「二十世紀梨」松戸・鳥取を結んだ人間史
はじめに 〜梨の歴史を、人から読む〜
千葉県松戸市は、二十世紀梨の発祥地である。この史実は、年表なら一行で済む。明治21年(1888)、13歳の松戸覚之助が一本の梨の実生苗を見つけ、それを育てたところ優れた果実を結び、やがて「二十世紀」と名付けられた。その苗木が鳥取へ渡り、同県を代表する大産業へ成長した。
だが、この簡潔な要約では、歴史の行間に潜む重要な問いが抜け落ちてしまう。
なぜ松戸で梨だったのか。
覚之助の家は、なぜ名もない一本の苗を捨てずに育てたのか。
鳥取の北脇永治は、なぜまだ世に出たばかりの梨に金を払い、10本もの苗木を買ったのか。
病害に苦しみながら、なぜ鳥取の人々は二十世紀梨を諦めなかったのか。
そして、なぜ松戸生まれの梨が「鳥取の梨」として全国に知られるまでになったのか。
梨は、自ら旅をしない。
梨の背後にいた人間を追ってみると、一本の果樹の歴史から、江戸の市場経済、近代農業の試行錯誤、植物病理学、共同販売、そして鉄道物流の興亡が見えてくる。
これは果樹の変遷史であり、同時に、梨という商品に賭けた人間たちの物語である。
1. 善六 〜江戸市場を見据えた男〜
松戸の梨の物語は、覚之助の登場より百年以上前へ遡る。
江戸時代中期、下総国八幡(現在の千葉県市川市)で梨栽培を始めた人物として、川上善六の名が伝わる。
伝承によれば、善六は明和7年(1770)ごろから梨栽培に取り組み、寛政年間には先進地であった美濃・尾張へ赴いて技術を学び、優良な穂木を持ち帰ったとされる。当時の美濃が大垣周辺を中心に梨の有力産地であったことは古文書からも確認できる。
重要なのは、個人の英傑伝としてではなく、「善六がなぜ梨を選んだか」という経済的な背景である。
18世紀後半の江戸は巨大な消費都市へと成熟していた。食べ物は単に腹を満たすものではなく、季節や嗜好を楽しむ商品になりつつあった。安永・天明期に土用の丑の日に鰻を食べる習慣が定着したように、江戸の胃袋は新しくうまいものを常に求めていた。その需要に応えることは、近郊農村にとって有望な現金収入源となった。
八幡は江戸に近く、江戸川や行徳の水運、陸上の街道網が交差する物流の要衝だった。善六の行動の根底にあったのは、単なる農業への探究心だけではなく、成熟する巨大市場を見据えた農民としての合理的な計算であったと見るのが自然である。
善六は梨を発見したのではない。
梨を「商売になる作物」として選び取った。
その選択が、東葛飾に梨産業の種を播いた。
2. 街道と農家がつないだ技術の網
善六以後、梨栽培は八幡から周辺へ広がっていった。市川、鎌ヶ谷、松戸、白井。
ただし、一人の指導者が順に技術を伝授していったような単純な系譜が存在するわけではない。農村社会における人の往来――婚姻、奉公、苗木の分譲、接ぎ木技術の交換を通じて、梨栽培は面として広がっていった。
特に鎌ヶ谷周辺は、八幡から内陸へ進んだ交通の結節点にあたり、白井・木下方面と松戸方面への道が交差する。鮮魚を利根川方面から江戸へ急送する物流網が既に存在していた地域である。人の流れに伴い、果樹栽培のノウハウや苗木が移動するのは当然の帰結だった。
19世紀後半を迎える頃には、東葛飾一帯に、梨を商品として生産し出荷するための技術的基盤と流通環境が整っていた。
3. 拾われた一本の木
その松戸で、梨園「錦果園」を立ち上げたのが覚之助の父・松戸伊左衛門である。明治10年代後半、伊左衛門は大橋村で梨栽培を開始した。松戸家は代々の梨農家ではなく、新しい商品作物としての梨に可能性を見出し、後発で参入した農家だった。
