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「終電」の中の人生劇場

「千の点描」短編小説群 (第一一三)

大阪の職場から、京都の自宅に戻る時に乗っていた電車は、いつも最終電車かその一つ手前の電車だった。少しでも早く帰宅できればとは思うのだが、私は零細企業の経営者なので、当時の景気の悪さと事業環境の中では、身を粉にして働くしかなく、どうして帰宅は遅くならざるを得なかった。京都から大阪への通勤には、JR、阪急電車、京阪電車の三つのルートがあった。京阪電車の「出町柳駅」近くの私の自宅と、「北浜駅」にある会社との関係でいえば、京阪電車が一番便利だ。しかし私の場合は、会社にいることが少なく、出勤の際は朝一番で訪問する得意先のことを考えて電車を選び、帰宅でも最後にいた場所からの最寄り駅を前提に考えることが多い。つまりは行き帰りのルートが日替りで変わることになる。

阪急電車や京阪電車の最終電車はいつも乗客で一杯だったが、それに比べるとJRの最終電車は、一番遅くまで運行していることもあって、乗客で一杯ということは珍しく、座席に座って帰宅できる可能性が一番高かった。最終電車には、同僚と遅くまで酒を飲んでいて、何とか最終電車に間に合ったという感じのサラリーマンもいるにはいたが、普段の通勤や通学の時間帯と違って、社会の周縁部で生計を立てている乗客が多かったような気がする。社会の周縁部で働いている人々とは、私の勝手な造語と分類だが、毎日朝の八時や九時から夕方の五時、六時まで働いている給与所得者のような生き方の人ではない。つまり、標準的な労働時間帯以外の時間に仕事をする人のことだ。それは、主として夜に営業する飲食店に勤務する従業員やホステス、あるいは横文字職業と呼ばれるデザイナーやコピーライターなどのクリエータ、夜間にビルの清掃や警備に従事する人、昼夜二交代、三交代のシフトで働く工場労働者などだった。
 
闇を背景とした暗い車窓には、疲れ果てた心と体を座席に沈み込ませている乗客の姿が映し出されていた。電車の車輪が線路の継ぎ目を踏むたびに立てるゴトンゴトンという音が規則正しいリズムを刻み、その微かな揺れが増幅して、乗客の頭部をゆっくりと揺らしていた。その日の仕事を無事にこなして安堵している者も、上司から激しい叱責を受けて打ち沈んでいる者もいるに違いない。最終電車の私のいた車両は、全員が座席に座っていて、吊革につかまっている人はいない。七人掛け程度の幅の座席に、三人から四人が座っているくらいの割合で乗客がいた。疲労が昂(こう)じているのか、新聞や週刊誌を読む人も少なくて、乗客の大半が眠っている。車両の内部は、すべてが眠り込んだように静かで、乗客の動きが少ないので、誰かが少し動くとすぐそこに目がいく。私の座っている座席は、車両のドアから入ってすぐの連結寄りにある小さなシートの座席で、三人座れば満席になるが、座っているのは私一人だけだった。
私の座っていた場所から車両のドア部分を挟んだ隣のシートのほぼ中央部に座っていた一人の男がジャンパーのポケットから赤い「マールボロ」の煙草を取り出すのが目に入った。いかにも憤懣(ふんまん)やる方ないという表情で、車内ではその当時でも禁煙だったのだが、そんなことを一向に気にするでもなく煙草に火をつけようとしていた。身なりから職業を判断することはできなかったが、少なくともサラリーマンには見えなかった。
 
相当に酩酊状態にあるようで、ポケットからライターを取り出すのもおぼつかない手つきだった。この男の真向かいには、盛りの年齢をとうに過ぎた二人のホステスが座っていた。つまり私と彼女たちは進行方向の右側の位置していて、「マールボロ」の男は左側2.0に位置していた。また、私と彼女たちの間には、他の乗客はいなくて、私は彼女たちの横顔と動きがしっかりとを観察できた。彼女たちの化粧は半ば剥げ落ちていて、目の周りはパンダの顔のようにアイシャドーが滲んでいた。
片手に一本のタバコ、片手にライターを持ったジャンパー姿の男は、なかなか煙草に火をつけることができないので、バツが悪かったのか、目が合ってしまった二人のホステスに意味のない愛想笑いを投げかけた。男が自分たちを意識していることがよほど嬉しかったのか、二人のホステスは顔を見合わせ、大きな口を開けて大笑いしていた。その笑いが、悪ぶっている少年に喝采を送って不良行為を促しているように、煙草を吸おうとしているジャンパー姿の男を応援しているように見えた。
 
