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都会の朔太郎・畑の犀星 | 「田舎を恐る」「街にて」ほか2編を読む - 生い立ちと生活 -

近代詩から詩の読み方や書き方を探る、近代詩人から学ぶ|詩の味・書き方シリーズ。

このシリーズでは普段、近代~昭和初期にかけて活動した文士の作品から、「詩のどこが良いのか」「どう書けば詩なのか」を探していく。
どの記事も一本で完結している。


序:都会の詩人、畑の詩人

そろそろ年末年始。
人々はどこへ行きたがるだろうか。
住み慣れた故郷に帰るだろうか。
賑やかな都会を楽しむだろうか。

私の生まれた土地は吹雪くので、年末年始に行くのは危ない。
かといって都会は人が多くて、楽しいぶん刺激も強い。

このような「田舎が良い」「都会が良い」は、古今東西あるようだ。
日本の近代詩人たちの詩からも、その様子をうかがえる。

今回は技法がどうとは言わず、読んで知ることを楽しむ回にしようと思う。

さて、扱うのは近代口語詩の父こと萩原朔太郎氏と、彼と魂の双子と称される室生犀星氏の詩。
萩原氏は「田舎を恐る」「群衆の中を求めて歩く」、室生氏は「郊外にて」「街にて」を読んでいく。

今回の記事は詩・詩集の序文・エッセイを引用していて、比較的長い。
ブックマークやマガジンから、いつでもゆっくり読んで頂けたらと思う。


シティボーイ朔太郎

萩原氏から見た田舎「田舎を恐る」

わたしは田舎をおそれる、
田舎の人氣のない水田の中にふるへて、
ほそながくのびる苗の列をおそれる。
くらい家屋の中に住むまづしい人間のむれをおそれる。
田舎のあぜみちに坐つてゐると、
おほなみのやうな土壌の重みが、わたしの心をくらくする、
土壌のくさつたにほひが私の皮膚をくろずませる、
冬枯れのさびしい自然が私の生活をくるしくする。
田舎の空氣は陰鬱で重くるしい、
田舎の手觸りはざらざらして氣もちがわるい、
わたしはときどき田舎を思ふと、
きめのあらい動物の皮膚のにほひに悩まされる。 
わたしは田舎をおそれる、
田舎は熱病の靑じろい夢である。

萩原朔太郎「月に吠える」より「田舎を恐る」


萩原氏から見た都会「群衆の中を求めて歩く」

私はいつも都會をもとめる
都會のにぎやかな群集の中に居ることをもとめる
群集はおほきな感情をもつた浪のやうなものだ
どこへでも流れてゆくひとつのさかんな意志と愛欲とのぐるうぷだ
ああ ものがなしき春のたそがれどき
都會の入り混みたる建築と建築との日影をもとめ
おほきな群集の中にもまれてゆくのはどんなに樂しいことか
みよ この群集のながれてゆくありさまを
ひとつの浪はひとつの浪の上にかさなり
浪はかずかぎりなき日影をつくり 日影はゆるぎつつひろがりすすむ
人のひとりひとりにもつ憂ひと悲しみと みなそこの日影に消えてあとかたもない
ああ なんといふやすらかな心で 私はこの道をも歩いて行くことか
ああ このおほいなる愛と無心のたのしき日影
たのしき浪のあなたにつれられて行く心もちは涙ぐましくなるやうだ。
うらがなしい春の日のたそがれどき
このひとびとの群は 建築と建築との軒をおよいで
どこへどうしてながれ行かうとするのか
私のかなしい憂鬱をつつんでゐる ひとつのおほきな地上の日影
ただよふ無心の浪のながれ
ああ どこまでも どこまでも この群集の浪の中をもまれて行きたい
浪の行方は地平にけむる
ひとつの ただひとつの「方角」ばかりさしてながれ行かうよ。

萩原朔太郎「青猫」より「群衆の中を求めて歩く」


萩原氏の書く田舎の「むれ」と都会の「群集」

「くらい家屋の中に住むまづしい人間のむれ」を嫌い、「都會のにぎやかな群集」を好む萩原氏。

どちらも人間の集まりであることは変わらないが、彼にとって何が違うのだろうか。

私は「むれ」と「群集」以下のように考察した。

田舎の「むれ」は動物の群れのように繋がりがあり、誰がいて誰が居ないか分かってしまう。
都会の「群集」は魚群のように、同じ方向へ行くものの繋がりは浅い。知り合い同士で歩かない限り、誰が居るのかは誰も知らないし、気にもされない。

以上のように考えられた要素は三つ。
詩の描写と、彼の実家と、彼自身の繊細さである。

萩原氏の実家は田舎にあったものの、医師の家なので暮らしは都会的だったという。つまり他の、田舎の一般家庭とは違いがある環境だったと考えられる。
さらに「冬枯れのさびしい自然が私の生活をくるしくする。」という一文の前後には、一人で自然に触れているような描写があり、陰鬱さを感じ取って疲弊しているように書いてある。
生活がくるしいとは、きっと金銭の話ではないのだ。

