見出し画像

【対話篇】 八識が解かれたところで その1 分別智のモードチェンジ in process

有:有洲
W:way_findingさん

有:八識 (眼・耳・鼻・舌・身・意+末那識+阿頼耶識) が肉体の死後解かれたところで、大抵の場合には自分に何が起きているのかわからないんじゃないのかな。死者に対して「ゆっくり休んでください」と哀悼の意を示す習わしもそういうことだと思うけど、「八識がようやく解かれてよかった (ゆっくり眠れる)」と言えるのは観察者の意見、しかも相当わかっている者のコメントであって、多くは解ける最中ですら迷ってしまうのではないか。

W:まさにその通りで、八識が解けていく瞬間に何が起きているかわからず、怖くなってしまうんだよね。そして、気づいたら何か他のあれこれのものに生まれ変わっている・・・というのが「生死の海」の波飛沫のような、空海のいう「生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く、死に死に死に死んで死の終わりに冥し」というあり方なんだろうと思う。
 ところで空海が自分よりも先に亡くなってしまった甥であり、弟子でもある智泉というひとのために語ったことば、「亡弟子智泉が為の達嚫(だつしん)の文)」というのが伝わっているのだけれど、そこには「相当わかっている」方が亡くなった場合にどうなるか、ということがそれとなく書かれている。角川ソフィア文庫になっている『性霊集 抄』で、加藤精一先生の現代口語訳で読める。何が書いてあるかというと、次のような具合なんです。

大日経に「われ本不生を覚る云々」といい、また真言に、「ノウマクサマンダボダナン、アサンメイチリサンメイサンマエイ、ソワカ 云々」という […]これをひとたび誦せば、「我心・仏心・衆生心の三つが一つになるという三平等の自覚や、すべての身が法身大日如来と一体であるという確信を得ることができるのです。あなたは以前からこうしたことは体得していたと思いますが、いま私はあなたのためにあらためてこれを説きたいのです。

願わくば金剛界三十七尊、大悲胎蔵マンダラの諸尊、それぞれの四種マンダラに表わされる無数の諸尊との入我々入の功徳力によって、また六大無礙瑜伽という自身すなわち大日という深旨の力によって、数かぎりもない多くの諸尊とともに、あなたが、悟りの中であらためて悟りを証し、救われの中であらためて救済されますようにお祈りします。
智泉のみたまよ、どうか五智を備えた 大日如来の覚殿の扉を開けて、第八識を越えた密教の悟りの宮に入って頂けますように。さらに進んで法界に住して仏となり、あらゆる人々にまで心を至して彼らを救済して下さらんことを。無明煩悩におおわれている一切の衆生たちもこの真言密教の教えによってともにすみやかに、同じく悟りを証せますように。(加藤精一訳『空海 性霊集 抄』pp.163-164)

空海が「アサンメイチリサンメイサンマエイ、ソワカ」に言及するときは、たいてい非常に重要な仏教のロジックの核心にふれるのだけれど、これは要するに非同一性と同一性という対立する二極もまた異なることがない(つまり同一、というか同一でもなく非同一でもない)ということを言っている。
 これは「二辺を離れる」ただし離れたと言っても果てしなく遠くへ分離するような離れ方ではなく「蛇が脱皮した皮を放り出していく」程度に、その辺に転がしておくという具合の離れ方 (『スッタニパータ』)。つまり二辺を離れるでもなく離れないでもない、といった感じ。離れる/離れない、という区別もまた二辺に分けてるのでどちらか片方だけを選んでこだわったら残念なことになるのだよね。
 非同一性と同一性は、分かれていることと分かれていないこと、分離していることと結合していること、などと言い換えてもいい。この、分かれていることと分かれていないことが分かれているでもなく分かれていないでもないと覚ることで、「知性・感性」の分別を離れて、いわゆる鈴木大拙がいう「霊性」のモードに入るわけよ。

有:「あなたは以前からこうしたことは体得していたと思いますが」って、生前から行を積んできた智泉に対しても、死に際にはダメ押し的に教え含んでおこうという。

W:そうそう。で、この状態が「すべての身が法身大日如来と一体である」ということで、これが「相当わかっている」ということなんだけど、行者(この場合は智泉さん)大日如来とが一体である、ということをちょっと図解すると次のようになるらしい (図1, 2) 。

