わが心の近代建築Vol.70 瀬田四丁目広場 旧小坂緑地/東京都世田谷区
みなさん、こんにちわ!!
最近は、湘南の海浜別荘ばかり記載していましたが、今回は久々、東京都より、世田谷区に遺された瀬田四丁目公園について記載しますが、この邸宅は、元衆議院議員の小坂順三氏が別荘建築として設け、戦時中に自宅として活用したものですが、世田谷区に寄贈。
かつて二子玉川界隈が別荘建築として利用された際に作られた邸宅で現存する数少ない遺構になっています。
≪二子玉川の歴史≫
Ⅰ:別荘地としての二子玉川
現在は高級住宅地として名高い二子玉川界隈はもともと、江戸期より鮎の名産地として知られ、多摩川でつられた鮎は徳川将軍家にも献上。
明治後期には10数件の料亭/旅館があり、1927年には三業地に指定され繁華街として発展、1933〜35年ごろが最盛期だったと言われ、太平洋戦争勃発で廃れていきました。

三井トラスト不動産 このまちアーカイブスINDEX
東京都 三軒茶屋・二子玉川「行楽地となった二男玉川」より転載
Ⅱ:「玉電」の招致プロジェクト
当時、砧~二子玉川~渋谷を走った玉電は、乗客誘致のため1909年に「玉川遊園地」を開園。
庭園や遊具を整備し、動物なども飼育され、「玉川閣」という演舞場が瀬田玉川神社の南側の国分寺崖線の斜面に造られ、1932年には園内に身延山別院の誘致にも成功しました。

三井トラスト不動産 このまちアーカイブスINDEX
東京都 三軒茶屋・二子玉川「行楽地となった二男玉川」より転載
Ⅲ:戦後の状況
1922年には「玉川停留所」(現・二子玉川駅)の南東側に「玉川児童園」を開園させ、1939年に読売新聞社と提携して「よみうり遊園」となりましたが、戦争を理由に1944年に閉館。
1954年に「よみうり遊園」があった場所には東急不動産が「二子玉川園」を開園しました。

Ⅳ:大型商業施設、そして高級住宅地へ
また、1965年前後の二子玉川園駅の高架橋化工事の写真を見ると、現在の状況と大幅に異なり、周りには緑が目立つなど、まだ、この界隈は別荘地としての様相を遺す状況でした。

今まで別荘地/景観地として名を馳せた二子玉川園の状況が大きく変わったのは1969年開業の玉川高島屋開業。
これにより、商業地域として大きく流れを変え、今まで別荘地だった場所も、住宅化がなされ、1985年に廃業した二子玉川園も、ナムコワンダーランドから二子玉川ライズに変わり、今日の高級住宅地として変容していきました。

≪施主 小坂順三≫
次に、瀬田四丁目広場(旧小坂順三邸)の施主、小坂順三(1881~1960)について記載すると、長野県長野市に衆議院議員などを務める小坂善之助の家に生まれます。

【瀬田四丁目広場 旧小坂順三邸展示パネルより転載】
1904年に東京高等商業学校(現・一橋大学)卒業ののち、日本銀行へ入行。
1908年には退職ののち信濃銀行(現・みずほ銀行)取締役などを歴任したのち、1912年に政界進出。
1929年に拓務省政務次官、1946年に枢密院顧問官を歴任し、1960年に、この寝室で亡くなります。

≪邸宅の歴史≫
なお設計には、近代日本の建築界に大きな足跡を残した名棟梁 清水喜助の流れをくむ清水組(現・清水建設)が担当し1937年に竣工。
もともとは、小坂順三はここを別邸としていましたが、金王の本邸が空襲により焼失した際、こちらに疎開し移住。
かつて庭園にあった茶室には、東京空襲の難を逃れた横山大観も疎開していました。
1996年に世田谷区が土地を購入し・建物は小坂家より寄贈。
そののち、改修工事を経て一般公開され、1999年には先日記載した成城の旧山田邸と同様、世田谷区有形文化財に指定され、ボランティアの方で公開されています。
≪建物メモ≫
瀬田四丁目広場 旧小坂緑地
●設計者:清水組
●竣工年:1937年
●文化財指定:世田谷区指定有形文化財
●入館料:無料
●写真撮影:可
●参考文献:
・ 三井トラスト不動産 このまちアーカイブスINDEX
東京都 三軒茶屋・二子玉川「行楽地となった二子玉川」
・一般財団法人 世田谷トラストまちづくり著「ようこそ瀬田四丁目広場 旧小坂緑地」
・小坂順三氏に関してはWikipediaを参照
●留意点:
この邸宅に関しては、様々な見どころがあり、ぜひともボランティア・ガイドさんの説明を受けられることを強く薦めます
≪平面図≫
邸宅の平面図を見ると、伝統的な和風建築同様、主屋部分を中心にして、茶室部分、寝室部分と雁行型に並んでいます。
なお、2階の子息室に関しては、現在は非公開になっています。

