絶対的な生を肯定するということ(器官なき身体について)

ドゥルーズ・ガタリ(以下DG)『千のプラトー』第6章「いかにして器官なき身体を獲得するか」では、マゾヒスティックな倒錯行為において、器官身体をバラバラに解体していって、果てには器官のまま有機化を脱すること、つまり器官なき身体を「今ここで」実現するプロセスが細やかに書かれている。
「器官なき身体」は圧倒的にビジュアルで捉えられる概念として非常に魅力的であるし、おもしろい。以下で引用する文章の、太線にした箇所が要は言いたいことである。

「それ(器官なき身体)は強力な、形を持たない、地層化されることのない物質、強度の母体、ゼロに等しい強度であり、しかもこのゼロに、少しも否定的なものは含まれていない・・・それゆえわれわれは、CsOを有機体の成長以前器官の組織以前、また地層の形成以前の満ちた卵、強度の卵として扱う」(『千のプラトー』, p.177)

「CsOは卵である。卵はしかし退行を示すものではない。それどころか、卵はまさに現在であり、人はいつも卵を、自分の実験の場として、結合された環境としてかかえている。卵は純粋な強度の場であり、内包的空間であって、外延的延長ではない生産の原理としての強度ゼロである」(同上, p.188)

強度の卵としての「器官なき身体」。
それは、三木成夫『胎児の世界』で描かれるような、小さな受精卵が生命1億年分の歴史をたどりながら、器官を実らせてゆく過程。胎内に宿った受精卵が、すべてを含んで脈打っているということ。

卵はいまだ器官を持たないという意味で「無」であるが、それは有への動き、分化可能性を無尽蔵に秘めた潜在的な「無」にほかならない。
井筒俊彦は絶対無が個物存在に文節を遂げるまさにその瞬間をして「存在が花する」と表わしたが、この「存在」とはそのような意味での「無」なのである。
器官なき身体から器官が組織されること、DGのいう「地層化」は、「無が器官する」経過の一側面として「存在が層状化する」と言い換えることもできる。

したがって、有への傾動を兆した器官なき身体 (前回の記事に倣えば、絶対無身体=○)は「強度ゼロ」(なんでもない)の「無」でありながら、「強度の極限」(なんでもある)な「存在」でもある。また、「このゼロに、少しも否定的なものは含まれていない」とは、そこでは肯定や否定すら成立し得ないという意味での絶対的な肯定が前面化していると読むことができる。

強度に満たされ、もはや自我と他者を区別しない器官なき身体を作ることが問題なのだ。・・・内在野は、自我の内部にもなければ、外部にある自我や非自我からやってくるのでもない。それはむしろ、<自我>など受け付けない、絶対的な<外>である。内部も外部も、両方とも内在野に溶け込み、等しくこの場の部分を構成しているからだ」(p.180)

通常否定されるべき苦痛を快楽に価値変換して欲望するマゾヒズムは、「器官なき身体」の獲得において、世俗的に超コード化された価値基準から抜け出すための「逃走線」(逃げ道) 的営為と考えられるだろう(それでいうとマゾヒストは「概念的人間」なのかもしれない、前回の記事参照)。

外からあてがわれた「正しさ」からの逸脱にあえて真っ向から挑んでいくことは、主体が全体化されることから逃れ出るあり方の一様といえる。それによって、どこにも回収されることのない「器官なき身体」の実現を、「ほんとう」を今ここで体現する。苦痛を伴う行為は、身体を張った「実験」である。

「マゾヒストの苦痛は快楽にいたるための手段ではなく、外的な基準としての快楽に対して欲望が結んでいる偽りの関係を解体するための代価なのだ」(pp.178-179) 

ちなみに、そうはいっても内在平面がアレンジメントできれば方法はSMとかオーバードーズとか派手なやり方である必要はなく、「一人一人が、一つの<自我>から抽出するのに成功した趣味に従って、・・自分に可能なものを選び取り実行」(p.181)すればよいという至極まっとうな注意書き付きである。
この辺、熱くマゾヒズムについて語っているかと思えば、突如として急ブレーキをかけたように冷静になるから、読み手としてはややどういう気持ちになっていいかわからなくなってしまう。


