【創作小説】奈落の観測者⑩ ― 歪んだ天秤 ―(前編)
「平均値20日、最大値で1ヶ月、か……」
隠れ家の薄暗い灯りの下、レオンは手元の資料に目を落としながら、その数字の持つ重みに吐息を漏らした。
「ああ。それが『コルナウイルス』の潜伏期間だ」
モラドはモノクルの位置を微調整しながら、冷淡に言葉を繋ぐ。
「これほど長期にわたる潜伏期は、一見すれば生存者への猶予に見える。政府や他国の報道機関も色めき立っているようだ。『この期間内に新たな発症者が確認されなければ、船内の人間は全員解放される』――と、一斉に楽観的な記事を書き連ねている」
レオンが持ち帰った各国の報道資料にも、確かにそのような希望的観測が踊っていた。
だが、モラドの視線はその文字の裏側――社会の底流で蠢く「真の歪み」を捉えていた。
「だが、問題は『解放』ではない。すでに発症し、隔離されている感染者たちの行き先だ。彼らをどこへ収容するのか。その一点において、世界は今、醜く揺れている」
船外の世界では、感染者の国内受け入れに反対する民衆が大規模なデモを起こし、街を埋め尽くしていた。
見えない恐怖への拒絶反応。
しかし、その群衆を率いるデモの指導者や政治家たちは、水面下で「人道的な受け入れ態勢の模索」をアピールし始めていた。
一見すれば、民衆の暴走を宥め、命を救おうとする高潔な人道主義者たちの動き。
しかし、モラドの目に映る光景は全く異なっていた。
彼の「悪意の可視化」は、その指導者たちの背後から立ち上る、粘着質で計算高い漆黒の欲望を明確に捉えていた。
「彼らは民衆の味方面をしつつ、裏では大国とのパイプを繋ぐための実績作りに奔走している。人道主義という美しい盾を使えば、どれほど強引な政策も正当化できるからな」
モラドは淡々と続ける。
「……最終的な落としどころは、アメリウス連合やブリタニア王国といった大国だ。彼らは民衆の叫びを力で圧し殺し、治療薬の開発やウイルスサンプルの確保という『実利』のために、最終的には受け入れを決定するだろう」
全ては、構造化された悪意のチェス盤の上。
誰も純粋な善意などで動いてはいない。
モラドは、じっとペンを握ったまま沈黙しているレオンへ、静かに視線を向けた。
「レオン。もし、お前の妹――リゼ=クロニカがその泥沼から無事に助かったなら、お前はこの件から手を引け」
それは観測者としての、冷徹ながらも確かな忠告だった。
これ以上深入りすれば、国家という巨大な悪意の歯車に確実に巻き込まれ、圧し潰される。
だが、レオンは首を振らなかった。
航路図に落としていた視線をゆっくりと上げ、モラドを真っ直ぐに見据える。
「……断る。手を引くわけにはいかない」
「リゼが悲しむぞ。救えれば、お前たちだけは無事だ」
「リゼを救うのは当然だ。だが、俺が書くのをやめれば、世界の沈黙はその隙に、もっと悪いものを際限なく増殖させる。真実が隠された暗闇の中で、奴らは次の獲物を生み出すだけだ」
モラドは僅かに目を細めた。
「純粋な青だな。その青が黒く――」
そこまで言いかけ、言葉を止める。
続きを口にするのは、あまりにも無粋だった。
レオンは手に持ったペンを強く握り直した。
戦闘能力は限られていても、彼にはこの現実を言葉へ変え、世界へ流通させる役割がある。
「俺は、誰に何を言われようとも、このペンを止めることはできない。俺の能力は、そのために与えられたものだから」
その言葉に、モラドは何も返さなかった。
ただ――未来視の視界の端で、より深く、より逃れがたい破滅の因果が、静かに形を成していくのを見つめていた。
