19世紀ギター教本 日本語訳集
19世紀ギター教本 — 原典版 要約・解説
ソル、アグアド、ジュリアーニの教本から読み解く時代の奏法
はじめに
本稿は以下3冊の原典版から、19世紀ギターを現代で演奏する際に重要な知見を抽出・要約したものである。
1. フェルナンド・ソル『ギター教本』(Méthode pour la Guitare, 1830年パリ)
2. ディオニシオ・アグアド『ギター教程』(Escuela de Guitarra, 1825年マドリード)
3. マウロ・ジュリアーニ『ギターのための練習法』(Studio per la Chitarra, 1813年ライプツィヒ)
【第1章】各教本の概要と著者の立場
■ ソル(1778-1839)— 理論家・作曲家としてのギタリスト
ソルは自らを「ギタリスト」ではなく「音楽家」として位置づけた。
和声学と対位法の知識を基盤に、ギターを「和声楽器であると同時に旋律楽器」として扱うことを目指した。
教本の核心は「なぜそうするのか」という推論(raisonnement)にある。
冒頭で「こうすべきだ」ではなく「こうした」と述べ、権威に頼らず経験と理性に基づく方法論を展開している。
■ アグアド(1784-1849)— 体系的教育者
アグアドはソルの音楽的才能を称えつつも、それを演奏するための体系的教程が存在しないことを嘆き、本書を著した。
「ソルフェージュを学ぶ時間のない愛好家」のために、ギター上で音楽理論を実践的に習得できるよう設計している。
構成: 第一部(理論実践編)、第二部(段階的練習)、
和声の説明、練習曲集、表現論、付録(フォッサによる転調規則)。
■ ジュリアーニ(1781-1829)— 実践的ヴィルトゥオーゾ
ジュリアーニの教本はテキストが最小限で、ほぼ全体が楽譜で構成される。
序文で「すでに初歩を身につけた者」に向けた実践的練習と明言。
4部構成: 右手120アルペジオ、左手運指、装飾音、12の段階的練習曲。
理論よりも「弾いて体得せよ」という姿勢が明確。
【第2章】楽器に対する考え方の違い
■ ソルの楽器論 — 音響学的アプローチ
ソルは楽器製作に深く踏み込み、物理学的な分析を展開している:
・響板(table d'harmonie)は薄く軽い木材であるべきだが、弦の張力に
耐えるため内部に力木(barres)を置く。力木が強すぎれば振動を妨げ、弱すぎれば響板が沈む。
・駒(chevalet)の構造について、てこの原理を用いた力学的分析を行い、
1枚板から切り出した台座付き駒を推奨。ロンドンのパノルモ氏に指示して製作させた経験を述べている。
・ネックの形状: 18°以下の弧、フレット部分は平面、糸巻き箱は24-26°の角度をつけるべき。
・弦高: 第6弦側をわずかに高くすべき(左手にはほとんど違いがないが、右手で低音を出す容易さが増す)。
・推奨製作家: マラガのホセ・マルティネス、パリのラコート(Lacote)、ロンドンのパノルモ(Panormo)。
■ アグアドの楽器論 — 実用的な条件
・ギターは「固定された音程を持つ楽器」(instrumento de puntos hechos)
であるため、ソルフェージュの代わりにギター上で音楽理論を学べる。
・弦の保存、ケース使用の重要性を説く。
・演奏場所の条件: 独奏には小さな部屋が最適。
■ ジュリアーニ — 楽器論なし
ジュリアーニは楽器について一切論じず、純粋に奏法のみに集中している。
【第3章】構え方と姿勢 — 3者の比較
■ ソルの姿勢論
ソルの姿勢論は極めて詳細で革新的である:
・原則: 弦の半分(第12フレット)が体の正面に来るべき。
これはピアニストが鍵盤の半ばに正対する原則と同じ。
・右足にギターを載せ、テーブルの角を利用して安定させた(テーブルが第12フレットの角を提供し、右膝からB点を少し離して押し付け、C点をD角上に置く)。
・左手は楽器を支える義務がない(膝とテーブルと右腕の重さで支える)。これが左手の自由度を確保する鍵。
・フランス人・イタリア人の一般的な持ち方(弦が水平)を批判。
この姿勢は右肩を前に出す不快な方法であり、手首に支えがなく、腱が継続的に緊張して痛みを生じると述べている。
■ アグアドの姿勢
・ギター各部の名称を詳述した後、構え方を説明。
・左手の位置と親指の使い方について体系的に解説。
■ ジュリアーニ
・姿勢についての記述なし(初歩を終えた者向けのため)。
【第4章】右手 — 最も重要な技術的相違点
■ ソルの右手論 — 爪を使わない、3本指中心
これは現代のギター演奏と最も異なる点のひとつ:
【爪について】
「爪で演奏するギタリストがいて、その演奏が聴くに堪えるものだった経験は一度もない。彼らはニュアンスをほとんどつけられない。」