先に述べたように、「器官なき身体」はたびたび卵のモチーフで語られる。それは、可能性を胚胎する小宇宙としての子宮、いわば「女性的な身体」を連想させる。
このことはもちろん、女性が身籠り、産む機能を持つ性であることもそうだが、センシュアルな感覚そのものにも言えることだろう。
一般的に、男性が局所的な刺激を発散、放出する形で、エネルギーが外向きなのに対して、女性は全身に重い余韻が響き渡るように、エネルギーが内側に浸透する感じといえる。男性のそれと比較して、圧倒的に広くて深くて長い。スイッチがオンとオフになっているようなものではなくて、終わりも始まりも明確にないのである。この「終わりも始まりもない」ことは「一つに特権化される特別な諸項のなさ」に通じると思われる。

バイオリズムに左右される女性の感情や身体の不条理に対して、私は自分の中に異質な何かが棲んでいるようで面白く、厄介だけど好ましいと感じている。なぜなら、そういうのが「少女趣味的な起爆力」(これに関してはこういう記事を書いた)の原動力であり、「こういうもの」を感じ取るセンサーにほかならないと思うからだ。そのような、自分で自分を振り回す「不条理さ」こそ「終わりも始まりもなく、理屈も道理もない」ものなのである。

女性的な身体は、終わりも始まりもなく、どこまでもなだらかに広がって、どこにも特権化されない。松本零士が描く女性に描き分けがないのと同じで、本質的に様相がないのだ。言うなれば、「どんな外部的な結末によっても中断されず、どんな頂点にも向かわないような連続的強度」(p.182)。松本零士が表現している女性は遍在的な概念だから、描き分けられないことに意味があるのだ。
例えば、女のひとが横たわったなめらかなラインを、白い高原(プラトー)の稜線に重ねてみても、きれいだなあとおもう。

卑近な事柄で考えてみる。
例によってまた90年代の女性歌手を引き合いに出すのだが、Chara(歌手)の「大きな地震がきたって」という曲は、歌い出しが「大きな地震がきたって わからないくらいに あたしときたら 体中心臓でいっぱい・・・どうかしてる」という歌詞である。
ここでの「体中心臓でいっぱい」に注目してみる。まず、「大きな地震がきたってわからないくらい」というからには、天地を揺るがすくらい心臓の鼓動が高まっているのだろう。それはいいとして、「体中心臓でいっぱい」とは合理も理性もお構いなく、私の中の「わたし」それ自体にそのままダイブして、無加工のまま取り出したようなものではないか。
でも、「(あまりに「それ」を抱えきれなくて、自分の鼓動と地球の揺れが混ざり合い) 体中心臓でいっぱいになる」という表現は、直感的に素朴に「わかる」。
この「わかってしまう」感覚をして、女性的な感じ方なのではないかと思うのである(以前に書いた「内包感情」ってまさにこのことだ)。

もちろん、身体が心臓という部分に限局しているわけではないから、「体中心臓でいっぱい」は、「心臓中体でいっぱい」と置き換えても構わない。場合によっては、「目のなか中体でいっぱい」のこともあれば、「体中指先でいっぱい」のこともある。

「心臓が」ドキドキするとか言明してしまっては、それはかっちりした器官のなかで、硬くてざらざらの地層化が進んでしまっている。これに対して、生まれたての衝動がはじけたときの原色の赤、内側に深く浸潤するエネルギー、というのはそういうものではないだろう。
「体中心臓でいっぱい・・・」は、『千のプラトー』においては、麻薬やマゾヒズムといった特異なことをせずとも、いつでもどこでも「器官なき身体」は潜在的に開示されており、ただの水で酔っ払ったり「麻薬を使わないでトリップする」(p.190)ことができる、今この身体、身体という「於いてある場所」で、という意味だと思う。

また、続く「・・・どうかしてる」とは、器官優位な方向に視点が切り替わった上で「鼓動=地球の揺れ=地球=宇宙=わたし=鼓動・・・」が容易にバババっと結びついてしまう非合理をアタマでとっさに撤回しているようで、全然しきれていないということだ。
これは、個人的に使っている表現で言えば、「私」(器官身体)を貫くように「わたし」(器官なき身体)が頭をもたげて、「私」がぐらつくことを私(観察者)の立場から冷静になって「どうかしてる・・・」と思うが、ホントはまんざらでもない、という内と外の自己矛盾に捩れる感覚なわけである。そういう、宇宙に垂直に底が抜けて吹っ飛んでしまうようなことが、無時間的に、私の中にひらけている。