図1. 八識、五智、ユングの四機能がマンダラ上で対応する (way_findingさん作)
図2. 八識、五智、ユングの四機能のマンダラ上での関係  (way_findingさん作)

この図は何かというと、よくみてほしいのは、「前五識」「第六意識」「第七末那識」「第八阿頼耶識」と書かれているところ。
 人間は通常の自覚的な表層意識では、あれこれを分けて、どちらがいいかどちらだだめか、分けて選んでこだわっているのだけれど、その分けたり選んだりする仕組みが、いわゆる「八識」なんだよね。「前五識」というのは、「眼 耳 鼻 舌 身」で、それぞれ要するに、明るい/暗い、音が大きい/音が小さい、いい香り/悪い香り、美味い/不味い、前/後、などなどをばちっと分別している。現代風にいえば感覚というところかな。そういう感覚で、いろいろなものごとが「ある」のか「ない」のかを分けている。
 そして、こういう感覚を統合しているのがいわゆる「(第六)意識」。さらに人間の無意識では第七末那識と第八阿頼耶識といった働きも動いている。第七末那識は自/他、私と私でない、を切り分け続けようとする働きと考えておこう。それこそご飯を食べて、他の生き物の命をいただくということを考えるだけでもわかるけれども、私たちは常に、自/他を分けつづけ、その境界を画しつづけることで、「私ではないではない」ものとしての「私」を区切り出し続けている。この働きが第七末那識。そしてそのさらに前段で、「私/私ではない」に限らず、他のありとあらゆる区別を発生させ続け、互いに対立する二項の関係を分け続けるのが第八阿頼耶識。

有:うん。生物として必然的に備わっている個体存続本能が自己と環境の区別を志向するようにできているから、基本的な分別は生命現象として規定されるのだろう。第七末那識の働きを「「私」を区切り出す」機能と仰られたけど、こうした個体維持に必要な分別のメカニズムを言語的・記号的に拡張していくと、井筒さんの「言語アラヤ識」に近いものになるね。

W:そうそう。井筒さんが言語アラヤ識で言っているのは、意味分節イコール存在分節ということだもんね。この八識が、これは言い方として専門的に正確かどうかわからないのだけれど、いわば階層構造のようになって、私たちの自我の分別する意識を作り上げている。そうして、「前五識」つまり感覚で分別できるなにがあってなにがないか、ということを拠り所にして、その「ある」ものたちが「なにであって/なにでないか」、つまりその意味や価値を分別し、そうして末那識が分けてきた自/他の「自」の方と結合する価値や意味があるものと、結合する意味や価値がないもの(分離したいと思われるマイナスの価値や意味)を分ける。こうして「我分に執着する自我」が出来上がって生きている。そこから生/死を分けて、生にこだわったり、死にこだわったりするのでしょう。
 ところがこの我分に執着する自我だと「生まれ生まれ・・・」のモードであって、「相当わかっている」とはいえない。両者の違いは何かといえば、八識のフォーメーションの組み方が、少し違うのだよ。

有:八識にフォーメーションとかあるんだ。

W:うん。井筒さんは言語アラヤ識を真妄和合識とも呼んでいる。「妄」の方に編み上げられていくと執着を生み出す方向性の八識になる。それが、生まれて、ものごころついてから「次第次第に知恵づいて・・」というやつだけれど、ある程度八識が固まったところで、今度はこれを組み直して「真」に共鳴しやすいパターン、つまりマンダラに変容させることもできる。これについては安藤礼二さんが『空海』という本でおもしろいことを書いている。

「アーラヤ識の「識」としての働きが極まった瞬間、アーラヤ識をはじめとするすべての「識」が「智」へと変貌を遂げる (この変貌の段階その他についても諸説があるが単純化する)。 覚りを得るとは、仏に映る (成仏する) とは、アーラヤ識が大円鏡智となり、末那識が平等性智となり、意識が妙観察智となり、前五識が成所作智となることであった」(安藤礼二 『空海』pp.157-158)