ソルは爪を完全に否定し、指頭(肉)のみで演奏する。唯一の例外はオーボエの模倣時に爪の先端を使う場合のみ。
【指の本数】
基本は人差し指・中指・親指の3本。薬指(annulaire)は極力使わない。
「薬指は他のどの指よりも弱い」ため、必要な場合のみ使用。
【指の角度】
・指先が弦と平行な直線を形成し、弦の面に平行であるべき。
・指は弦に対して過度に曲げるべきではない(鉤型は禁止)。
・弦を弾く行為は「手を閉じる」ことではない。
【攻撃の方向】
弦を弾いた後の反応がフレット方向に向かわないよう、指は響板に平行な方向に動くべき。これにより弦がフレットに擦れる雑音を防ぐ。
【親指の動き】
親指は手のひら方向に動かず、他の指と十字を作るように動く。
弦の上を滑らせる際は響板に平行な方向(AB方向)を取る。
■ アグアドの右手論
・体系的な記号体系を確立(p=親指、i=人差し指、m=中指、a=薬指)。
・スラー付き独奏パッセージでは人差し指と中指(または薬指)を交互に用いて「驚くべき速さと明瞭さを達成する」。
ソルはこのアグアドの技法を称賛している。
■ ジュリアーニの右手記号
・Pollice(親指)= ^
・Indice(人差し指)= .
・Medio(中指)= :
・Annulare(薬指)= :
第一部の120アルペジオ練習がすべて右手の組み合わせに集中しており、
ジュリアーニがいかに右手技術を重視していたかがわかる。
【第5章】左手 — 親指の位置という革命
■ ソルの左手論 — 親指をネック裏に置かない
ソルの最も革新的な主張のひとつ:
従来の方法: ほとんどのギタリストがネック前方で親指と人差し指で角を作り、楽器を支えていた(fig.12)。
ソルの問題提起:
・この方法では人差し指が弦に対して垂直に落ちない。
・隣の弦に触れて消音してしまう。
・手全体を移動させなければならず、正確さが失われる。
ソルの解決策:
・親指はネックの幅の半分に対して、指の面に当たる第2フレットの前方に常に置く。
・親指がネックを探すのではなく、「ネックが親指を見つける」。
・親指を下からピアノフォルテのように使い、あらゆるポジションの
変更で手を導く回転軸(pivot)として用いる。
・バレー(セーハ)のために移動する場合を除き、親指をネックに押し付けない。
■ アグアドの左手論
・§39-73で構え方と両手の使い方を詳述。
・ソルほど革新的ではないが、体系的な運指法を確立。
・等音(equísonos)概念: 同じ音を異なる弦・ポジションで出すことの利用法を詳述。
【第6章】音質(Qualité du Son)— ソルの核心的教え
ソルは音質を最も重視し、攻撃位置による音色変化を体系化した:
■ 基本位置(place ordinaire)
駒から弦長の10分の1の距離。やや明瞭で十分に持続した音。
■ より柔らかい音
弦長の8分の1の部分を攻撃。まろやかでより持続する。
■ より強い音
駒のより近くで攻撃。より多くの力を要する。
■ 他の楽器の模倣(ソル独自の技法)
・ホルン: 特定のパッセージで12フレットと駒の間の半ばで攻撃。
・トランペット: 駒近くの高音弦を強く攻撃し、鼻にかかった音を出す。
左手指を音を決定する位置と先行する音との中間に置く。
・オーボエ: 完全に鼻にかかった音。駒に極めて近い位置で、
指を曲げて爪の先端で攻撃する(爪を使う唯一の場面)。
・フルート: ハーモニクスの高さの音を産出することで到達する。
・ハープ: 和音を大きな距離にわたって広がるように構成し、
12フレット目と駒の間の半ばで攻撃。
■ エトゥフェ(sons étouffés)= 消音された音
右手は使わない。左手の指をフレットの弦に近い位置に置いて、通常より弱めに押さえる(ハーモニクスを出さない程度に)。
■ 乾いた音(sons secs)
左手でネックに弦を押さえたまま、音が攻撃された後すぐに弦を離すだけ。親指一本でほとんど気づかないほどのわずかな努力で。
【第7章】和声的思考 — ソルとアグアドの共通点
■ ソルの和声観
「ギターは主に伴奏用と言い、和声楽器に分類しながらも、常に旋律楽器として扱い始める。なぜなら最初のレッスンは常に音階であり、左手の
全ての能力を旋律のための運指に慣れさせるからである。」
ソルは和声学と対位法の知識をギターに適用し:
・3度と6度の運指を体系化(第3部の核心)
・全ての和音を3度と6度の組み合わせに分解
・数字付き低音(basse chiffrée)を見てギターで和声進行を示す体系を確立
・ハイドン「天地創造」の12ページにわたる伴奏分析
■ アグアドの和声論
・第二部で和音の説明を詳述
・音程とその転回(§369-374)
・完全和音とギター上でのポジション(§375-393)
・不協和和音とその位置(§394-416)— 属七、減七、増六の和音