冒頭の文章を再び引用する。

「CsOは卵である。卵はしかし退行を示すものではない。それどころか、卵はまさに現在であり、人はいつも卵を、自分の実験の場として、結合された環境としてかかえている。卵は純粋な強度の場であり、内包的空間であって、外延的延長ではない。生産の原理としての強度ゼロである」(p.188)


「器官なき身体」を「実験の場」とする表現が目を引く。

子どもの頃など、日常空間を「この線から内は私の秘密基地」と命名すれば、その瞬間からここは秘密の場所になった。「実験場」もそうしたチカラを持っている。
「ここ」を「実験場」と呼ぶだけで、漂う空気感が硬質でキリッとしたものに変わるのがわかる。一つ一つの動作に静謐な自覚が伴うのだ。

たとえば、最も身近な今ここ、自分の身体を実験場にして、DGのいう「地図作成」をするとしたら。
淡い化学反応を期待してそっと胸骨の経緯をなぞるとき、地図が透ける。あちらとこちらを結ぶ道がつながる。

こうしたことを考えていると、ごく子どもの頃、父親と「身体を山にしてキャンプをする」という今思えば謎の遊びをしていたことを思い出す。私の身体を小高い山になぞらえて、父の指がその上を登るのである。
二本指をてくてく沿わせて、足の先から北上してゆく。お腹の辺りに差し掛かると「そろそろ、この辺でテントをはるか〜」と地面を掘り、脇腹に杭をブスッと打ち込まれるのがくすぐったい。その後、臍を中心にして火をおこし、カレーを作り(材料を切る動作がいちいちこそばゆい)、就寝して、翌朝同じ道を下山するのが一連の流れである。
私はケラケラ喜んでいるだけだったけれども、その時、私の身体は笑って喋る動く山なのであった。そこには登山するに足るだけの広々した地図が一面に広がっていたのである。

このような、山(地図)と登山者の関係性は、肉体から脱領土化しても可能なのではないだろうか。私としては、それをしてほんとうの「対話」と呼んでみたい。


さて、だいぶ話がそれてしまったが、「器官なき身体」とマゾヒズムの話題に戻る。

器官なき身体を考えているときに、ふと思いついたのはまたしても入不二基義さん『現実性の問題』における「円環モデル」であった。「円環モデル」で考えれば、器官なき身体は円の左半分、潜在性の領域にあたるだろう。
器官なき身体が「強度ゼロ=絶対無身体○」であるというのは「様相がなくてベタ」(この表現がすごく好きである)ということだろう(というか、勝手にそういうことにしている)。

DGは器官が芽吹いていくのを強度という言葉で表しているが、これは分化の程度、すなわち「様相の濃さ」を「強度」と置き換えて読めると思う。
さらに、「「多重の縦関係」が「横線の無差別な遍在性」の内へと畳み込まれてしまうこと」(『現実性の問題』, p.138)を表す「現実べったりの黒塗り図」を眺めていると、様相を潰し切った器官なき身体のイメージを重ねてしまう(下図でいう図2の隙間を埋めたもの)。

『現実性の問題』p.138より引用


それでいうと、p139で示されている「じゃばら構造」は、器官なき身体から器官が開かれたり(展開)、閉じたりする(凝集)、強度の開放と収縮の図のように捉えられる(オタマジャクシから手が生えたり引っ込んだりするイメージ)。

『現実性の問題』p.139より引用

また、先に述べた「受精卵からの器官発生」は「一番外側で透明に働く現実性」の「受肉化」という表現に重なるのではないだろうか(不本意に纏わされた肉体の重さのウンザリ感込みで)。

さらに円環モデルを先に進んでみる。そうすると、前半部分での反実仮想→可能性の段階でなされる現実の否定とは、マゾヒズムの文脈においては「責め苦」にあたるだろう。
手段の限りを尽くして、身体器官の知覚と表出の自由を奪う。それによって、分化した目や口や皮膚の機能を潰す(様相を塗り潰す、あるいは、焼き潰すことで強度をベタに均す) のである。要するに、「現に」ある器官を一つ残らず摘んでいくこと(現実の否定)が、責め苦の働きなのだ。

