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私の読書法...みたいな?



並行読書と積読書


移り気な性分が災いしてか、大体5冊程度の本を並行して読むという習慣が私にはある。いわゆる並行読書である。
 
と言っても全部読み切るわけではない。
かなり分厚い本でもあっという間に読み切ってしまう本もあれば、薄くも遅々として頁が進まず、途中で手が止まって何年も放置したままの本もある。
多分、その時点では私にはその本との縁がなかったのだろう。そういう時は、そのまま放置で良いと諦める。いつかまた、気が向いたら読むはずだから。これはいわゆる、積読書(つんどくしょ)というものかな。
そんな読み方でも、「わずかでも目を通した本」は、何かのはずみにある日突然「読むべき本」として旧知の人のように親げに立ち現れたりもすることがあり、これが意外とするする読めたりして「あれ? こんなにわかりやい本だったっけ?」と驚くこともある。
 
どれか一冊読み終えるか、あるいは一冊放置に回すかすると、新たに一冊加えて読み始める。そういうことの繰り返しだ。なので並行して読む本は常に5冊。頭の悪い私にはこれが限界。
 
次に何を読むべきかは、今読んでいる本が教えてくれる。とりあえずそういう本は忘れないうちに買っておく。なので積読の山ができてしまう。蔵書はそんなに多くはないが、時々人に「これ全部読んでいるの?」と聞かれることもあり、そういう時は「いや、ほとんど読んでないな、そいつは読む予定の本だよ」と答えるしかない。
そんな感じで読書をしているが、並行読書と積読書、これは到底綺麗な読書法とは言えず、あまり褒められたものではないな。

本は単独では存在しない

丸谷才一の『思考のレッスン』(文春文庫)を読んでいたら次のようなくだりがあった。

「石川淳さんが朝日新聞から「一冊の本」という題のコラムに原稿を依頼されたことがある。その書き出しが確か、「本来なら一冊の本と云ふことはあり得ない」という文章でした。たくさんの本の中にあって初めて、一冊の本は意味があるのだ、というようなことを書いていらした。
 僕は、その通りだと思うんですね。孤立した一冊の本ではなく「本の世界」というものと向かい合う、その中に入る。本との付き合いは、これが大切なんです。」

(114頁)

これは、本当にその通りだと思う。一冊の本というものは、それだけで孤立して存在するわけではなく、多くの本、多くのテクストという文脈の網目の一結節点にすぎないという見方からすれば、全ての本は一冊の巨大な書物の一部にすぎない。

間テクスト性 そして引用の織物

これについては、哲学者のジュリア・クリステヴァ「いかなるテクストも、さまざまな引用のモザイクとして形成されており、すべてのテクストは他のテクストの吸収であり、変形にほかならない。」(『言葉、対話、小説』セメイオチケ〈1〉記号の解体学 (1983年))と述べていることとそのまま繋がるだろう。いわゆると間テクスト性いうやつだ。

間テクスト性(かんテクストせい)は、テクストの意味を他のテクストとの関連によって見つけ出すことである。テクスト間相互関連性と訳されたり、英語からインターテクスチュアリティーと呼ばれたりすることもある。

ある著者が先行テクストから借用したり変形したりすることや、ある読者がテクストを読み取る際に別のテクストを参照したりすることをいう。但し「間テクスト性」という用語自体、ポスト構造主義ジュリア・クリステヴァが1966年に作り出して以来、何度も借用され、変形されてきた。

批評家ウィリアム・アーウィンが言うように、この用語は使用者によって十人十色の意味を持って今日に至っており、クリステヴァの本来の見方に忠実な者から、単に引喩影響と同義のものとして使う者まで様々である。

出典 wikipedia  項目「間テクスト性」

これに関しては、次のような考え方とも強い関連性があると言える。

「テクストとは多次元の空間であって、そこではさまざまなエクリチュールが結びつき、異議を唱えあい、そのどれもが起源となることはない。テクストとは無数にある文化の中心からやってきた引用の織物である」。