男はしきりに煙草に火を着けようとするが、酔いと電車の揺れに妨げられてうまく着火できない。またその男の視覚も酔っているのか、ライターの炎がうまく煙草の先端部分を捉えられない。眼の前の二人の観客を意識して、まともに火を着けようと焦るのだが、いつまで経ってもなかなか火が着かない。酔っ払いが煙草に火を着けるのをじっと観察していても、まったく意味はない。しかし、私を含めて、それを見続けるのが人間の不思議なところだ。
あまりに展開がないので、一瞬ジャンパー姿の男の手元から眼を離して、何も見えない車窓を眺め、再び煙草とライターに眼を戻すと、煙草から煙の細い糸が立ち上がるのが見えた。無意識に男の顔を見ると、目の焦点が合っていなかった。男が煙草の先端部に着火したつもりが、ライターは、煙草の先端と咥えた煙草の吸い口のちょうど真ん中辺りに火を着けたようだった。男は美味そうに煙草の煙を燻(くゆ)らすが、煙草のどの部分に火をつけたか当の本人には分かるはずもなかった。男は満足げな表情を浮かべ、どうだと言わんばかりに、前に座る二人のホステスに笑いかけた。
 
ジャンパー姿の男が煙草に火を着ける経緯を見ていたホステスたちは、これはまずいことになったと焦ったようだ。煙草の不都合な部分に火がついていることをホステスたちは当然知っていた。しかし、ジャンパー姿の男の酩酊具合から見て、下手に注意するより、これ以上干渉しない方が無難だと考えたのだろう。わざわざ席を変わると、却ってジャンパー姿の男を刺激する可能性があるので、二人のホステスは視線を斜め向かいに座る肥えた中年の男に移した。
ホステスたちが視線を移したので、それにつられて私も中年男性の方を見たが、この中年男性は驚いたことに少女雑誌を無心で読んでいる。ホステスたちは、中年男性が少女雑誌を見ているという“出来事”に、話題を転じたように装った。つまり、自然の成り行きのように、ジャンパー姿の男を無視するスタンスを選んだのだった。自分が彼女たちの話題から外れたことにジャンパーの男がどう反応するか、そちらに眼を転じて見たが、男はすでにタバコを咥えたまま眼を閉じていた。
相変わらず煙草から煙が上がり、煙草の火は中間部を中心に燻(くすぶ)っていて、先端部が燃え落ちるのは時間の問題だった。おそらくホステスたちは内心はらはらとしていたのだろう。しかし、注意すべきかどうかの判断もできず、ヒソヒソと小さな声で会話を交わし、一層少女雑誌の男の話題に没頭しているように振舞っていた。やがて想像していた通り、煙草の先端部は、男のジャンパーの上を転がって、足を組んでいた男のズボンの股のところに落ちた。男がアッと熱さに飛び上がるかと思ったが、少しも動く気配がない。多分今はまだ目が覚めるほどには熱くはないらしい。それでも、ズボンの股の部分から立ち上る煙は少しずつ大きくなっていた。
男は、股間の火事にはまったく気付かずに、先端部を落として、いつの間にか火の消えた残り部分の煙草をくわえて眠っているかのようだった。今にも股間から炎が上がりそうになって、ホステスたちは見た目にも焦っていたが、それでもジャンパー姿の男はまだ気付かない。ホステスたちは、二人で顔を見合わせ、目でどうしようかと相談していたが、その時隣の車両から走行中の車両のドアを開けて車掌が入ってくるのが眼に入った。
 
