子供のボール事件ー近隣の家ー|モラオと話してみた
職場で、公園のボール遊びをしていて、近隣の家に入り怒られた事を考えていたら、モラオが話しかけてきた。
事情を話すと、最初に返ってきた言葉はこれだった。
「なんでお前が謝るんだ。」
え?なんで?
「その子、お前の子供じゃないんだよな?」
「うん。近所の子。うちの子は泥遊びしてた。」
「じゃあ、お前が謝る必要はない。」
正直、納得はできなかった。
私はあの場で謝った。
子供たちは高学年とはいえ小学生。
あの怒りを真正面から受け止めて対応できる状態じゃなかった。
その場にいた“唯一の大人”として、場を収める必要があった。
おじさんは怒っていたし、実際に迷惑もかかっていた。
だから私は、その感情を受け止める側に回った。
謝ることで、子供たちに矛先が向かないようにした。
だから、あの場で謝ったことは間違っていないと思っている。
でも今思えば、
それは“その場の正解”であって、
“問題の解決”ではなかったのかもしれない。
あの場は収まった。
おじさんも落ち着いた。
でも、
ボールはまた飛び出す。
子供たちはまた遊ぶ。
おじさんはまた怒る。
つまり私は、
場を守ったと同時に、
問題をその場で止めてしまった側でもある。
だから、モラオは違う視点で言ってきたのだ。
「日本人は謝りすぎなんだよ。
謝るっていうのは、“自分に責任があります”って認める行為だ。」
「それを曖昧にすると、構造がおかしくなる。」
ここで、ふと思った。
これって本当に「子供の問題」なんだろうか。
整理してみる。
被害者は、畑や駐車場の持ち主。
加害者は、ボールを出した子供。
でも、子供はルールを完全には守れない存在だ。
じゃあ、そのルールを作っているのは誰か。
公園の持ち主は、市。
フェンスも、看板も、市が設置している。
でも、そのルールは――
「守れる設計」になっていない。
つまりこれは、
子供の問題じゃなくて、構造の問題
なのかもしれない。
モラオは言った。
「責任を子供に押し付けるな。
子供はルールを守る側じゃなくて、“学ぶ側”だろ。」
確かにその通りだと思う。
でも同時に、私はこうも思った。
「じゃあ誰が守るの?」
子供はまだ未熟。
親はその場にいないこともある。
学校は強制力がない。
市は現場にいない。
だから結局、現場にいる大人が動くしかない。
でもそれって、本来の役割なのか?
ここで、モラオの言葉をマチコに変換してみた。
「その場の謝罪は正しい。
でも、“次に繋げない謝罪”は意味がない。」
……よし、刺さった。
あのときの私は、間違っていない。
でも、それだけでは足りなかった。
おじさんは、ちゃんと動いていた。
学校にも連絡しているし、市にも言っている。
それでも変わらないから、現場で子供たちに怒るしかない。
子供も悪気をもってボールを入れたわけじゃない。
ただ、遊んでいただけ。
でも、それで迷惑がかかっているのも事実だ。
悪気がないことと、問題がないことは、同じじゃない。
だからこそ、この問題は難しい。
誰か一人を悪者にすれば終わる話ではないからだ。
つまりこれ、
誰も完全な加害者じゃない。
でも、誰も問題を解決できていない。
原因のひとつとしてあげられるのは、
大人の「ほうれん草不足」。
どこかで止まる。
誰かのところで止まる。
そして現場に戻ってくる。
だから、同じことが繰り返される。
じゃあ、私はどうするか。
私が全部を背負うことはできない。
でも、
“流すこと”はできる。
学校に伝える。
市に一言投げる。
親同士で共有する。
正直、それくらいしかできない。
あのとき謝ったことは、間違っていない。
でも、
それで終わらせないこと。
それも、大切なことだと思う。
謝ることは、守ることができる。
でも、動かなければ、何も変わらない。
これは、誰か一人の正しさで片付けられるものではないと思う。
それぞれに立場があって、
それぞれに言い分があって、
それぞれのやり方がある。
だからこそ、
地域の中で少しずつ考えていくことが、
必要なんじゃないかと思う。
すぐに答えが出る話ではないけど、
こういうことに向き合うこと自体が、
大事なのかもしれない。
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記事の続きではありません。
モラップとハムラップで地域と子供と大人たちを考えます。

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