ということは、静かな自然や近所の視線(あるいは世間体)は、萩原氏にとって “自分に思考させすぎる、自分を疲れさせるもの” なのではないだろうか。

かの室生氏はエッセイで

萩原朔太郎はくすんだ情熱は持っていたが、気は弱く控え目でそんな飛行機に乗って北海道まで出掛ける人ではない、どんな場合でも思い切った事は出来ない人である。

室生犀星「わが愛する詩人の伝記」

と しながらも、

原稿の上ではきゅうに人が変り顔が変り彼の生活が変り、ぐにゃぐにゃさんがカンカン男になり、カンカン男が哲学者の鉄兜をかぶり時折ニイチエの義眼をはめこんでいた。

室生犀星「わが愛する詩人の伝記」

と書いている。

萩原氏は原稿のこと、文学のこととなるとことさらに神経質になるようだ。
彼にとって田舎の自然は、考えざるを得ない陰鬱な文学が溢れていて仕方が無いのかもしれない。

だから「人のひとりひとりにもつ憂ひと悲しみと みなそこの日影に消えてあとかたもない」「無心の流れ」に呑まれていた方が、気が楽なのだろう。

繊細な人物は人混みが苦手、という話をよく耳にするが、逆も案外いるらしい。

ホームシック犀星

室生犀星氏から見た田舎「郊外にて」

寂しい心を抱いて
ある日郊外の田甫路をあるけり
涼しい蔭つくる木のしたに
旅人のやうに憩ひ
旅人のやうに街の方を眺めて居たり
もはや暮れ方に近く
煙のぼるを見れば悲し
ここの都にそはぬ心を
つくづく思ひしづめり

室生犀星「抒情小曲集」より「郊外にて」

室生犀星氏から見た都会「街にて」

引き摺られ
息窒まりつつ
きんきんと叫びを立て
さうらうとしてわれ歩ゆむ
しめやかに雨ふる街を眺め昂ぶり
凍みたる手を温めんとして
さうらうとしてわれ歩ゆむ
わが天鵞絨の服は泥をもて汚され
わが靴はかなしげに鳴り
れいらくの汚なき姿をうつす
雨そそぐ都の街の上を
髪むしりつつ
血みどろに惨として我あゆむ

室生犀星「抒情小曲集」より「街にて」


室生氏の書く二つの「自然」

一方の室生氏は、長閑な風景のほうが好ましいらしい。
たしかに「ふるさとは遠きにありて思ふもの」(小景異情) と詠ったように、室生氏は田舎や自然への愛を語った詩を多く残している。

しかし単にホームシックを起こしやすかったり、都会より大自然が好きだったりというわけではなさそうだ。

室生氏が知るもう一つの自然。
それは “そこにあるものが、その場所に相応しいか” という意味での自然だと私は考えた。

室生氏は七歳から金沢の寺院という素朴な環境で育てられ、上京した後しばらくは貧しい暮らしに悩んだ。
「郊外にて」で、彼が田のそばで旅人のように憩えたのは、自分を素朴な環境に居るべき人間だと思っているからではないだろうか。

「街にて」のように息が詰まりながら零落した姿で歩くより、生きやすく相応しい場所があると彼は思っていたのだろう。

彼の “物を相応なところに置く” というスキルは、図らずもではあろうが生活から滲み出ていたようで、このような萩原氏のエッセイが残っている。

メーテルリンクの青い鳥は、月光の下で見ると青い鳥だが、それを捉へて晝間見ると、普通の平凡の鳥になつてる。室生の場合の所持品が、すべて皆その通りである。

萩原朔太郎「所得人 室生犀星」

室生氏の物は何故か魅力的に見えるが、彼の手を離れた途端ガラクタになるらしい。

童話「青い鳥」に例えられるほど、室生氏は “自分に似つかわしいもの” を選ぶ天才だったようだ。

彼にとって住み慣れた故郷、家や畑、庭などは “自分も自然で居られる” 場所なのだろう。


結:二つの相似た霊魂

これは萩原氏の「月に吠える」の序文で北原白秋氏が称した、萩原氏と室生氏のこと。
二魂一体、とも呼ばれる。
そして北原氏は室生氏の「愛の詩集」の序文でも

君は健康であり、彼は繊弱である。君は土、彼は硝子。君は裸の蝋燭、彼は電球。君は曠原の自然木、彼は幾何学式庭園の竹、君は逞ましい蛮人、而して彼はヒステリイ性の文明人。君は又男性の剛気を保ち、彼は女性の柔軟を持つ。君は貴族の風格を尚び、彼は却て純樸なる野趣を恋ふ。

北原白秋による室生犀星「愛の詩集」序文

と、二人を例えている。
(北原氏・萩原氏・室生氏の親密さが本当に伝わる文章なので「月に吠える」「愛の詩集」は序文だけでも、とても読み応えがある)

やはり室生氏は自然の木で、萩原氏は庭園の竹と、ここでも田舎・都会のように分けられている。

世の人々はどちらを好むだろうか。自分に近い世界か、自分とは違う世界か。
私は欲深なので、どちらも捨てがたい。


 


《引用・参考》

「わが愛する詩人の伝記」は、初対面の二人の第一印象が酷すぎて面白い。
ここから大親友になるとは予想できない。
二人のファッションセンスが独特なのもポイント。

ここからは青空文庫で読める、おすすめのエッセイ紹介。

・室生家の子からニックネームをもらう萩原氏

「萩ちゃんおじさん」……!?

・友人を鹿や狐に例える萩原氏、まさかの動物に例えられた室生氏

ちなみに芥川龍之介氏は狐、らしい。

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次回の読み比べ記事。

「白秋の三羽烏」と呼ばれた萩原朔太郎・室生犀星・大手拓次のうち、室生氏と大手氏をピックアップ。
(2025年11月投稿・3193文字)


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