校に行くんだって、私がそんな事頼んでないしアンタはもっといいとこ行きなよって言ってんのに譲らなくてホントに一緒の高校に行く事になったの。それなのに私、高校途中でやめてるし。いつもそうなの、予定が立たなくて、突発事故だらけで家族に迷惑かけっぱなし、ホント生産性の欠片もない人間なんだよ」

だから真里が私を憎んでも、私が真里を憎むなんてある訳ないのに。確かになんで私だけこんななのかなって思うことはあるよ、手術も入院も人生に全然関係ない真里が羨ましいって、でもそれを思っちゃあ負けなのよ、そういうのを比べてもぜんぜん無意味だってことくらいよく分かってる。それに私の体がこうなったのは全然真里のせいじゃないじゃん、それを申し訳ないとか、真里ってほんとにばかだよね。

最後にヨルが幽霊としてコンビニにやってきた日、ヨルは真里のことを僕にこんな風に話して、声をあげて笑いながらほんの少し、涙3粒ぶんだけ泣いた。

ヨルはこの時もう自分の力では1階に降りてくる事ができなくなっていて、それでこれは僕もまったく予測していなかったことだけれど、その日の夕方に一度退勤したはずの康太に車椅子を押させて夜のコンビニに降りて来たのだ。何をどうしたらこの病院のリハビリ科の職員である康太を一般の患者であるヨルがアゴで使うような真似が出来たのかは、後から康太が

「依里ちゃんはなあ、なんて言うのかな…ちょっと特殊な病気だから、本来なら小児科の範疇じゃなくなった今も依里ちゃんを生まれた時から診てる小児科の医者しかわからない事が多いんだ、それで高校生だけどまだ小児病棟に入院してる。そういう子って割といるもんなんだよ、そん中でも依里ちゃんは病棟では一番の古参だよ、だから結構な人数の看護師とか、医者とか、俺みたいなPTとか、そういう連中の個人情報って言うか弱みをかなり握ってんだ」

それは康太の秘密を握っているヨルの脅迫によるものだったと教えてくれたけれど、でも実際は康太の優しさだったのだと思う。僕に言っていた『僕の兄に似た状況にある患者とそのきょうだい』というのはきっと、この依里と真里のことだったんだろう。それでもあんなバレたら首が飛ぶかもしれないような真似、よくやったよなと思う。僕が正直にそう感想を述べると康太は

「だってあの子のこと、小学生のころから知ってんだぞ俺、そんな子が自分の最後になるかもしれないお願いなんだって言ってきたら、お前、断れるか」

そう言ってあとはただ静かに俯いてしまった。ヨルはずっと迷っていたのだけれど、これ以上状態が悪くなる前に大きな手術を受けることを決めたのだそうだ。ヨルを長く担当している医師が言うにはそれは「もう今しかない」タイミングのものらしい。

「まあ、それでもし無事に手術室から出てこられても術後って超絶にしんどいし痛いしなにより怖いけどそれでもね」

やっぱり色々考えたら私、まだ死にたくないって思ったんだよね。ヨルは僕にその「いろいろ」が何であるかは明かさなかったけれどとにかく、生きていたいのだとそう言った。それでその後はかなり長い間ICU送りになるだろうしそれならその前に僕に会っておきたいのだと、康太にそう言って脅迫…ではなくて懇願して自分の身柄を病棟から連れ出して貰ったのだそうだ。それで真里とはちゃんと話ができたこと、小学生はいくらなんでも酷くないかということ、これから暫くは集中治療部と言う絶対突破不可能な難攻不落の砦の中に幽閉の身になるので会えなくなるのだと言うこと、そういうのを僕に伝えにきてくれた。僕は実際のところ小学生ではなかったものの、僕より2つ年下のヨルがいつもみたいに屈託なく笑いながら

「しばらくはバイバイだね、もしかしたらこれが永遠の別れかも、そうなったら真里とは仲良くしてやってよ、康太先生とも仲良くね」

なんてことを言う姿に何をどう言っていいのか全然、皆目見当がつかなくて

「そんなこというなよ」

そう言ってからあとは半分声になっていない声で

「僕はヨルがいつもここに来てくれるだけで嬉しい。君は幽霊でも実態が無くても、生産性なんか無くても、僕には何よりも大切なんだよ、いてくれるだけでいいんだ。だいたい生産性ってなんだよ、そんなの僕にも全然ないぞ、そういう神様の匙かげんで起きた理不尽を申し訳ないとか悪いとかそんなのおかしいだろ、だって、あと1ミリ運命とか遺伝子とか細胞の分裂の仕方とかそういうのの何かがずれていたらそれって僕にも起きたかもしれないことなんだぞ」

