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テレビゲームの本質とは

どうも、まこっさです(`・Å・´)

25年ほど前から「いつか遊んでほしい」と思い続けていた作品を、
ようやく弟がプレイしてくれるようになりました。

それが『ゼノギアス』です。

正直に言えば、現在の基準で見ると、
グラフィックや操作性が優れている作品とは言えません。

当時でさえ、技術的に革新的だと手放しで評価されていたわけではなかった、という記憶もあります。

そんな中で、弟から頻繁に聞こえてきたのが、

・このキャラは使えない
・エンカウントが多すぎる
・金がすぐ尽きる

といった、不満の言葉でした。

それを耳にして、自分の中に一つの違和感が生まれました。

それは「ゲームプレイ」「ストーリー」の関係性についてです。

そもそも、テレビゲームの本質とは何なのだろう、と。

かつてのゲームは、記憶容量の制約が非常に厳しく、
ストーリーに多くのデータを割くことができませんでした。

そのため、冒頭の簡単なあらすじとエンディングで物語を提示し、
詳細はプレイヤーの想像力に委ねる。

あるいは、説明書や攻略本で補完する。

そうした構造が一般的だったと思います。

だからこそ、開発秘話や裏設定、未回収の伏線といった情報に、
後から胸を躍らせる余地があったとも言えます。

一方で、プレイヤーとして最も重要視されていたのは、

「そのゲームが遊べるかどうか」

この一点だったはずです。

ゲームウォッチ、マリオ、各種スポーツゲーム。

これらの作品に、
重厚なストーリーはほとんど存在しません。

もちろん、マリオにも最低限の物語設定はありますが、
プレイ中に物語が逐一語られることはありません。

プレイヤーが向き合うのは、
あくまで操作感、ルール、達成と失敗の繰り返しです。

そこで、ゲーム開発は時代とともに大きく進歩していきました。

歴史をモチーフにした作品や、
完全オリジナルのファンタジー世界。

技術の進展により、ゲームプレイと並行して、
明確なストーリーを組み込めるようになっていきます。

現在では、ストーリーを主軸に据えたゲームは決して珍しいものではありません。

FPSであってもストーリーモードが用意され、
スマートフォン向けに量産されているゲームですら、
何らかの物語設定を持っています。

脚本やシナリオが必要なゲームが当たり前になったのも、
時代の流れとしては自然なことなのでしょう。

しかしながら、
弟が口にする不満と同じような言葉を発する人は、
実際かなり多いと感じます。

それは、物語への評価ではなく、
不満や葛藤の多くが「ゲームプレイ」「UI」に向けられている点です。

いわゆる操作性の問題ですね。

操作性が多少悪くても、
ストーリーが評価されれば、
一定の範囲までは看過されることがあります。

物語を追うこと自体が主目的であれば、
多少の不便さは我慢できる、という判断です。

しかし、ストーリーを積極的に追っていないプレイヤーから見た場合はどうでしょうか。

どれだけ思想を盛り込み、
脚本が評価され、
「良作」と評されているゲームであっても、
ゲームプレイやUIが致命的であれば、
容赦なくクソゲー扱いされます。

この評価軸の違いは、かなり決定的です。

昔のゲームは、ローディング時間も長く、
それ自体が頻繁に発生していました。

それによって削がれるのは、
ストーリーへの没入というよりも、
「コントローラーを握って操作している時間が奪われること」への苛立ちだったと思います。

操作できない時間が続く。

その積み重ねが、プレイ体験そのもののテンポを崩し、
結果として気分を削ぐ。

そういった不満が、当時から一貫して存在していた、
という話なのだと整理できます。

ですが、これは本当に「ゲームをプレイしている」と言えるのでしょうか。

感覚としては、
漫画やアニメにおける「キャラ推し」に近いものだと思います。

作品全体の構造や文脈は把握していない。

ストーリーも正確には理解していない。

それでも「このキャラが好きだから推す」という態度です。

ゲームにおいても、まったく同じ現象が起きています。

ストーリーを通して体験しているというより、

・印象に残ったトラウマシーン
・ショッキングな場面
・語りやすい一部分

そういった断片だけを切り取って語る。

これは、ゾンビ映画を観て

「黒人キャラが悲惨な末路を辿った」

という一点だけを挙げて、
作品を語った気になっているのと同じです。

それはゾンビ映画の一場面ではあっても、
作品の中身そのものではありません。

分かりやすい例として『ターミネーター』があります。

「シュワちゃんがめちゃくちゃ強い」

この感想自体は間違っていませんが、
それだけでは映画の本質には一切触れていません。

人類と機械の対立、