出典 『物語の構造分析』ロラン・バルト

一冊の本は、他の多くの本との関係性において存在する。なので、一冊の本はそのまま巨大な図書館への入り口のようなものであると言える。


電子書籍のリンク機能は、本や読書の本質を示している

稀代の読書家松岡正剛には『千夜千冊』という本を紹介するサイトがあり、そこでは膨大な数の本が紹介されていて、非常に面白いのだが、特に良いのは文中の単語にリンクがかかっていて、その単語に関わる『千夜千冊』の別の記事(当然別の本を紹介している記事)などに飛べるということだ。
まぁ、リンク張りはネットの記事では普通のことであるが、ここでは本と本とを繋ぐネットワークとしてそれがあるので、「ああ、これも一種の間テクスト性というやつの体現だな」と思ったりもする。

『千夜千冊』は紙版でも出版されているが、むしろネットで公開されている(リンク付きの)ものの方が、「孤立した一冊の本ではなく「本の世界」というものと向かい合う、その中に入る。」という本というものの本質、読書の本質を体現しているように思われる。私だけでなく、結構そういう感想を持っている人は多いのではないかな。
紙版の本が衰退しているという危機感はよく語られるが、リンク機能のある電子書籍なら、ものによっては紙版より優れた形態と言えるしれない。

松岡のような博覧強記の超絶読書家とは全く違って、読書経験が貧弱で無知蒙昧な私でも読書中に「あ、この文章はあの本のあの頁の文章につながるな」と思うことはよくある。辿ればその繋がりは無限で、一冊の本は全ての本に繋がっていると言える。

並行読書も積読書も悪くはないな

私の並行読書も、全てがそうでないがやはり何か相互に関連性のある本同士であることも多いので、そこにテクスト間の反映を見ることも多々ある。
また、積読書というのは、本同士が形成している文脈の繋がりをリアルな本を積むという形で現前させる行為であるとも言える。積まれた本は他者が見れば脈絡が無く乱雑に見えるかもしれないが、私にとっては文脈に則して配置しているつもりなので、ちゃんと秩序だっているのである。してみると、並行読書も積読書も悪いものではないな、と思えてくる。

本は読めないものだから心配するな

最後にもう一つ、菅啓次郎の文章を引用して、終わりにしたいと思う。

「本に「冊」という単位はない。とりあえず、これを読書の原則の第一条とする。本は物質的に完結したふりをしているが、だまされるな。ぼくらが読みうるものはテクストだけであり、テクストとは一定の流れであり、流れからは泡が現れては消え、さまざまな夾雑物が沈んでゆく。本を読んで忘れるのはあたりまえなのだ。本とはいわばテクストの流れがぶつかる岩や石か砂か樹の枝や落ちた葉や草の岸辺だ。流れは方向を変え、かすかに新たな成分を得る。問題なのはそのような複数のテクスチュアルな流れの合成であるきみが、自身の生が、どんな反響を発し、どこにむかうかということにつきる。読むことと書くことと生きることはひとつ。それが読書の実用論だ。そしていつか満月の夜、不眠と焦燥に苦しむきみが本を読めないこと読んでも何も残らないことを嘆くはめになったら、このことばを思いだしてくれ。
 本は読めないものだから心配するな。」

出典  『本は読めないものだから心配するな』菅啓次郎 ちくま文庫 頁14

ここに書かれている「テクストの流れ」は、どこから来るのか、もちろんそれは「外部にあるテクスト」から来るものだ。流れ込んできた「複数のテクスチュアルな流れの合成」として一冊の本は生まれ(同時にそれを読むことで読者も変化し)、そしてまた外部へと流れ出していく。

読書というものは、そういうテクストの流れの中に飛び込み、水流に身を揉まれ、そこから何かを掴み取って水面に浮かび上がってくるような「精神の運動」という経験なのだと思う。

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トップの画像は、フェルナン・レジェの『読書』(部分)。