55歳、親切をして泣く
仕事が終わって家に帰ると、
僕はだいたい だらける。
今日は帰ったらnoteを書こう。
FIREについて調べよう。
これからやるべきことを整理しよう。
会社にいる間は、そんなことを考えている。
そして、家に着く
ビールを飲む。
少しだけ休憩しようと思う。
その「少しだけ」が、だいたい夜を食べ尽くす。
気がつくと、今日やろうと思っていたことは、
明日の自分へ引き継がれている。
「明日やろうは、ばかやろう」
そのため、馬鹿な僕は、
ときどきマンションの会議室を予約する。
18時までは住人に無料で開放されているが、
それ以降は有料になる。
お金を払って予約してしまえば、さすがの僕も行く。
意志の弱さを、お金で補っている。
その日も、仕事を終えて会議室へ向かった。
扉を開けると、制服姿の女の子が一人で勉強していた。
中学生くらいだろうか。
教科書とノートを広げて、黙々と何かを書いている。
18時までは無料で使えるから、彼女は学校帰りに、
ここで勉強していたのだろう。
僕は18時から予約しているので、
ここからは貸し切りになる。
本来なら、彼女には出ていってもらうことになる。
少し迷った。
そのまま使っていいよ、と声をかけようか。
広い会議室とはいえ、
知らない55歳の男と女子中学生が二人きりになる。
僕でも少し気を使う。
彼女は、もっと気を使うだろう。
とはいえ、目の前では一生懸命に勉強している。
宿題だろうか。
塾の課題だろうか。
家では集中できないのかもしれない。
もしくは、意地悪な継母に、
「勉強なんかしている暇があったら、家のことをしなさい」
などと言われているのかもしれない。
ここに、令和版シンデレラの物語があるのかもしれない。
こういう余計な想像力も、僕の欠点の一つだ。
会議室には防犯カメラもある。
僕にとっても、彼女にとっても、その方がいい。
「18時からは僕が予約してるんだけれど、
もしよければ、そのまま使っていいよ」
そう言うと、彼女は少し驚いたような顔をした。
「いいんですか?」
声が少し上ずっていたように思う。
嬉しそうにも見えた。
少し恥ずかしそうにも見えた。
そして、その瞬間から、僕は後悔した。
せっかく声をかけてもらったのだから、途中で帰ったら悪い。
そんなふうに、逆に気を使わせてしまったのではないか。
僕は一番後ろの席に座った。
彼女は、それまで使っていた前の方の席にいた。
距離は5メートルくらい。
前で中学生が勉強をしている。
後ろで55歳の僕がパソコンを開く。
彼女は、自分の未来のために何かを勉強している。
僕は、会社に自分の時間を全部持っていかれないように、
noteを書いたり、FIREのことを考えたりしている。
年齢も違う。
やっていることも違う。
目指している場所も、たぶん全然違う。
(そう信じたい)
それでも、その夜の会議室では、
二人とも自分のこれからのために、
やるべきことをやろうとしていた。
途中、彼女のスマホに電話がかかってきた。
彼女はスマホを持って会議室を出ていった。
帰りが遅いと言われているのだろうか。
もしかすると、知らない男が残っていいと言ったので、
途中で帰りにくいと説明しているのではないか。
僕の親切が、彼女を人質にしていたらどうしよう。
勝手に心配した。
しばらくして彼女は戻ってきた。
そして、また勉強を始めた。
僕もパソコンの画面に目を戻した。
会議室には、ペンを動かす音と、
キーボードを打つ音だけがしていた。
年齢も、やっていることも違う。
それでも、それぞれが自分のやるべきことに集中している
そんな空気の中にいることが、
ささやかだけれど、少し幸せだった。
もちろん、彼女はただ自分のやるべきことをやっていただけだ。
僕に何かを与えようとしていたわけではない。
それでも
静かに何かに向かう姿は、
ときどき誰かの心に小さな火を灯す。
1時間ほど経ったころ、彼女は帰る準備を始めた。
「ありがとうございました」
僕の方まで歩いてきて、丁寧に頭を下げた。
僕も席から立ち上がった。
本当は、こちらの方こそ深く頭を下げたかった。
でも、そんなことをすれば、
彼女を戸惑わせてしまう気がした。
だから代わりに、口元で小さく両手を合わせた。
「こちらこそ、本当にありがとう」
たぶん彼女には、何のことか分からなかったと思う。
場所を貸したのはこちらなのに、
なぜか僕の方が礼を言っているのだから
「偉いね。こんな時間まで勉強して」
僕は手元にあった、
小さな個包装のチョコレートを一つ渡した。
「よかったら、これ」
「いいんですか?」
少し驚いたような、今どきの若い子らしいイントネーションだった。
その言い方が妙に若くて、なんだかおかしかった。
「うん」
とだけ答えた。
彼女はもう一度お礼を言って、会議室を出ていった。
扉が閉まった。
急に、会議室が広くなった気がした。
さっきまで彼女が座っていた前の席を見た。
少し、視界がぼやけていた。
まさか、泣いているのか?
目から少しだけあふれて、こぼれるか、こぼれないか。
自分でも驚いた。
なぜ、こんなことで。
そう思った。
頑張る姿に刺激を受けたからだろうか。
感謝されたからだろうか。
本当は、ありがとうと言いたかったのが
僕の方だったからだろうか。
たぶん、全部だった。
彼女に伝えたかった。
君はただ勉強していただけかもしれない。
でも、その姿を見て、僕もやらなければと思った。
僕も、自分のこれからのために、もう少し頑張ろうと思った。
だから、ありがとうと言いたいのは僕の方なんだ。
でも、そんなことを急に55歳の男から言われても困るだろう。
だから、何も言わなかった。
いや、言えなかった。
それからも僕は、ときどき会議室を予約した。
でも、彼女と会うことはなかった。
それから1か月ほど経ったある日。
マンションのエレベーターで、
その女の子と母親らしい女性とすれ違った。
私服だったので、僕は彼女だと気づかなかった。
僕は乗る。
二人は降りる。
二人はエレベーターを降り、数歩先まで歩いていった。
扉が閉まりかけたとき、女の子が思い出したように振り返った。
「前、ありがとうございました」
僕には、まだ分からなかった。
「えっ?」
と、間の抜けた声が出た。
彼女は母親にも聞こえるように言った。
「前、会議室で……」
その言葉を聞いて、ようやく分かった。
すると、お母さんも戻ってきた。
「娘をありがとうございました」
そう言って、頭を下げた。
優しそうなお母さんだった。
僕のたくましい想像力が間違っていて、
本当によかったと思った。
僕が何かを返すより先に、
エレベーターの扉が閉まった。
エレベーターが、ゆっくり上に動き始めた。
ありがとうと言いたかったのは、やっぱり僕の方だった。
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