時間移動のパラドックス、
運命と選択の問題。

そうした中身には踏み込めていない状態です。

ただし、これが小学生くらいであれば、
何の問題もありません。

ドラゴンボールで言うなら、

「悟空強い!」
「ベジータやばい!」
「サタン弱い!」

このレベルの理解で十分です。
なぜなら、子供だからです。

ですが、成人し、中には中年、還暦を迎える年齢になっても、
同じレベルのトークを続けている人は、
実際少なくありません。

これはゲームに限った話ではなく、
現実世界でも共通しています。

「フェラーリって速いよね」
「トラックってデカいよね」

それ以上の話ができない。

性能、設計思想、用途、文化的背景、
社会的役割には一切踏み込めない。

これらの人たちは、
確かにゲームに触れたことはあります。

しかし、「ゲームをプレイしている」とは言い難いのではないか、と思っています。


これは漫画でも同じです。

全巻ページをめくったことはある。

しかし、内容を読んだかと言われると、そうではない。

ただ、それ自体を責める話ではありません。

これは能力や態度の問題というより、
構造の問題だからです。

仮に、誰もが「しっかりプレイすれば理解できる」のであれば、
学校の授業で教科書を読んだだけで、
誰もがテストで100点を取れるはずです。

しかし、現実はそうではありません。

実際には、

・授業を聞いていても理解できない人
・板書を写しても意味を掴めない人
・文章を読んでも構造を把握できない人

こうした差は、どの集団にも確実に存在します。

「毎日登校して、授業を受ければ誰でも100点が取れる」

理論上は正しく聞こえますが、
実際には成り立っていません。

成り立っていない、という事実がある以上、
「理解できない層が一定数存在する」という前提を無視することはできません。

これはゲームでも同じです。

ゲームをプレイしていたとしても、
内容を理解できるとは限らない。

操作はなぞれる。

進行はできる。

印象に残った場面や、触った感触は語れる。

しかし、

・世界観の構造
・ストーリーの因果関係
・キャラクターの背景や動機
・プレイ中に明示されている情報の意味

こうした点に踏み込まれると、
途端に言葉に詰まってしまう。

それが、観測される限りでは「大半のゲームプレイヤー」の実像です。

これは怠慢というより、
「体験した=理解した」と誤認しやすい娯楽構造と、
理解を前提としない消費文化が組み合わさった結果だと考えた方が自然でしょう。

ゲームを遊んだかどうかと、
ゲームを理解したかどうかは、別の話です。


では、テレビゲームの本質とは何でしょうか。

個人的には、テレビゲームの本質は

「理解を要求される体験装置」

だと考えています。

もう少し噛み砕くと、
ゲームは「見るもの」でも「読むもの」でもありません。

プレイヤー自身がルールを理解し、
選択を行い、
その結果を引き受けることを前提としたメディアです。

映画や漫画は、理解できなくても時間が経てば終わります。

極端な話、寝ていても物語は完結します。

しかし、ゲームは違います。

理解しなければ先に進めない。

操作、リソース管理、失敗の意味、世界の前提。

これらを飲み込めなければ、
体験そのものが成立しません。

だから本来、ストーリーは「読ませるもの」ではなく、
プレイを成立させ、没入を促すための補助装置
いわばカンフル剤だと見ています。

たとえば、ゼノギアスもそうです。

あれはプレイをするだけの作品ではありません。

・戦闘
・資源管理
・世界構造
・選択と制限
・神話を下敷きにしたSF
・近親関係を含む歪んだ人間関係
・命の軽さと、人の厚かましさ
・過去から連鎖する転生

こうした要素の積み重ねが、
プレイを通して思想や物語を「理解させてくる」構造になっています。

逆に言えば、
操作性やUIだけで「クソゲー」と切り捨てられるのも、
ストーリーだけで「名作」と持ち上げられるのも、
どちらもテレビゲームの本質からはズレています。

なぜならゲームは、
遊ばなければ成立せず、
理解しなければ完結しない
からです。

テレビゲームの本質は、
考えさせられ、試され、失敗を通して理解に至らされること。

だからこそ、プレイできない人がいるのも自然ですし、
理解できない人が多いのも、何ら不思議ではありません。

ゲームは決して優しい娯楽ではありません。

思っている以上に、知的で、不親切なメディアです。

そして、その不親切さを埋めるのが、
思考力や洞察力です。

頭を空っぽにして完結できるゲームは、
正直ほとんど存在しません。

少なくとも、意味のある体験として残るものはそうではない。

強くなるために課金を重ねたり、
会話を片端からスキップしたりする行為は、
「ゲームに触っている」ことはあっても、
「ゲームをプレイしている」とは言い切れないでしょう。