僕は君だし、君は僕だ。僕も君も真里も冬也もみんな、みんな同じなんだよ。

自分でも何を言っているのかよく分からないな、支離滅裂だ、でもそういうことなんだよ。

そしてこの時僕はヨルに、君のことを深夜のおかしな常連客だとかそういう事を遥かにずっともっと超えて特別に大切に思っていたんだと、それは君の妹である真里の思っているのとほんの少し違うけれどそれでも同じような感情なんだと伝える事で、どうしてなのか僕らが17歳になったばかりのあの冬、初雪の降った日の未明に突然何の前触れもなく、バイタルモニターのアラームをけたたましく鳴り響かせ、それは冬也が呼吸不全を起こしまった故だったのだけれど、それでいともあっさりと死んでしまった冬也が僕のことを赦してくれているんじゃないかと、僕が冬也を、冬也へのいろいろの感情を飛び越えて乗り越えて今、とても大切に思っているように、そう思えるように今も闘っているように、冬也もまた僕のことを弟として大切に思ってくれていたのじゃないかと、そんな憶測を突然確信に変換し、これは僕と冬也の確定事項なんだと、そんな風に僕の中で決定されたのだった。

ヨルであるところの依里が妹である真里をこれ以上自分のことで傷つけたくないと、特別に大切に思っているように。

冬也もきっと僕のことを大切に思ってくれていたはずだ。

ヨルは僕のその支離滅裂な言葉を聞いて「ありがと」とだけ言ってとても嬉しそうに笑い、付き添いの康太は普段大きな声を出したり自分をつよく主張したりする事の本当に少ない僕がこんな風に話すことにすこし驚いて、でも何も言わないでただヨルの体の端が冷えていないかを目視で確認し、あとはヨルがいつも持ち歩いているポータブルのバイタルモニターがそこに無機質に映し出すヨルの命の数字が上下する様を静かに注視していた。


そうしてその日からヨルと『ヨル´』であるところの真里も、2人とも深夜のコンビニに姿を見せなくなり、そのまま夏が終わり秋がやってきて、更にきりきりとこめかみに響く冷たく乾いた風が唐突な初冬を僕らに告げにやって来た頃、僕はあまり考えたはくなかったひとつの、それも大きな可能性が事実として確定してしまったのだと密やかにそして静かに悟ったのだった。大丈夫だ、僕は運命というものが個人の希望や期待をいつも酷く裏切る、期待外れのそして容赦のないのものなんだということを経験的に、身に染みてよく知っている。

今度だって僕は大丈夫だ。

『もうヨルはここには来ない』そう確信した僕は、また平静を装い、そもそも僕のあの夏には何もなかったのだと、そう思って暮らすことにした。あの白くて美しい幽霊は初めから居なかったのだ。そう何度も自分に暗示をかけてはあるのに、それでもやっぱり、あの白い幽霊がこの白い病院の中に現れる幻を静かに待ってしまう、白い影を見るとああヨルはやっぱり消えずにここにあらわれたのだと思ってしまう。僕はそういう時間にどうしても耐えられなくなってコンビニの深夜のバイトを

「流石に3浪もするわけにもいかないので」

そんな心にもない最もらしい理由で、店長に頭を下げて辞めると告げた。でも普段から鷹揚で気の良い店長は、それならどこか大学に合格したら戻って来てよと言い、更にはだったらここの大学を受けたらいいじゃないかとも僕に言ったのだった。

「この大学って医大ですよそんなの無理ですよ」

僕は慌てて首を振って否定したけれど、店長は看護学部とかリハビリ学部もあるじゃないかと言って結構本気で僕にこのコンビニのある大学病院のある医大を受けたらいいと僕に勧めて来た。そしてこの少し前から『進路がなんでもいいならお前は絶対に向いてる』と言って、康太もここの医大のリハビリ学部を受けろと結構しつこく僕に勧めていたのだった。

「俺の後輩になれるぞ、でもそうなったら実習先はこの病院のリハビリ科だしそん時は俺、相手がお前でも容赦しないけどな」

康太はそんなことことを言う。康太とはあまりにも思考回路というか性格の違う僕が一体、身体に不調や欠損を抱えた人のからだや更には心にまで寄りそうことに向いているのかは、どうなのだろう、誰かの心情を過剰にくみ取る事に関しては経験則的にやれてしまうことだし、そういう意味では適正があるのかもしれない。それはいいとしても、実習で元ラグビー部にしごかれるとかそういうのはちょっと自分としては極力避けたいのでとりあえず