身体部位の際立った輪郭が弛まされ、蕩かされていくほど、五感と器官の対応(外延身体)が遠のき、次第に自分が受精卵だった時の強度ゼロ=絶対無身体=○になる。
それはしかし、「退行を示すもの」ではなく、「生産の原理としての強度ゼロ」である・・・(p.188)。

○に近づくにつれ、目で見て、耳で聞き、皮膚で感じるといった、諸器官のプライオリティは減衰する。「体中心臓でいっぱい」あるいは「心臓中体でいっぱい」というように、羊水の中では、目で聞いても、耳で見ても構わないのである。
むしろ、○(絶対無身体)からとうめいな触手を伸ばして、一切に触れずして「すべて」に触れるようなことが、純粋にゆらめく「ほんとう」に近い。

そして、器官の解体(責め苦)が円環モデルでいう円の前半にあたるとすれば、円の後半、「無限の場(源泉)」においてこそ、「器官なき身体」(圧倒的な肯定)が実現するのだと思う。
「器官なき身体」は無様相でベタなのであるが、同時にそこは、無限に新たな項や枠組み(器官、強度)を生み出す豊穣性の海(強度に満ち満ちた無)であるため、円環モデルはぐるっと一周回って再び「現に」という器官身体に戻ってくる (これが「麻薬を使わないでトリップする」今、ここを意味する)。
ただし、このような過程は線形的なプロセスで段階を踏んで達成されるわけではなく、無時間的に、「直接無媒介的に」そうなっている

ところで、『千のプラトー』を読んでいると、なんだかんだ被虐性癖って実はすごく生きることにポジティブで、縛りつけられた局在点から積極的に脱テリトリー化し、何にも縛られない潜在性の地平にどう抜けるか(そこで無様相の終わらない高潮、肯定をいかにして享受するか)という「生の探究者」なのではないかと思えてくる。彼らは文字通りポジティブに「欲しがり」というか。


しかし、ここで一つ疑問が生じる。
マゾヒスティックな行為が様相をくまなく潰していくとして、責め苦の果てに「死んでしまう」のは「アリ」なのだろうか。
実際のところは筋金入りのその道の方に聞かないとわからないが、器官なき身体として全面的な生(性的快楽だけでなく、極めて原始的な生きることそれ自体の喜び)を肯定することが目的にあるならば、「死んでしまう」は「ナシ」という帰結になるはずだ。命あっての物種理論である。

これについて、『千のプラトー』によるところでは、否定すべきは器官ではなく「有機体」であり、有機体によって器官が組織化されることであると強調されている。
DGの想定では、器官の形成それ自体はむしろ基盤となる存在のテリトリーとして必要なもので、とりあえず「一つの地層に落ち着」(p.185)いて、足場を固めないことには、器官なき身体に向かう方向に内在平面が動き出さないということらしい(前回の記事でいえば、一旦器官を固めてイキらないと、そもそもダサい方向に解体されないということだ)。

また、器官や、それらを一定の方向に統御する有機体がないことには、主体は現実を生きることさえままならなくなる。
つまり、SMの境地で「死ぬ」ことは、器官や有機体の放棄であるのと同時に、「器官なき身体」の放棄でもある。CsOにアクセス可能な大事なメディアを失うということだ。
最も最悪なパターンとして、「CsOをあまりに激越な動作で解放したり、地層をひと思いにふっ飛ばしてしまったら、平面を作り上げるどころか、君はブラック・ホールに落ち込んで、破局を迎え、自分を死に追いやることになりかねない」(p. 185)と書いていることからも、やはり苛烈な被虐の末に形もろとも失ってしまうのは厳密に「ナシ」のようである(元も子もないから)。

では、逆に、完全に無様相の「器官なき身体」それ自体として、一才の器官を経由しないことは可能なのだろうか。
結論から言うと、可能ではあるかもしれないが、それを我々が我々に知覚、理解できる形で表出するかどうかは別の話であろう。フランシス・ベーコンの絵画中の人物のように、純粋な肉塊同士となれれば至高なのかというと、そういうわけではない。
やはり、「この私」を留めていることと、「肉塊」であることが同じ私の中で共立すること(郡司先生的には「トラウマ構造」)が重要なわけで、その自己矛盾を意識的に味わうことに、倒錯的に実践することに、えも言われぬ高揚があるのだとおもう。「肉塊であるというよりはむしろ私」「私であるというよりはむしろ肉塊」のリバーシブル構造の往還を絶え間なく行き来する行為を作っていくことに意味がある。もちろん「器官なき身体」それ自体になりたい、あえて絶対無が自己限定せずに閉じた状態で、満たされていたい気持ちもようくわかるけれども。