ゲームというものは、
基本的に誰でも触れるように設計されています。

直感的な操作、段階的な難易度、チュートリアル。

これは開発側が長年の試行錯誤の中で培ってきた、
アクセシビリティの成果です。

ですが、
触れることができることと、
理解できることは、別の話です。

たとえばFPSで、
敵を次々になぎ倒すタイプのゲーム。

操作に慣れ、反射的に動けるようになれば、
一定の成果は誰でも出せます。

しかしそれは、

・ゲームデザインの意図
・リスクと報酬の設計
・マップ構造や戦術的選択
・世界観や文脈

こうした要素を理解していることとは、
必ずしも一致しません。

ここで誤解してほしくないのは、
「理解が浅い人はゲームをするな」と言っているわけではない、
という点です。

問題なのは、
浅い理解のまま分かったつもりになり、
開発陣を攻撃すること
です。

これは、見ていて正直つらい。

確かに、

・致命的なバグが多ければ快適な体験は損なわれます
・進行不能になれば、ストーリーは追えません
・過剰に難しければ、離脱率が上がるのも事実です

ここまでは、設計側の責任が問われる領域でしょう。

しかし、

「理解しようとしない」
「文脈を読む気がない」
「与えられた情報を無視する」

これらまで開発陣の責任にするのは、話が違います。

ゲームにおいて、
プレイヤーは「お金を払ってやらせてもらっている側」であり、
開発陣は「購入してもらって作らせてもらっている側」です。

この関係は対等であり、上下ではありません。

だからこそ、責任も分担されるべきです。

その線引きが曖昧なまま、
不満だけをぶつける行為は、
浅い体験と浅い理解の自己申告に近い。

テレビゲームの歴史自体は、確かにまだ浅い。

ですが、人類の「理解し、学び、試行錯誤する」という歴史は、
十分に長い。

テレビゲームとは、
現実と遜色ない「責任付きの体験」を、安全に疑似体験できる装置です。

キャラ推しをしてもいい。

UIだけで評価してもいい。

それ自体を否定する気はありません。

ただし、
ストーリーや背景という設計の土台が存在することを踏まえた上で、
評価すべき

だと、個人的には考えています。


自分自身も、すべてのゲームにおいて知識が深いわけではありません。

後年になって

「そういう意図があったのか」

と驚かされることも、正直かなり多いです。

ただ、その瞬間に感じるのは否定ではなく、
そのゲームをより好きになり、
もう一度その世界に没入してみたい、
という感覚です。

子供の頃に見ていたゲームの景色。

大人になってから改めて見たゲームの景色。

知識量、経験、視野の広がり。

それらによって、
見えるものが明確に変わっているはずなんですよね。

にもかかわらず、
年齢を重ねても、幼少期とまったく同じ意見を、
同じ強度で語り続けている人がいる。

それを見ていると、
その人はゲームを「プレイしている」のではなく、
ただコントローラーを握っているだけなのではないか
と、個人的には感じてしまいます。

「このキャラ使えねー」
「ここマジでこえー」
「この武器たけー」

こうした言葉自体は、誰でも口にできます。

極端な話、思考を伴わなくても出てくる、単なる感想です。

それを延々と並べるだけなら、
料金表を眺めながら四六時中文句を言っているのと、
本質的には変わりません。

そこに世界観も、構造も、設計意図も介在していない。

それならもう、
ゲームである必要すらない
という話になってしまう。

体験を重ねることで視点が変わる。

理解が深まることで、評価が更新される。


最初に触れたゼノギアスですが、
個人的には、あれは非常に密度の高いSF作品だと思っています。

創世記、輪廻転生、神話とSFの接合、管理社会と家畜化、人格分裂と自己同一性、贖罪、原罪ではなく設計欠陥、自由意思の否定と回復、歴史の反復。

そうした要素が、ゲームプレイと並行して積み重ねられていく。

語ろうと思えば、いくらでも語れてしまう作品です。

だからこそ、実際にプレイさせた結果、
何かしらの反応が返ってくるものだと思っていました。

ところが、返ってきたのは、

・このボス倒せねーんだけど?
・負け戦なんじゃねーの?
・金がすぐ枯渇するんだが
・エンカ多すぎ
・このキャラ嫌いだわー
・何言ってんか分からねー
・次どこ行ったら分からん