覚之助は、父が新業態として梨園を開拓し、木を植え、売り先を模索する環境の中で育った。
明治21年(1888)、13歳の覚之助は親類宅のゴミ捨て場近くに生えていた一本の実生苗を持ち帰ったとされる。
13歳の少年が「歴史的名品になる」と見抜いたと解釈するのは、出来過ぎた物語だろう。
むしろ、日頃から父の梨園で苗木や接ぎ木に接していた環境があったからこそ、放置された若い苗木を「自分の園に植えて試してみよう」という発想が自然に生まれたと考えられる。
覚之助の真の功績は、天才的な直感ではない。
出所のわからない一本の不確定な苗木を園に植え、観察し続けた現場の泥臭い姿勢にある。
4. 10年後に分かった「当たり」
果樹の実生は、親と同じ形質を継ぐとは限らない。種から育てた梨が商品価値を持つ保証はどこにもなかった。
錦果園に植えられた苗木が実を結ぶまでには、約10年の歳月を要した。明治31年(1898)ごろ、23歳になった覚之助の前で、その木は初めて実をつけた。
果皮は淡い緑色。果肉は白く、果汁が豊富で、爽やかな甘味と酸味を備えていた。
ここで初めて、一株の実生苗に明らかな商品価値が確認された。
松戸家は接ぎ木による増殖を開始し、明治37年(1904)、「二十世紀」と命名された。
しかし、二十世紀は果皮に厚いコルク層を持たない「青梨」であり、美しさと引き換えに非常に繊細だった。
さらに、この品種は遺伝的に「黒斑病にきわめて弱い」という致命的な弱点を抱えていた。
5. 北脇永治 〜十本を買った男〜
命名と同じ1904年。
鳥取県の果樹農家・北脇永治(当時26歳)が、松戸の錦果園から二十世紀の苗木10本を購入した。
覚之助が「偶発実生を育種した者」であるなら、北脇は「事業として選択した者」だった。
北脇はすでに果樹栽培を手がけており、新品種の情報をいち早くキャッチして投資に踏み切った。1本だけの道楽でもなく、全財産を賭けた大量購入でもない「10本」という数字は、自身の園地で栽培特性と市場性を見極めるための、極めて堅実な試作規模だったといえる。
当時の鳥取農業の主軸は米であり、養蚕などが副業だった。果樹は植えてから収益化まで数年を要する。北脇にはそれを支える経営基盤があったが、地域全体へ普及させるには「本当に食える作物なのか」という農家たちのシビアな計算をクリアしなければならなかった。
北脇の課題は、個人の栽培成功から「地域の産地化」へと移行していく。
6. 黒斑病 〜うまいが、弱い〜
二十世紀が他地域へ普及するにつれて、黒斑病の被害が甚大化していった。
アルタナリア属の糸状菌によるこの病害は、葉や幼果に黒斑を生じさせ、果実を裂果させて収穫を無に帰せしめた。
1910年代から1920年代にかけ、導入した各地の産地は激しい被害に見舞われた。さらに1920年代前半の風害や干ばつが追い打ちをかける。
手間がかかり病気に弱い二十世紀を諦め、他の安定的品種へ転換したり、樹木を伐採したりすることは、経営者として極めて合理的な判断だった。
ここで北脇の役割は、単なる栽培農家から「地域産業の防衛者」へと変わる。
7. 卜藏梅之丞 〜科学による防除〜
黒斑病という難敵に対し、科学の側からアプローチしたのが植物病理学者・卜藏梅之丞である。
鳥取県出身で東京帝国大学農科大学を修めた卜藏は、農商務省農事試験場で病原菌の生態解明に取り組んだ。
卜藏らは、感染時期の特定、ボルドー液などの薬剤散布タイミング、病果・病枝の徹底除去、さらには有孔袋を用いた袋掛け技術など、体系的な防除体系を構築した。
だが、病原菌は個々の農家の境界線を考慮しない。
一軒が徹底防除を行っても、隣園から胞子が飛来すれば意味をなさない。地域一体となった取り組みが不可欠だった。
