「あらすじ化」する世界を生きている。AI要約がもたらす逆転現象
最近、「現代人は長文の本が読めなくなっている」といった話題を耳にすることがある。
そんな時代背景もあってか、AIの進化によってあらゆる情報が「要約」されて提示される仕組みが、私たちの生活に急速に浸透してきているように感じる。
長文の記事から長時間の動画、さらには元々そこまで長くない文章でさえも、AIがさらに短く抽出し、私たちはその「あらすじ(要点)」だけを拾い読みするようになりつつある。
確かに、この仕組みによって私たちは膨大な情報に網羅的に触れることができ、情報処理のスピードは格段に上がったと言えるだろう。
しかし、世の中のあらゆるものが「あらすじ化」していくこの流れの中で、ふと考えてしまう。
情報進化の「逆転現象」が起きていないだろうか
これまで、情報を伝達するテクノロジーは「いかに情報量を増やすか」という方向に進化してきた歴史がある。
かつては通信制限があり、文字でしか伝えられなかった情報に画像がつくようになり、やがてブロードバンドの普及とともに動画へとシフトしていった。
動画は文章の何十倍、何百倍もの情報量を一度に届けられるため、「より豊かで分かりやすい伝達手段だ」と言われてきたはずだ。
ところが今、どうだろうか。
せっかくテクノロジーを駆使してリッチになった動画や長文のコンテンツを、私たちは再びAIにかけてテキストの箇条書きに「圧縮」し、何百倍もあったはずの情報量を自ら削ぎ落として消費している。
これまで必死に増やしてきた情報を、再び小さく畳み直しているという、奇妙な「逆転現象」が起きているのではないだろうか。
「要約」とは、情報の「欠落」である
物事を要約してあらすじ化することは、一番伝えたいメッセージを際立たせる効果があるかもしれない。
しかしそれは同時に、「情報が欠落している」ということと同義でもある。
例えば、映画や小説を思い浮かべてみてほしい。
その作品としての独自の魅力や機微は、作品のメインアイデア以外にも、キャラクターの台詞を一つひとつや描写に宿っているのではないか。
物語の本当の魅力や伝えたいニュアンスは、あらすじの「外側」にあるのではないか。
起承転結の「あらすじ」だけを読んだとき、果たしてその作品の背景や、登場人物の微細な感情の揺れ動きまで「すべて理解した」と言えるのだろうか。
要約された情報だけを摂取することは、本来知るべきだった大切な背景や行間を、気づかないうちに失い続けている状態と言えるのかもしれない。
本当に伝えたかった「精度」は担保できるのか
もちろん、忙しい現代において、AIの要約機能は手放せないほど便利なツールであることに間違いはない。
ただ、あらゆる情報が圧縮され、コンパクトな文字情報へと逆戻りしていく世界の中で、「発信者が本当に伝えたかった理由」や「繊細なニュアンスの精度」は、果たしてどこまで担保されるのだろうか。
効率とタイパを追い求めて「あらすじ」だけをなぞるようになった私たちが、情報の欠落にどう向き合い、本当に大切なメッセージをどうやって受け取っていくのか。
それは、AI時代を生きる私たちが直面する、新しいコミュニケーションの課題になっていくような気がしている。
