55歳、スニーカーを買う
会社に履いていく革靴が、だいぶ傷んできた。
そろそろ買い替えなければならない。
これまでなら、特に考えることでもなかった。
古い革靴を捨てて、新しい革靴を買う。
たったそれだけの話である。
ほとんどのものは、ネットで買うが、
靴だけは、同じサイズでも微妙に違うので
いつも店で買うことにしている。
会社帰りに、商業施設の靴屋に立ち寄る。
棚に並べられてる革靴を眺めながら、ふと思った。
この靴を、僕はあと何年履くのだろう。
55歳になっていた。
あと何年、と考えること自体が、初めてだった。
来年の春には、会社を辞めようと考えている。
その準備も、進めている。
なのに、新しい革靴を買う。
自分で決めかけた方向に、自分で逆らうような気がした。
少し大げさに言えば、自分に対する裏切りのようにも思えた。
僕は革靴売り場を離れ、スニーカーを見ることにした。
私服で履くスニーカーは、なぜか昔から赤と決めている。
ファッションにこだわりがあるわけではない。
むしろ、センスはないと言われることのほうが多い。
なのに、スニーカーだけは、なぜかいつも赤を選ぶ。
センスがないものに限って、挑戦しているとも言われる。
今回も赤にするか。
一瞬だけ考えた。
さすがに、スーツに赤いスニーカーで会社へ行く勇気はなかった。
会社を辞めるつもりではある。
それでも、そこまで吹っ切れてはいない。
もしくは、単に常識が残っているだけなのかもしれない。
結局、黒いスニーカーを買った。
翌朝、その黒いスニーカーを履いて会社へ向かった。
スーツにスニーカー。
文字にすると、少し格好よく見える。
昔のニューヨーカーのように、ホットドッグを片手に、
摩天楼の間を颯爽と歩いてみるか?
もちろん、歩くはずはない。
僕が歩いているのは、いつもの地味な通勤路である。
手に持っているのも、ホットドッグではなく、
いつもの通勤鞄だった。
格好をつけたかったわけではない。
足が楽だから、というだけでもない。
自分の気持ちが、少しだけ足元に表れた。
そんな感じだった。
会社に着いて、あらためて自分の足元を見た。
そのついでに、周囲の足元も見てみた。
黒いスニーカーで来ているのは、僕だけなのだろうか。
男性社員の中にも、革靴なのかスニーカーなのか、
よく分からない靴を履いている人がいた。
黒くて、見た目は革靴に近い。
靴底は、明らかにスニーカーだった。
女性社員の足元を見れば、
普通にスニーカーを履いている人もいた。
僕が思っていたほど、
会社と革靴は強く結びついていなかったらしい。
自分の中では、少し大きな選択だった。
たぶん、誰も僕の足元に興味はない。
誰からも、何も言われなかった。
それでよかった。
誰かに見せるための変化ではなかった。
家に帰って、玄関の革靴を見た。
もう二度と履かないのだろうか。
いや、冠婚葬祭くらいでは履くかもしれない。
冠婚ならいい。
葬祭のためだけに残しておく革靴というのも、少し悲しい。
僕はまだ会社を辞めていない。
明日も黒いスニーカーを履いて、
いつもの時間に会社へ行く。
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