これについて、昔のメモを見ていたら、
「月光が、この世の美と痛みに満ちた君の顔の上をすべってゆく 一つの体に溶けあったぼくたちが大洋にすべりでる」という言葉が書かれていた。
いったいどこから引っ張ってきたのかがわからないが、横にムンクの模写があったから、ムンクの画集かもしれない。
こういうのに接すると、「それ自体になりたい」の引力のほうに、揺らいでしまう。


最後に、過剰なピアッシングや、身体を縫ったり切ったり異物を入れて変形させたりする、「身体改造」についても、器官なき身体を求めるマゾヒストと同類の探究心が根本にあるように思われる例としてすこし言及しておきたい。

あくまで「おしゃれ」範囲のピアスやタトゥーではなくて、「まだこれでは全然足りないんだ・・・」みたいな、眼光鋭く、半ば何かに憑依されているのかというくらいの執念で身体改造道を極めている方々である。また、身体改造マニアの方の中には「悪魔」とか「ドラゴン」とか「宇宙人」とか明らかに異形の人外を理想としている人もいて、興味深い。「人間」に組織化され、地層化した器官を解いた先で、彼らは一体何になるのだろう。

某小説で有名な、舌先を二股に切る「スプリットタン」は蛇の舌だが、確かに「人間のかたち」から「鈍く輝く湿った赤い蛇のかたち」が見え隠れするのは想像するにゾクっとする。
それも、「言葉を使うとき」「食べたり、舐めたり、吸ったり、吐き出したりするとき」では、空間そのものを覆う地(コンテキスト)が「人間の地」から「蛇の地」へと、そしてその逆へと、絶え間なく変化する。それゆえ、唇の間からチロチロと割れた舌がのぞくたび、「人間というよりは蛇」、「蛇というよりは人間」と属性境界、地に対する図も目まぐるしく切り替わるのである(「生成変化」!)。

蛇の舌を持つ彼女はその都度、異なる地、異なる図を発生させている。
この時、地が変わるスピードに図の転回が追いついていないこと、図が切り替わるタイミングに地がズレることが重要である(トラウマ構造の発生の前提になるため)。
なお、図と地のどちらが優位などということは本質ではなく、図と地が高速で入れ替わる中で両者の境界、輪郭がぼやけてゆく点が重要である。それが、特有の落差と地面を踏み外す感じ、心地よいめまいを生む鍵になっている。

「現実的なのは生成変化そのもの、つまり生成変化のブロックであって、固定した項をいくつか想定し、そこに生成変化するものが入っていくのではないのだ。生成変化は、なるべき動物に相当する項がなくても、動物への生成変化と形容されうるし、またそのように形容されなければならない」(p.275)

つまり、生成変化とは「人間」や「蛇」というあらかじめ定められた図を平行に行き来することではないのだ。円環モデルでいえば、可能性の段階で列挙可能な項のうちのどれかにスライドさせるように変身するわけではなくて、「地」そのものが潜在性の領域からどんどん湧き出ることで、ストロボの光を散らすように、「地」もろとも変わらなければならない。そこで初めて「図」の色柄のままならなさが、ままならないものとして扱える(ハッとできる)ようになるのではないか。

ついさっきまで人間の形をしていたものが、気づいたら蛇語で喋っていた。
急にさみしくなって、鱗の肌を撫でて顔をあげたら、やっぱり見慣れた人間の顔がそこにある。
それはもはや、異類との交接。人間模様と蛇模様が次々に入れ替わる不思議な万華鏡とまぐわっているように思えるのではないか。さらに、滑らかで冷たい爬虫類の模様にうっとりと取り込まれているときは、自分も蛇のなかまになることができるのである。きっと、不意にガラスに映る二匹の蛇を認めたとき、言葉で名前を呼ばれたとき、簡単に「人間」に戻ってしまうのだけれど。。

器官なき身体、「○」と書くのも本当は余剰なのであるがーーは、そういうことが可能な地平に、すでに、直につながっている。


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