この一節。とてもおもしろい。つまり、もともと分けて選んでこだわる用の仕組みとして組まれていた八識をほどいて、要するに分けるけれども分けるでもない、そしてこだわらない、というモードにチューニングする。そうして成所作智になった前五識、妙観察智になった第六意識、平等性智になった末那識、大円鏡智になったアーラヤ識が、どれかひとつだけ突出して自己主張して他を沈黙させたり無視したりすることなく、四つの「智」がそれぞれその得意とする分けつつつなぎ、つなぎつつ分ける動きを動かしながら、四即一にして一即四に、協力し合う、共鳴し合うようにする。
 
この状態こそ、行者が五智を備えたモードになっているということ、つまり、法身大日如来の瞑想の境地にあるということになる。

有:なるほど。編成のどんでん返し・・・じゃないけど、道具の使い方をガラッとモードシフトするのですね。後半は、ユングの個性化に似ている。一つの機能に同一化して、エゴ一辺倒になるのではなく、シャドウと適切にコミュニケートするという。大日如来の瞑想の境地と表現するとインパクトが強烈過ぎるが、個性化と言えば受け入れられそうだ。要は同じことなんだけれど・・・。

W:うん、ユングも五智如来のマンダラに影響を受けたということを何かの講義で言ってるよね。ちなみに、成所作智は不空成就如来、平等性智は宝生如来、妙観察智は阿弥陀如来、大円鏡智は阿閦如来の瞑想の境地で、この四つの瞑想の境地がいわば共鳴しあい、曼荼羅状の共鳴体を浮かび上がらせているモードが、大日如来の瞑想の境地、ということになるのだろうと思う (図1)
 
智泉さんは「すべての身が法身大日如来と一体である (自身すなわち大日) 」ということを、つまり八識をチューニングして五智如来のマンダラに変容させることを「以前から体得していた」のだよね。そうなると、いよいよ身体がその生命活動を終えようとするとき、まず前五識的な、身体感覚的な分別がゆるむモードに入り、そして思考の言語的な分別がぼやけ始めるのだけれども、これをそのまま、八識が、感覚的言語的に分けて選んでこだわるモードを解除していくチューニングのプロセスとして活用することができる。
 さらに、第七末那識による自/非自の分別もゆるんで曖昧になってくると、いよいよ無数の分けるでもなく、分けないでもない動きが伸縮しつづける第八阿頼耶識そのものの動きを己のものとすることができる。ここまでくると、生命の最後の残響のようなことを五智如来のマンダラとしてのパターンを浮かび上がらせる振動系として組むことができ、そしてこのマンダラパターンを浮かび上がらせる振動系を振動させたまま、その残響を、時間的空間的物理的分別を超えた「減衰」ということがあるでもないでもない、法界そのもののうちで、響かせ続けることができる。これが「第八識を越え」て、「さらに進んで法界に住し」ということなのだよね。
 そういうわけで「智泉のみたまよ、どうか五智を備えた大日如来の覚殿の扉を開けて第八識を超えた密教の悟りの宮に入って頂けますように」とあるけれども、これは誰でもできることではない。いや、できるできないでいえば、誰でもできる、いや、できるというとそれをやる主語が区切り出されてしまうから、できるとは言わないほうがいいね。できるというかやらなくてもそう「なる」。仮に、右往左往してわけがわからないままろうそくの火が消えるように八識が消えていったとしても、そのバラバラに解けた残響は、それはそれで微かに法界の中を響き続けることにはなる。そういう意味では何も消えてしまわないし、永遠に、というか時間の分別を超えて、命は相続されていく。

有:うーん。八識が生前のモードからは異なる仕様に変容してしまうという「現象」は同じだとしても、事前準備して心得た状態で臨むのと、そうでないのとではだいぶ違うでしょう。「自分が」意識的に働きかけなくても、波の満ち引きや伸縮の渦のように自然とそうなることはわかるけど・・・。それは動物も植物もかわらないことで。
 どちらがいいとかではなく、事前に準備をしておくと、味わい深さが圧倒的に異なると思う。ご馳走を真に楽しむためには、こちらもあらかじめ色々条件を整えておく必要があると思うけど、それに似ているかもしれない。せっかく自我とかいう謎機能をセットアップされた人間に生まれたのなら、生きているうちに生死に親しんで、「こういうまとまり」を味わい尽くしておいた方がおもしろいし、お得な感じがするなー。