「康太にしごかれるのはイヤだよ」

そう言っていつものように曖昧に笑って僕は康太に明確な返事をしないでいた。それなのに

「受験する気があるなら俺が受験料奢ってやるぞ、そもそもお前理系だろ」

そう言って、康太は僕の願書を勝手にネット出願してしまい、そういうの行き過ぎの親切っていうんだぞ、おせっかいだぞとは言ったものの僕は、元来人の希望に何でも答えてしまう、言い換えると流されやすい性格をそこまで矯正できている訳でもなかったので、あの僕とヨルと真里とそれから康太と出会ったコンビニのある大学病院とは渡り廊下一本で繋がれた医科大学のリハビリテーション学部を受験する事にしたのだった。

その康太は、ヨルであり依里であるあの子のその後をきっと知っているのだろうけれど、患者の個人情報は一切明かせないのだと、僕が知っている以上のことを何も教えてはくれなかったし、僕もそういう規則をよく知っているから、それ以上のことを康太に執拗に聞いて、僕にとってはたった一人の大切な友達を困らせるような真似をしなかった。結局、僕があの幽霊であるところのヨルの事で知っているのは、本当の名前がヨルではなくて依里であること、ぼくらと同じ冬に生まれた双子であること、双子の妹の名前は真里、そしてその驚く程白くて美しくてしかし脆弱で不足だらけの身体機能を有した肉体を持ち、しかしそこに気丈でしたたかな魂を宿している依里が、もし今生きていれば18歳になっているということ。

それだけだ。

結局、その年いくつかの大学の理工学部と理学部とそれから、例の医大のリハビリテーション学部を受け、過去問も碌に解いていないのにどういうわけかリハビリ学部に受かってしまった僕は、もうあとひとつの私立大学の理学部に合格していたのだけれど、それは自分でもどうしてだか説明ができない現象ではあるのだけれど康太の後輩になる道を選んだのだった。合格通知と入学手続きの諸々を持ってこの時は1週間ぶりに自宅に戻ってきた僕のこの決定を聞いた母は僕が医療職に興味なんかあったのかと、とても驚いていた。

「柊也はその…冬也の事があって、こういう、介護とか医療とかそういうものには絶対立ち入らない子だと思ってたのよ、冬也がこの家にいた最後の頃、あの子ももうそれなりに体が大きかったし私の体力は限界で、アンタに夜中冬也の体位交換とかオムツの交換まで手伝わせてたんだもんね、アレ絶対嫌だったわよね、柊也はあの頃のこと今も色々納得できないんでしょ。当然よね、お母さんが柊也でも納得できないもの。もしお母さんが冬也を普通の子に産んであげられていたら、あんた達はきっと普通の仲の良い兄弟でいられたのにね」

ごめんね

母は僕の合格通知を眺めながら、突然ひとこと謝るような言葉を漏らした。その言葉を聞いた僕は母が

『自分のせいで2人の子ども達は少しも幸せではなかった』

という認識を持ってたことをこのときに初めて知って、そのことにとても驚いたのだった。母は冬也だけでなく僕も不幸にしたと思っていたんだって。でも、それっていったいお母さんのせいだったんだろうか、僕らはほんのすこし道順を間違えただけなんじゃないのか、じゃあ正解がどこにあったのか、どれが正規のルートだったんだと聞かれてもそれは僕にはまだわからないし、本当の正解なんてものがそもそも世界に存在しているのかなんてことすら僕にはまだわからないんだけど。僕は、母の念願だった大学生になる事になった僕を目の前にして何だか判決を待つ被告人のように酷く緊張した表情である母に対して、別に断罪の気持ちでもなく、かと言って慰謝の気持ちでもなく

「ねえお母さん、僕は確かにあの頃の事を自分の中で消化して赦してすべてをきれいに終わらせている訳ではないんだけど、それと僕と冬也は確かに普通の兄弟じゃなかったかもしれないんだけど、でも僕らは普通じゃなくても仲の良い兄弟だったよ、僕の中でそれだけは今、間違いのない事実なんだ。そういうことを僕は今年の夏に、僕らと同じような2人に会って、それだけはひとつ、わかったんだよ」

そう言う事を伝えたのだけれど、母は僕の言葉の意味をわかってくれただろうか。わかったかもしれないし、わからなかったかもしれない。

母の気持ちは僕にはわからない。

そして当然、僕が自分の後輩になることを強く推していた康太は、僕の大学合格を物凄く喜んでくれて、回るヤツだけど好きなだけ食えと言って寿司まで奢ってくれた。康太が言うには、自身が何か長く患ったことのある人間であるとか、その患者の家族の立場であったという人間は、その時々に当事者とその周辺がどんなに微妙で、自分自身で自分自身の辛さを感知することすらできない状態であるかを経験的によく知っている分、きっと良い医療者になれるのだそうだ。そうなのかな、僕にはよく分からないな。でも康太が喜んでくれるならそれでいいやと僕はそう思った。君は僕の、この先もきっとずっと大切な友達なのだし。