・終止形(§422-426)— 完全終止、不完全終止、回避終止、偽終止
・フォッサ氏による転調規則の付録
【第8章】装飾音と特殊奏法
■ アグアドの装飾音体系
・リガード/スラー(ligados)
・アラストレ/スライド(arrastre)
・アポヤトゥーラ/前打音(apoyatura)
・モルデンテ(mordente)
・トリノ/トリル(trino)
・フェルマータ
・消音
・左手のみの発音(ハンマリング・オン/プリング・オフ)
・タンボーラ
・カンパネーラ
・ハーモニクス3種の演奏法
■ ソルのハーモニクス論
ソルはハーモニクスについて物理学的な探求を行い、各弦の部分音
(parties aliquotes)を体系的に調査した:
第4弦での例:
・第12フレット: 8度(レ)
・第9フレット: 長3度(ファ#)
・第7フレット: 5度の倍(ラ)
・第5フレット: 8度の倍(レ)
・第4フレット: 長3度の倍(ファ#)
・第3フレット少し下: 5度の3倍(ラ)
・第2フレット少し下: 8度の3倍(レ)
「ギターは記譜されたものより1オクターブ低い」ことを忘れてはならない。
【第9章】伴奏の哲学 — 3者の立場
■ ソルの伴奏論
「私は伴奏のためだけに弾く」(Je ne joue que pour accompagner)と言う人を聞いて衝撃を受けた。良い伴奏はまず良い低音を、その楽器に固有の和音を、そしてオーケストラ譜やピアノ曲の動きにできるだけ近い動きを前提とする。
モーツァルト「恋とはどんなものかしら」の伴奏分析、さらにハイドン
「天地創造」の詳細な伴奏分析を通じて、和音の選択、転回形の理由、声部進行の維持を実証している。
■ ジュリアーニのアプローチ
テキストでは語らないが、120のアルペジオパターン(第一部)が伴奏技術の基盤を形成している。あらゆるアルペジオの組み合わせを「弾いて体得する」アプローチ。
【第10章】現代で19世紀ギターを演奏する際のポイント
3冊の教本から読み取れる、19世紀ギター演奏の実践的要点:
1. 爪ではなく指頭で弾いていたこと
ソルは爪奏法を明確に否定。「ニュアンスがつけられない」。
指の肉による柔らかく丸い音が19世紀の理想だが、現代の弦の進化とともに爪での演奏で工夫することも重要。
2. 攻撃位置で音色を変える
駒からの距離で音色を制御するのがソルの方法論の核心。
10分の1(基本)、8分の1(柔)、駒近く(強)、
12フレットと駒の中間(ハープ風)。
3. 右手は基本3本指(親指・人差し指・中指)
薬指は補助的。ソルは4本指の使用を最小限にした。
ただしアグアド流のi-m交互奏法は速いパッセージに有効。
4. 左手の親指はネックを握らない
親指はピボット(回転軸)として機能。ネックに押し付けない。
「ネックが親指を見つける」のであって逆ではない。
5. 楽器を左手で支えない
テーブル・膝・右腕の重さで支える(ソルの方法)。
左手が完全に自由であることが、和声的演奏の前提条件。
6. 和声的思考を持つ
旋律楽器ではなく「和声楽器であると同時に旋律楽器」。
全ての和音を3度と6度に分解して理解する。
数字付き低音を読み、即興的に伴奏できることが目標。
7. 音量より音質を優先する
小さなギターで大きな音を出そうとするな(ソル)。
弦の太さと楽器の大きさのバランスが重要。
「小さなギターにオーケストラの音高を付けるな。
それが優れていようとも、本当のやかんになるだけだ。」
8. 他の楽器の音色を模倣する
ホルン、トランペット、オーボエ、フルート、ハープの音色を攻撃位置と方法で模倣する技法は、19世紀ギターの表現力の幅を示している。
9. レガートの重視
旋律線の滑らかさ、ポジション移動の最小化が目標。
同一弦上でのスライドを活用し、不必要な弦の移動を避ける。
10. 推論(raisonnement)を重んじ、惰性(routine)を何とも思わぬこと
ソルの最終原則。なぜそうするのかを常に問い、慣習に盲目的に従わない姿勢が、この時代の奏法の本質。
【第11章】3者の技術的特徴の比較
ソル アグアド ジュリアーニ
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右手の爪 使わない 記述なし 記述なし
右手の指 基本3本 4本体系化 4本使用
薬指 極力不使用 積極的に使用 使用
親指の位置 ネック裏に 体系的に解説 記述なし
押し付けない
和声の扱い 対位法的 理論的体系 実践的
分析的 教育的 (楽譜で示す)
装飾音 最小限の言及 詳細な分類 第三部で実践
ハーモニクス 物理学的探求 3種の演奏法 記述なし
楽器製作 深く言及 条件を述べる 言及なし
教育哲学 推論重視 段階的体系 弾いて体得
「なぜ」を問う 「どのように」 「繰り返せ」