北脇は防除組合を組織し、行政や農家を巻き込んで県下一斉防除の仕組みを作り上げた。
卜藏が科学的処方箋を示し、北脇が組織の形を与え、現場の農家が果実一つひとつに袋を掛ける作業を完遂した。
二十世紀梨が病気に強くなったわけではない。
人間側が体制を構築することで、弱い品種を守り切る術を獲得したのである。
8. 制度が生んだ「鳥取のブランド」
防除体制の確立と並行して、北脇は流通改革に着手した。
大正14年(1925)、鳥取県梨共同販売所が設立され、北脇が初代所長に就任した。全国主要都市に指定店を配置し、市場への出荷量をコントロールする統一販売網を構築した。
防除における「個々の自己流を廃し、一斉に行う」思想は、販売における「個々の乱売を廃し、共同で売る」思想と完全に同調していた。
共同販売を成立させるには、品質の均一化が絶対条件となる。
厳格な選果、荷造り規格の統一、肥培管理の標準化。
その徹底した品質管理の積み重ねが、「個々の農家の梨」ではなく「鳥取の二十世紀」という地域ブランドの信用を市場に確立させた。
松戸が生んだ品種は、鳥取の組織力によって巨大な産業へと昇華した。
9. 品種全盛期と生産絶頂期の二つのピーク
1920年代半ばから、日本梨の作付動向に大きな変化が生じた。
それまで市場を圧倒していた「長十郎」に対し、二十世紀の作付面積と市場需要が急増する。
園芸学上の品種史において、1925年頃から1965年頃までの約40年間は「二十世紀全盛時代」と定義される。これは日本梨全体の作付面積や品種構成において、二十世紀が絶対的な主役であった時代を指す。
一方で、産地としての鳥取が「出荷量・金額における最大の絶頂期」を迎えたのは、この品種全盛期が過ぎたあとの1980年代後半である。
1965年以降、作付シェアとしての「全盛期」は後述する新興品種に譲っていくものの、鳥取県における生産・流通体制は極限まで高度化し、1980年代には年間出荷量約500万ケース、販売額約170億円という圧倒的な規模に達した。
1987年には世界16か国へ輸出されるなど、産業的ピークはこの時代に結実したのである。
10. 鉄道物流が広げた全国市場
戦後、鳥取二十世紀の巨大な生産量を支えたのが、日本国有鉄道(国鉄)の物流網だった。
収穫期を迎えると、共同選果場から規格ごとに箱詰めされた梨が、鳥取駅や松崎駅などの主要駅へ大量に運び込まれた。国鉄は収穫に合わせて専用貨車や荷物車を配車する特別増強体制を敷いた。
1974年には松崎駅に隣接して当時東洋一と称された大型選果場が完成し、ピーク時には1日数百トンの梨が貨車に積み込まれた。
近郊産地の長十郎が強固な地盤を持っていた首都圏市場に対しても、国鉄の長距離大量輸送網を活用した鳥取産二十世紀は確実なシェアを食い込んでいった。
江戸時代に善六が水運と街道の先に江戸市場を見たように、昭和の鳥取農民は鉄路の先に全国の消費地を見出していた。
11. 嗜好の変化と物流の転換
しかし1960年代後半から、品種・物流の両面で構造変化が始まる。
第一の変化は、黒斑病抵抗性を持ち、より甘味の強い「幸水」「豊水」といった赤梨系育成品種の台頭である。
消費者の嗜好が爽やかな酸味から強い甘味へとシフトするにつれ、栽培に多大な労力を要する二十世紀は作付シェアを減らしていった。品種としての全盛期はこの時期に幕を下ろす。
第二の変化は、モータリゼーションによる物流構造の変容である。
高速道路網の発達とトラック輸送の台頭は、駅への搬入と貨車への積み替えを要する鉄道輸送の優位性を崩していった。トラックなら選果場から全国の卸売市場へ直接、短時間で搬送できるからである。