W:うん。モードチェンジを自覚できる (その可能性を秘めている) ことが、言語を持った人間という「心」の面白いところだよね。五智如来のマンダラのような波紋を浮かび上がらせる共鳴体・振動体となって、いわばなんというか法界のただなかで覚醒したまま、言い方はびみょうだけれども如来のようなあり方で生き続ける、「法界に住して仏となり、あらゆる人々にまで心を至して彼らを救済」する活動に従事し続けようというのであれば、肉体的な生命のあるうちには分別のための仕組みになっていた八識を、速やかに五智如来のマンダラにモードチェンジする訓練に生きているうちから習熟しておく必要があるよね。そうすると、八識が解けていくただなかで「ああこれこれ、この感じ。こういうことだよね」と自ずとわかるようになる。
 生きたままの状態で、八識が分けて選んでこだわろうとする様子を観察しつつ、それもまたそのまま法界の顕れ、例えるならメレンゲのツノのようなもの、あるいはカタツムリのツノが生えてきて、その最先端に感覚器官が生えているような感じというのかな、法界に近いところから先端に向かうにつれて阿頼耶識、末那識、意識と前五識と生えている。通常は、意識より下のこと、すなわち無意識は見えなくなっている。人間は意識だけでポツンと孤立して生きているように錯覚しているけれど、そうではなくて、前五識や意識を使いながらも、その手前で、自他を分別する末那識、さらにはその下の阿頼耶識が動いているということを感じることが可能である。それが五智を備える修行のポイントになるよね (図3)。

図3. 五智を備える修行の方法はその人の特性に応じていろいろ (機根)

有:図3は、左から右への遷移、八識が五智に一変するようにも見えるけれども、正確には両者は重なっているよね。
 ところで、本質的には同じである器官を用いて、「八識モード」と「五智モード」、これら二つのモードを同時に兼ねるのは、むしろ生きている (肉体を伴っている) 状態じゃないとできないのかもね。ただ、これらを適宜切り替えながら運用するのであればイメージしやすいけれど(マントラや集中瞑想で前五識への刺激を限りなく減らすなど)、外的刺激を絶えず入れながら、なお五智モードでいるのは難しい。八識モードと五智モードを一異門破、非同非異で短絡すればいい (図3の左右を二重写しにするということ) のかと思うけど、言うは易しでしょ。

W:そうだよね。中沢新一さんが『精神の考古学』に書いておられることが参考になるかも。

「暗い紺色のフーム字を、激しい発声とともに、外界に送り出す。フーム字は周囲の景色を貫いて走り抜け、あらゆる具象物を粉砕していくのである。この暗い紺色のフーム字は自身の体内めがけて突入し、身体をことごとく粉砕し尽くしていく。身体は実体性をなくして透明になっていき、まるで自分の身体が鏡の像のように感じられてくる。像はあるのに実体感がない、という状態が現出する。

 なかでも面白いのは、自分自身を三十センチほどのフーム字に変えて、世界を空に清掃していくという行である。このフーム字はまるで蛇のように体をくねらせながら、地上を這っていく。 山があったら山を越え、家があったら家を乗り越え、「まるで旅人のように」くねくねと進んでいく。すると蛇のくねっていった跡には空に浄化された空間が広がっていく。」(中沢新一『精神の考古学』p.137)
 

外界を主に視覚的、前五識の眼識の分別モードに映る様相でとらえながらも、同時に、それを上塗りして払っていくようにして、あるけれどもない、ないけれどもある、といった状態にする。空海の即身成仏もそうだけれども、まさに八識モードを保ったまま、五智モードにチューニングする
 そういう多重化はいろいろと試みられて、行法として洗練されていったものもいろいろあるのだと思う。

有:一種のイメージワークだよね。こうした、前五識的な分別をイマジネーションによって異なるあり方に転換するというか、詩的で超感覚的なあり方に再孵化させるとしても、上塗りした上から上塗りするかのように、言語的な分別はフルオートに流入し続けるのだろうなあ。「頓挫し続ける行為が大事だ」と最近しきりに言ってるけど、チューニングしようにも絶えずズレてしまう、ズレを感じ取って再チューニングを試みる、そういった過程が私たち凡夫にとっては重要なのではないかと思うよ。「空」とか「解脱」を最終到達点みたいにドーンと位置付けるのではなくて、「解脱というプロセス」。解脱 in process、そこには迷いも含まれる。

                        その2につづく・・・


いいなと思ったら応援しよう!