【第12章】時代背景と各著者の関係
・ソルはアグアドに教本を献呈している(表紙に「閣下D.アグアド殿に謹呈」と記載)。両者はパリで交流があった。
・アグアドは序文でソルの音楽的才能を最大限に称賛しつつ、「彼が教程を書いたかどうか知らない」と述べている(1825年時点で
ソルの教本はまだ出版されていない)。
・アグアドはモレッティ(Moretti)を「ギター音楽を旋律と伴奏に区別して書いた最初の人物」として評価し、ソルをその発展者とした。
・ジュリアーニはウィーンを拠点とし、ソル・アグアドとは別のイタリア楽派の系譜にある。テキストの多言語併記(伊・独・仏)は当時の出版慣行を反映している。
【付録】ソルの12の運指原則(結論より)
ソルは教本の結論で12の原則をまとめている。特に最後の2つが重要:
11°. 指先の線に、弦に平行かフレットに平行かという方向を与える
必要がある場合は、手首のゲームではなく肘の位置の変化に依存させること。
12°. 最後に。推論(raisonnement)を大いに重んじ、
惰性(routine)を何とも思わぬこと。
【参考文献・原典資料】
■ 原典PDF(IMSLP — International Music Score Library Project)
1. フェルナンド・ソル『ギター教本』
Sor, Fernando. Méthode pour la Guitare (Paris, 1830)
https://imslp.org/wiki/M%C3%A9thode_pour_la_guitare_(Sor%2C_Fernando)
IMSLP No.: IMSLP246100
使用版: PMLP58779 — 初版(著者出版、パリ 1830年)
2. ディオニシオ・アグアド『ギター教程』
Aguado, Dionisio. Escuela de Guitarra (Madrid, 1825)
https://imslp.org/wiki/Escuela_de_Guitarra_(Aguado%2C_Dionisio)
IMSLP No.: IMSLP265880
使用版: PMLP82088 — 初版(マドリード 1825年)
3. マウロ・ジュリアーニ『ギターのための練習法』
Giuliani, Mauro. Studio per la Chitarra, Op.1 (Leipzig: Kühnel, 1813)
https://imslp.org/wiki/Studio_per_la_chitarra%2C_Op.1_(Giuliani%2C_Mauro)
IMSLP No.: IMSLP533974
使用版: PMLP58675 — 初版(A.キューネル刊、ライプツィヒ 1813年)
■ 関連文献(教本内で言及される人物・作品)
・モレッティ, フェデリコ (Moretti, Federico): ギター音楽を旋律と伴奏に区別して記譜した最初の人物(アグアドによる)
・ラコート (Lacote, René): パリの製作家、ソル推奨
・パノルモ (Panormo, Louis): ロンドンの製作家、ソル推奨
・ホセ・マルティネス (José Martínez): マラガの製作家、ソル推奨
・フォッサ, フランシスコ・デ (Fossa, François de): アグアド教本の
転調規則付録を執筆
・ピサドール (Pisador, Diego): 『ビウエラのためのタブラチュア譜集』
(サラマンカ、1552年)— アグアドが序文で引用
■ 教本内で分析される楽曲
・ハイドン『天地創造』(Die Schöpfung) — ソルが12ページにわたり
伴奏分析を展開
・モーツァルト『恋とはどんなものかしら』(Voi che sapete, Le nozze di Figaro) — ソルの伴奏分析
■ 推奨参考文献(現代の研究)
・Jeffery, Brian. "Fernando Sor: Composer and Guitarist" (Tecla Editions)
・Heck, Thomas F. "Mauro Giuliani: Virtuoso Guitarist and Composer"
(Editions Orphée)
・Suárez-Pajares, Javier. "Aguado" (entries in Grove Music Online)
・Sparks, Paul. "The Classical Guitar: Its Evolution, Players and
Personalities Since 1800" (Ashley Mark Publishing)
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