二人は急いで立ち上がって車掌のところに駆けてより、何も話さずジャンパー姿の男を指差した。車掌はなるほどと納得したように、男の前までやってきて、少し男の様子を観察していた。そして状況を把握したように、姿勢をただし、男の肩を叩き、「煙草はご遠慮ください!」と、小声で呟いた。ところが、股間の煙は見えないという様子で、男の返事も待たずに車掌スタスタと隣の車両へと移っていった。ホステスたちはあっけにとられたが、意外なことに男の股間の種火はなかなか燃え上がらなかった。よほど燃えにくい繊維だったのか、次第に煙は小さくなって、一筋の細い煙を残して消えてしまった。後には化学繊維の燃えた後の異臭だけが残った。
手の平くらいの大きさの燻り跡だったが、不動の姿勢で男はそのまま眠り続けた。車内に静寂が戻って、電車がやがて「桂駅」を通過した時に、何かの事情で電車の走行に軽くブレーキがかかった。小さな反動だったが、煙草をくわえたままのジャンパー姿の男が、そのままシートに横倒れになった。車内の他の乗客は、どうしたことかと男を見詰めていた。男はブレーキに続く小さな揺れに促されて、シートからさらに床へとドスンと落ちてしまった。
大の男がシートから床に落ちたのだから相当な衝撃なのに、男は眼を覚ますこともなく身動きもしない。私はとっさにこの男が心臓麻痺で死んでいるのではないかと思った。奇妙なことだが、だから股間が燃えても気が付かなかったのだと納得していたのだった。ジャンパー姿の男が心臓麻痺だと思ったのは、他の乗客も同じだった。周囲にいた乗客たちが、倒れているジャンパーの男の周辺に集まってきたのだ。
 
乗客の中に、リーダーシップのある乗客がいたらよかったのだが、みんなどうしていいか分からず、ただ互いの顔を見交わすだけだった。そこに突然、二人組のホステスの一人が、「私、看護婦だったんです!」と、言ったかと思うと、床にしゃがんでジャンパーの男に心臓マッサージを始めたのだ。彼女の勇敢な行動をきっかけに、車内にはチームワークらしきものが生まれた。すると、一人の年寄りが、心臓マッサージをしている元看護婦の前に進み出た。
遠慮なく言えば、歳だけは喰っているが、まったく存在感の希薄な老人で、「私は、予科練にいたものだが、誰かすぐに車掌を呼んできなさい!」と、命令調に叫んだ。この場に予科練は何の関係もないはずだが、おそらく私には、人に指図するに相応しいキャリアがあると言いたかったのだろう。すぐ横には、若い男がいて、どちらかというと、老人はその男に向かって言ったのだ。その男は、急に話題の焦点に立たされたものだから泡を喰った様子だった。誰に言うともなく、「交通違反の呼び出しがあるのに、行ってへんから、僕は行かれへん!」と、訳の分からないことを言う。多分、何か脛に傷を持っていて、人が死んだとなると警察が出てくる可能性もあるので、表に出たくないということなのだろう。
私は若い男のすぐ後ろに立っていて、みんなの視線が私に集まってくるように感じた。このまま何もしないと、公徳心に欠けると皆から非難を受けそうだが、かといってホステスのように蘇生の技術はない。仕方なく、車掌を呼びにいく役目を引き受けて、急いで隣の車両に向かった。ところが連結が長くて、車掌を探すのにも思ったより時間がかかり、やっとのことで車掌を見付けた。現場の車両まで車掌を誘導するため、二人で黙々と歩き続けたが、何とも間の抜けた緊張感がつきまとう。その緊張感を和らげるために、私の判断など意味もないのに、どうやら心臓麻痺らしいと、お節介にも私の見解を伝えてみた。
ところが現場に着いてみると、ジャンパー姿の男は半身を起こして座っていた。元看護婦のホステスの蘇生が成功したのか、あるいは自然に目覚めたのか、なぜ自分がこんなところに座っているのか理由が分からないようで、しきりに周りを見回していた。
 
しばらくすると男もすっかり正気に戻り、自分で座席に戻ろうとしたが、その頃になってスーツを着た中年の男が突然登場して、車掌と並んでジャンパー姿の男の前に立った。そして、いかにも事情聴取をするような仕草で、「私は非番の警官だが、大丈夫かね?」と、上から目線で男に訊ねた。これにはホステスも、元予科練の老人も、少女雑誌を読んでいた中年の男も呆れかえった。そして、肝心の時にいなくて、今さらしゃしゃり出てどういうつもりかといった非難の視線を浴びせ掛けた。
旗色がよくないと感じた非番の警官は、男がまだ返事もしていないのに、「大丈夫だったらそれでよかった」と、独りごとを言ったかと思うと、隣の車両へと移っていった。電車は今まさに「西大路駅」を過ぎて次の停車駅である「京都駅」に到着しようとしていたが、最終電車には、さまざまな人々の険しく切ない人生を包み込んだ不思議な静寂が戻っていた。
 

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