【せたがやトラスト協会HPより転載】
≪正門部分≫
瀬田四丁目緑地 旧小坂緑地は、国分寺崖線を活かした小高い坂の上に立ち、呑川を上に上がると、正門が見え、ここから邸宅に入ります。
なお、この門も竣工当時からのものになり、別荘建築という事もあり、質素なものになります。

≪主屋部分≫
Ⅰ:主屋外観
屋根などどこか茅葺風の古民家的意匠になりますが、屋根の高さは6寸5分のきつい勾配になっています。ここが別邸建築であったことから、小坂順三氏は設計時、生まれ故郷の長野に思いを馳せていたのではないかと思われます。

Ⅱ:玄関部分
土間部分も古民家を思わせる造りになります。
天井をあえて張らず、和組みの梁や柱をあえて見せていますが、これらは、奥多摩にある古民家の名主屋敷より譲り受けたものを使用しています。

Ⅱ:電話室と呼び鈴部分
また、主屋玄関に戻り、茶の間裏側を見ると、左側の壁上部には、邸宅各室から使用人の方を呼ぶベルが備えてあり、右側の扉は電話室を備えています。
当時の邸宅では、電話は限られた人たちに使われ、電話室が置かれました。

Ⅲ:茶の間
こちらは、居間の「次の間」に当たる部分で、10畳間からなり、欄間は桐の1枚板に「三五の桐」の透かし欄間が描かれており、「居間」と「茶の間」の2間が迎賓の場になってもよいように設えています。

Ⅳ:茶の間
居間こちらは、「茶の間」同様に天井は竿縁天井になり、竿縁には猿頬(さるぼお)という、面取りがされています。また、床柱は杉の面皮柱を使用。床の間には、邸宅の棟札が掲げられています。

Ⅴ:入側部分
ここからは、竣工当時は邸宅の木々も大きくなく、周囲に高い建物もなかったことから、国分寺崖線からの多摩川の景観を愉しむことができました。なお、縁桁(えんげた)は現在では入手困難な10.8mの京都北山杉の絞り丸太を使用しています。

Ⅵ:濡れ縁
現在は、木々も生い茂ってしまったため、国分寺崖線からの多摩川を見る事ができませんが、現在でも、この部分からは月を愉しむことができ、小坂順三は、この部分に腰かけて、月光浴をしました。

Ⅶ:茶室
茶室部分は玄関からも直接向かう事ができ、いわば応接間的にも利用されました。
天井部分は、ガマの茎で編んだものに竿縁には、竹を使用し、桁(げた)にはヒノキの丸太を採用。
また、略式の床の間とした織部床(おりべどこ)にしています。

≪書斎棟≫
Ⅰ:水屋
まず、主屋と書斎棟部部を繋ぐところには水屋を備えてあり、先述の茶室の茶道具などをこちらで用意。
天井部分の竿縁には自然木を使用し、水屋部分の扉は1枚板という、非常に凝ったデザインになりますが、左側の柱は八角形に設えている、大変珍しい意匠になっています。

Ⅱ:洗面所部分
洗面所部分も隣が書斎(来賓用の部屋)であったため、天井は水屋部分同様、竿縁には自然木を使用。
洗面器こそ現代的になっているものの、腰板と床部分には、当時、貴重だった布目タイルを使用しています。
なお、柾目の扉奥は厠になりますが、そちらも床、腰板、天井部分は同じ材を使用しています。

Ⅲ:書斎
こちらの部屋はこの邸宅で一番税の凝らした部屋となり、書斎以外にも親しい方を招いたりしたと言われています。
まず、壁部分は壁部分は「なた削り」という手法の荒々しい模様がみられ、天井の化粧梁には自然木を使用したイギリスの田園住宅の趣き。
照明部分は、他の邸宅と同じく、世田谷区で解体される屋敷のものを採用しており、床部分はヘンリボーンになり、腰板には手斧削りのデザインになっています。