そうして春、入学式にはもう既に成人しているというのに、高校を卒業してから今まで予備校とコンビニと康太の部屋という3つの世界だけで暮していたお陰で、年齢の割にかなりの世間知らずである僕は、それを康太に聞いたものの

「ネクタイの結び方?そんなの俺もよくわかんねえよ、俺?いつも誰かに結んでもらったの、そのまま被ってる」

と言われてしまったネクタイを結ばずにスーツのポケットに突っ込んだまま多分その大半が年下である同級生の中で少し浮いた感じが否めない入学式を終え、そしてその足で店長との約束通り深夜のコンビニのバイトとして大学の隣の病院の1階の灯火の中に舞い戻って来た。

あの頃、浪人生なのか夜のコンビニの幽霊なのか全然わからないねとヨルに笑われていた頃よりシフトの日数こそ減らしたものの、僕はまた深夜の灯りの番人として復帰をはたし、だいたい週に3回、真面目にレジに立ちおにぎりや弁当を補充しドリンクを陳列してお菓子の新商品を入れ替え、週刊文春とか新潮とかあとはジャンプとかオレンジページとかそういう雑誌を綺麗に並べ、コーヒーサーバーを清掃し、バイトが終わると自宅に帰る日と、康太の家に転がり込む日が半々、大学の前期と呼ばれる期間はそういう生活を続けて、そして夏のある日、いつものように病棟の消灯時間がやって来る21時を過ぎた静寂、暇に任せてレジ前の食べ物なんかをきれいに整理している時間に、ふと足音も無く店内に入って来る人影があった。それで僕はいつも通り反射的にマニュアル通りの礼節と愛想を感じないあの挨拶をした。

「いらっしゃいませ、こんばんわー」

「ねえ、その挨拶さあ、ホントに全然愛想と誠意を感じないよね」

ヨルの声だった。

ヨル?

「ヨルなの?」

僕の声は上ずった、ヨルなのか。僕はそっと上げて入り口を見た。そこに居たのは去年の夏から、幻としてさえ会うことのなかったあの深夜の白い幽霊、いや幽霊にしては今の君は少し顔色が良いかもしれない、でもヨルという名前の幽霊だった。そしてヨルは僕の、驚いて驚きすぎて血色というモノをまったく無くしてしまった顔を見てとても楽しそうにそして可笑しそうに笑った。

「ねえ、幽霊見たみたいな顔しないでくれる?」

「幽霊じゃないの?」

「幽霊じゃないよ、生きてるよ。あの夏の終わりにさ、手術した後に予想通り本気で死にかけて、ママと真里は先生達にいよいよ危ないかもって10回以言われたらしいんだけど、それで10回奇跡を起こして退院するまで結局1年弱かな、相当時間がかかったんだけど、でも今回もぎりぎり生き延びたよ。これで身体が完全に治ってもう普通の人だよとかそんなんじゃ全くないんだけどね、それは生涯無理な注文だし、相変わらず死にぞこないの未だ死にかけなんだけど」

私の命は延長戦に入ったよ。

ヨルはそう言ってさらに嬉しそうにぎゅっと目を細めて笑って、その時の猫の子みたいに細い目元を僕はやっぱりとても愛しいと思った。

「あのさ、これはその、性的なアレじゃないから」

僕は康太の受け売りの文言をそのまま使ってそう言うと、僕らの間を隔てているレジカウンターの裏を回るのがもどかしくてヨルの、いやここにいるのは依里っていう名前の実在の人物なんだよな、もう幽霊じゃないんだ。ここにあるのは確実な肉体を持った18歳の女の子だ、そして僕もまたあの頃よりはもう少しだけ実態と未来とか将来とかそういうものを人生に持つことになった大学生で幽霊じゃない。

とにかく僕は実体のあるヨルの体の触れられる場所行くのに回り道をするのがもどかしくてレジカウンターに登ってそこを乗り越え、ヨルの、生還して退院したと言ってもまだまだ病的に華奢で小さくて折れそうに細い体を衝動的に突発的に両手でそっと包むみたいにして抱きしめた。そうしたら依里も僕の背中にその細い腕を回し、そしてもう生きている暖かさのある掌で指で僕にしっかりとしがみついて来て、それから僕だけに聞こえる小さな声で「ただいま」と言った。

おかえり、おかえりヨル。

ヨルが生きていくれて本当によかった。

僕は、とにかく今、とても嬉しい。

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ここまでお読みいただいてありがとうございました。
下記がこの作品の続編となり、全て合わせると約12万字です。


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きなこ(黒田季菜子) サポートありがとうございます。頂いたサポートは創作のために使わせていただいております。とっても助かります。