そういった不満ばかりで、
ストーリーや世界観に対する具体的な反応は、
ほとんどありませんでした。

正直に言えば、落胆しています。

正直なところ、
これが「普通の受け取り方」なのだろうな、
とも感じています。

なぜなら、
感情で把握できるゲームの方が、
圧倒的に分かりやすい
からです。

恐怖、嫌悪、悲惨さ、ショック。

そういった感情に直結する表現は、
説明を必要としません。

見た瞬間に理解できてしまう。

たとえば、ソイレントシステムが「トラウマだ」と語られるのを聞いた時、
自分は正直、当時かなり戸惑いました。

人道的に望ましいとは言えない。

そこは否定しません。

ですが、デウスというシステムの目的から見れば、極めて効率的です。

・資源を無駄にしない
・循環を維持する
・目的達成のための合理化

これは感情論ではなく、
システム設計としての話です。

極端なことを言えば、
もし自分がその現場にいて、
「栄養価が十分で、味も悪くない」と分かっているなら、
その缶詰を普通に食べると思います。

嫌悪感と、行動判断は別だからです。

現実社会でも、
フードロス削減が叫ばれ、
廃棄されるはずのものを再利用する仕組みが推奨されています。

ゼノギアスのソイレントシステムは、
「すべてを塵にする」発想ではありません。

回収し、再利用し、循環させる。

倫理的に正しいかどうかと、
目的に対して合理的かどうかは、同一ではない。

ここを切り分けて考えられるかどうかで、
受け取り方は大きく変わります。

だから自分には、
あのシーンが「感情的トラウマ」としてではなく、
巨大なプログラムの一部として見えた。

まるで、
途方もなく大きなコードベースを前にして、
一つ一つの処理を追っているデバッガーのような感覚です。

話の全体構造を踏まえて見れば、
あれは単なる「トラウマ表現」ではありません。

払うべきものを、払った結果がそこにある
それだけの話です。

そして、
もし「バグ」を示す存在があるとするならば、
それはシステムではなく、フェイたち人間側でしょう。

そもそも、この循環は
「人類がそうなることを望んで始まったもの」ではありません。

しかし、
幾度も失敗を繰り返す歴史の中で、
人類はナノマシン技術を生み出し、
そこから、

・永遠の生命を求める者が現れ
・個としての限界を捨て
・高度化した存在として統合され
・高次の知性状態のまま、宇宙へ再出発できる

という可能性に到達した。

ミァンたちは、
あくまで当初の目的を達成するために
その過程を観測し、管理していただけです。

だからこそ、
ソイレントシステムは異常でも例外でもなく、
歴史の中に組み込まれた、単なる一工程に過ぎません。

資源を回収し、再利用し、循環を維持する。

それは感情論ではなく、
システム設計として一貫しています。

それを

「トラウマだ」
「気持ち悪い」

といった感情だけで消費してしまうのは、
あまりにも表層的です。

その受け取り方は、
作品が積み上げてきた因果と構造に、
泥を塗ってしまっているように感じてなりません。

でも、仕方がないのだとも感じています。

テレビゲームは、もともと
誰もがプレイできることを目的として作られた「遊戯」の派生です。

入り口は常に低く設計されている。

そこに重い思想や構造的な問いを仕込んでも、
多くの人の手は自然と伸びません。

現実として、

・リアクションの大きなインフルエンサーに遊んでもらい
・有名俳優を起用して新規層に訴求し
・強い広告でインストールを促す

そうして初めて、ゲームは「起動」されます。

プレイされなければ、
どんな思想も、物語も、存在しないのと同じです。

そう考えると、
ストーリーを真剣に追い、
構造まで読み取ろうとするプレイヤーは、
実際にはごく少数派なのかもしれません。

もしそうでなければ、
Cookie Clickerのようなゲームが、
世界的に支持される説明がつかない。

キャラクター性を前面に出したゲームが
圧倒的な売上を叩き出している現状を見ても、
「考えさせる物語」は必須条件ではなくなっています。

ストーリーは、

・後付けでもいい
・雰囲気を補強できれば十分
・理解されなくても問題ない

そういう扱いに、
時代そのものが移行しているのでしょう。

それは市場としては健全ですし、
娯楽としては正解なのだと思います。

ただ、その一方で、
思想や構造を本気で仕込んだ作品が、
「分かられなくて当然」という前提に置かれてしまう。

なんだか、虚しいですけどね。

アリーヴェデルチ(`・Å・´)

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