また、暖炉部分は装飾的な意味合いのもので、座った際に床の間風に見えるようになっています。
また、真ん中部分の窪み部分に自身のコレクションの仏像などを展示して来訪者の方と愉しんだことが伝えられています。(小坂順造は国宝級の仏像を3体持っていましたが、現在は所有不明になっています)

また、出入り口部分の隣の下部にはラジエーターが埋められ、上部の少女を開けると、本棚ではなく仏壇風になっていますが、小坂順造は、早逝された息子さんの位牌をここに祀って供養されたとのことです。

≪廊下部分≫
Ⅰ:厠部分(洗面所)
邸宅側の厠部分は右側に手水鉢を備え、左側には小便器、そして扉の奥に大便器を備えています。
現在は使用不可になっておりますが軒桁には、絞り丸太を使用し、天井板には、柾目板を使用するなど、凝った造りになっています

Ⅱ:浴室洗面所
浴室前の洗面所を見ると、天井部分は竿縁天井で、天井板には柾目板を並べ、流しは銅版で下の引き戸部分は網代が組んであります。
また、こちらの軒桁にも絞り丸太を使用しています。

Ⅲ:浴室部分
浴室は浴槽こそ現代的になっていますが、竣工時はヒノキ風呂。
また、天井部分は水滴対策のため、舟底天井にし、上部には通風孔を設け、梁部分には絞り丸太を利用。
また、腰板と床面はタイル張りにしています

Ⅳ:内蔵部分
内蔵は鉄筋コンクリート製の2階建て。扉は強固な鉄製の防火扉になっています。
先述のように、小坂順造は古美術コレクターとしても高名で、蔵内部に、コレクションが保存されていましたが、品評会が廊下で行えるよう、広くとられています。
また、冷蔵庫は、ジェネラルモータ―製。

≪生活棟部分≫
Ⅰ:広間
生活棟の中心にあたる部分で、各部屋の動線の通路にあわせた場所になります。
なお、2階部分は子息居室になりますが、現在は非公開になっています。また、階段部分の手摺子は玉形の装飾が付けられています。

Ⅱ:寝室
今までの室内と違い、寝室は洋間となります。
約9坪の室内で、天井部分は漆喰仕上げで、モールディング加工が設えています。
また、随所に施主 小坂順三氏のこだわりを感じさせられる室内になっています

シャンデリアは、重量がかからないように、竹ひごで組んだものの上に真鍮を塗ったものになっています。
また、メダリオンにおいても白漆喰で作られたものになります。

寝室部分の暖炉は、小坂順三氏のレリーフが描かれており、暖炉は琉球トラバーチン製。
また、こちらの暖炉に関しても、書斎同様、当時の建築の流れをくむ、装飾的なもので、暖炉部分にストーブを置いて活用しました。

Ⅲ:サンルーム部分
この部屋で朝、小坂順三氏は邸宅からの多摩川と、富士山の景観をコーヒーを飲みながら、新聞を読むなどして楽しんだことが伝えられています。
また、天井は白漆喰塗で、細い化粧梁が張っています。

Ⅳ:洗面室
洗面室は、邸宅の動線に基づいた場所にあり、小坂順三夫妻は、それぞれが身繕いをして、朝を迎えました。また、この流し部分は、当時流行した、人造洗い出し石製になっています。
温風ヒーターが設けられていて、冬の寒さ対策がなされています。

Ⅴ:更衣室部分:
洗面室で朝の身繕いをしたのち、更衣室で身支度を整えられるようになっており、動線に配した造りになっています。
また、天袋下のレールなど、生活に配慮された室内になっています。

≪庭園部分≫
瀬田四丁目広場 旧小坂緑地部分を平面図で臨むと、邸宅部分よりも、庭園部分が極めて広く、この邸宅が、国分寺崖線の高低差を活かして建てられており、かつての玉川界隈の状況を伺い知っることができます。

下の写真の空いている土地部分は、かつて茶室がありましたが、こちらには横山大観が疎開をし、その翌日に東京大空襲があり、難を逃れることができました。
横山大観は、そこから3か月ここで疎開をし、浴室などを小坂順三邸で借りたことが伝えられています。

邸宅には、裏門から行くことができ、裏門から登ると、国分寺崖線の状況を愉しむことができます。

≪編集後記≫
自身も世田谷区に長くおりましたが、この邸宅に関しては、近代建築を追うまで全くの未知で、近代建築を追い始め、最初期にこの邸宅を知りました。
他の東京都の和館に比べ、比較的小粒ではありますが、見ごたえなどは、都内第一級の邸宅になると感じます。