1986年11月、松崎駅からの梨の鉄道発送が終了した。
翌1987年には日本国有鉄道が分割民営化され、長年続いていた鉄道による果物輸送の一時代が完結した。
12. それでも消えなかった理由
幸水・豊水の台頭、農家の高齢化、物流の転換を経て二十世紀の栽培面積は減少に転じた。
しかし、この品種は市場から淘汰されなかった。
病害に対する弱さを根本から克服するため、放射線照射による突然変異を利用して黒斑病耐性を持たせた「ゴールド二十世紀」などの品種改良が推進された。
かつて人間は、防除という「外側の仕組み」によって二十世紀を守った。
今度は品種そのものの性質を変えることで、その弱点を内側から克服しようとしたのである。
人間は防除技術だけでなく、遺伝子のレベルにおいてもこの梨を維持しようと試みた。
偶然発見された一本の実生苗が、百年の時を超えて作られ続けた理由は何か。
手間がかかり病気に弱いという欠点を補って余りある食味の良さと、それを守り育てるための技術・組織・流通のシステムが地域に深く根付いていたからにほかならない。
13. 里帰り
2024年、鳥取県から千葉県松戸市の「21世紀の森と広場」へ、二十世紀梨の苗木が寄贈され植樹された。
1904年に北脇永治が松戸から10本の苗木を持ち帰ってから、120年の歳月が流れていた。
松戸で生まれ、鳥取へ渡り、科学者と農民の組織化によって病害を克服し、鉄道網に乗って全国の市場を席巻した梨の系譜が、再び生誕の地へと接続された瞬間だった。
おわりに 〜近代化を駆け抜けた果樹と人間〜
年表の記述に従えば、この歴史はごく簡潔にまとまる。
川上善六が基盤を作り、松戸覚之助が二十世紀を発見し、北脇永治と卜藏梅之丞が鳥取で産業化させた。
しかし、そのプロセスを精査すると、そこには単なる農業史にとどまらない近代日本の歩みが凝縮されている。
江戸の都市市場の成立、街道と水運による技術伝播、農家のリスクテイキング、植物病理学の導入、共同販売による産地ブランドの確立、そして国鉄網による全国物流。
梨は自ら動かない。
人間が市場価値を見出し、病から守り、仕組みを作り、運んだからこそ、一本の苗木は巨大な地域産業へと結実した。
二十世紀梨が歩んだ軌跡は、日本の果樹農業が近代化を成し遂げていったプロセスの縮図そのものである。
了。
主要参考文献・資料
* 松戸市「二十世紀梨発祥の地」ほか二十世紀梨・松戸覚之助関係資料。
* 松戸市観光協会「松戸と鳥取を結ぶ二十世紀梨」等。
* 市川市「市川の梨」「川上善六」関係郷土資料。
* 『大垣市史 資料編 近世』所収、梨子棚売渡証文関係資料。
* 青山白峯『明和誌』(『鼠璞十種』所収)。
* 農林水産・食品産業技術振興協会(JATAFF)「ごみ溜めから生まれた『二十世紀』ナシ」「二十世紀ナシ黒斑病との闘い」等。
* 鳥取二十世紀梨記念館(なしっこ館)「鳥取二十世紀梨ものがたり」等。
* 『鳥取二十世紀梨沿革史』。
* 鳥取県、二十世紀梨栽培史・梨栽培用具・生産流通関係資料。
* 鳥取県立図書館、北脇永治・卜藏梅之丞関係郷土人物資料。
* 農研機構(NARO)、二十世紀・幸水・豊水・ゴールド二十世紀および黒斑病抵抗性に関する研究資料。
* 日本園芸学会関係論文、日本梨の品種変遷・栽培史に関する研究。
* 東京都中央卸売市場関係資料、日本梨の市場流通・品種構成に関する資料。
* 日本国有鉄道『国鉄線』所収、二十世紀梨輸送関係記事。
* 松崎駅・山陰本線における二十世紀梨鉄道輸送、共同選果場および国鉄末期の梨輸送に関する地域鉄道史資料。
* 松戸市「21世紀の森と広場」整備史・名称由来資料、および2024年二十世紀梨里帰り植樹関係資料。
