aikoにおけるデカルト的主体から西田的主体への転向解釈のすすめ

とうとう深刻に意味がわからないタイトルになってしまった。。

私はaikoを好んで聴いている。好きな曲色々あって全然選べないけど、「夏にマフラー」「二時頃」などが特にいいです。
aikoの歌詞では、一人称は「私」ではなく「あたし」である。不特定多数の「私」に言葉が霧散してしまうのを、「あ」の一文字で食い止めつつ、逆に「あたし」が語り手になることによって、歌詞世界が「すべての『あたしの』私小説」になっている。

ところでaikoの歌詞における、「あたし」はどのような立場から位置づけられているだろうか。

私は、通常想定されるところの確たる客観的な認識主体、すなわちデカルトの「我思うゆえに我あり」という能動的主体を軸に解釈するのではなく、受動的な主体、西田幾多郎が言うところの「物来って、我照らす」から「あたし」を規定した方が、ラブソングとしての凄み、美しさ、追い込まれ方、突き上げる熱量が全然違くなると考えている。
もっとも、あらゆるものを美しがろうとすると、必然的に主体は受け身になるのだが、ともかくこれをして、aikoにおけるデカルト的主体から西田的主体への転向解釈を提唱したいのである。

「時のシルエット」収録の「くちびる」という曲は「あなたのいない世界には あたしもいない」という詞からはじまる。これを考えてみる。
「あたし」と「あなた」はどちらが先行するのかという問題ではない。思うに、「あたし」と「あなた」の成立は同時なのではなかろうか。厳密には、同時も何もないよじれた事後的な自覚と言おうか。もちろん、これまでにもどこそこの誰という特定の「あたし」は存在したのかもしれないけど、「あなた」と対峙した瞬間にブワーっと、いろんなグチャグチャな感情を巻き込んで螺旋状に立ち上げる「あたし」、その瞬間では頬のあわだちにすべてが宿るような「あたし」はその時その場限りのうねりなのであって、これまでの「あたし」とは決定的に異なっている
これを、デカルト的な連続する理性的主体の延長で捉えると、それもコギトの明証性に折り込まれ済みというか、なんというか「たかだかそんなもんか」という感じで、物足りない。つまらない。予定調和である。もっと崩してほしい。
ちなみにレヴィナスは、こういうことを言わんとするとき、主体の「核分裂」という表現をする。まさにそんなイメージである。また、分子が原子に分裂することによる同一性の崩壊は、新たな物質の組織化を可能にしてもいる。ドゥルーズみたいになるが、「あたし」の恒常的連続性が不断に切られることによってむしろ「あたし」は生き生きと、瑞々しく泳いでいくことができる。

ゆえにそこでは、主体は「あたし思うゆえにあたし(に思われるあなた)あり」という世界解釈を可能にする自律した留め金、同質の延長を拡張するソリッドな安定点ではなくて、一期一会的に浮上消尽する目に見えない(リキッドな)現象、つまり「あなた来って、あたし照らす」においてかろうじて点滅する発光体と解釈されるべきだと思う。「あたし」のまたたきの仕方や強度はその時々で異なっていて、それの切り取り方がラブソングの「質」なのである。ボワっと光る時もあれば、雷電のごとく疾駆することもあるし、光っているのか微妙なほどの僅かな光が甘怠く残留することもある。「あなた」を受けてくるくるかわる「あたし」の明滅の加減によって、言葉は、音楽は、メロウになったり、バラードになったり、アップテンポになる。

西田をひいてみる。

「愛は人格的でなければならぬ。人格的統一と考えられるものは、私において汝を見、汝において私を見るということでなければならぬ。非連続の連続として人格的統一というものが成立するのである」(「西田幾多郎哲学論集1」 無の自覚的限定, p260, 強調筆者)

「私と汝とは単に外界を通して相交わるのではない、人格的自己としての私と何時との間には直接の結合というものがなければならぬ。私が汝を汝と見ることによって私であり、汝は私を私と見ることによって汝である」(同上, p.261, 強調筆者)

上記の「汝」を「あなた」、「私」を「あたし」と置き換えると、「あたしがあなたを「あなた」と見ることによってあたしであり、あなたはあたしを「あたし」と見ることによってあなたである」と、なる。言っていることは西田哲学なのだが、aikoの歌詞にありそうな感じがしてくる。表現が極度にややこしいaikoというか。。

普段、昨日も今日も同じ自分で、明日もこの先もずっと同じ自分が引き継がれているという体でひととおり社会生活をやっている以上、「差異による同一性」みたいなことは体感的にあまり意識されない。むしろ、意識しない方が生きやすい。
しかし、キワキワの恋愛(とか芸術とか)を考えるとこうした感覚は割りによくあるのではないかと思う。世界を「もっと知りたい」と思う、つまり「恋慕う」ようなまなざしが、「芸術」が産出するものと考えれば、一次的なのはやはり愛なのかもしれない。
西田は「己を空くした」主体を外界をうつす鏡に例えるが、広義の恋愛主体(世界を恋慕っている渦中の主体)とは、破れた切片がきらきら乱反射する鏡であって、限りなく透明な「場所」になるのではないか。

aikoにとって、「あなたのいない世界には あたしもいない」(「くちびる」より)ということと、「あなたに出会えたことが あたしの終わり」(「ずっと」より)は一切の矛盾なく即座に、なめらかに、この上なく自然に(京都学派的に言えば「直接無媒介に」)結びつくのだろう。そこでは通常の因果関係はナンセンスと化し、むしろ「だってそうなんだもん」が絶対的な力を持つ。堂々と「だってそうなんだもん」と信じられることが道理になる。
「あなたに出会えたことが (不動の同一的主体としての)あたしの終わり」をあらわす決壊の相であれば、「あなたのいない世界には (差異に根拠づけられた純な)あたしもいない」という生成の相が光の反射のように、声が反響するように、ともに湧いてくる。そこに矛盾はない。

こういう哲学が、素朴で小さな「あなたが好きでしょうがない」という気持ち、例えばラインの返信の語尾をどうするかとか、(キモくならないような)相槌の角度とか目のやり場とか、そういう微々たる動作一つ一つに集約されている。またそれは、年齢性別関係なくいつでもどこでもどんな時代でもパッと兆すものであって、何も特別なことをしなくても十分すぎるほど満ち満ちている。そういううれしさをaikoから得るとともに、西田幾多郎を読んで「いいなあ」と思う気持ちの余韻をどこまでも広げていける、aikoで。。


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