掌編小説|青色の靴音
月の花の上で、青色のピンヒールがコツコツと鳴っている。音はとても硬質なのに、宵に触れるとすぐに丸くなり、遠くへするすると溶けていった。
花は土からではなく、光から咲いていた。月光を何層にも折りたたみ、白く、透けて、呼吸するたびにわずかに脈を打つ。踏みしめると、花弁の奥からぬるい湿り気が滲み出し、ヒールの裏をやさしく濡らす。壊れているのに、拒まれていない。その曖昧さが、彼女の歩調を狂わせた。
彼女は自分の名前を。呼ばれ慣れた役割を、この場所に置いてきていた。呼ばれる必要のない夜のために、声を脱いだのだ。足首は露に光り、影は月に引き延ばされて細くなる。青色のピンヒールは、深海の底でひとり残された色のようだった。沈みながらも、なお、艶を失わない色。彼女はその色を、ずっと前から知っている気がした。まだ何も始まっていないあのころ、終わりだけを予感していた夜の色。
一歩進むごとに、月の花は静かにため息を吐く。それは、誰にも見つからないように抑えられた、やさしさに似ていた。空気は重くて、なのに甘い。香りには名前がなく、喉の奥でほどけるだけの意味しか持たない。吸い込むたびに、胸の奥がわずかに熱を帯びる。思い出そうとしなくても、記憶は勝手に浮上してきた。触れられなかった指先、視線だけで終わった夜、約束にならなかった言葉。すべてが混ざり合い、ぽつりぽつりと、花弁の下へ落ちていく。
彼女の呼吸は浅い。それでも、乱れてはいない。理性はまだ、かろうじて形を保っている。壊れていない。壊すほどの勇気も、ない。月の花は、踏まれるたびに音を立てずに壊れる。壊れることが役目であるかのように、潔く、従順に。彼女はそのやわらかさに、かすかな罪悪感を覚えた。奪っているのに、許されている。その感触が、踵から脛へ、膝の裏へと、静かに静かに、じわじわと這い上がってくる。
立ち止まると、宵が彼女を見た。数え切れないほどの月が、同時に瞬いた気がした。ここで止まれば、戻れる。そう、知っている。けれど戻った先にあるのは、正しさと引き換えに、きれいに乾いてしまった時間だけだ。彼女はもう、乾いた場所で呼吸する方法を忘れていた。素足のまま、立ち続けることができなかった。
コツ。一歩。ヒールが花を割り、白い湿り気が弾く。コツコツ。二歩。忘れたふりをしていた体温が、皮膚の内側で目を覚ます。腰の奥が、かすかに疼いた。それは欲望というほど強いものではない。ただ、生きている証拠のような、逃げ場のない熱。彼女は自分の身体を、上から順に思い出していく。鎖骨のくぼみ、喉の影、胸の重さ。誰にも見せないまま年を重ねてきた曲線が、月光の下でだけ、意味を持ち始める。ここでは、隠す理由がない。見られていないのに、裸でいる感覚だけは、ずっと残りつづけている。
花の海はどこまでも続いているように見えた。けれど彼女は、終わりが近いことを知っている。夜はいつだって、永遠のふりがうまい。
だからこそ、人は油断してしまうのだ。最後の数歩、靴音は次第に低くなり、やがて、音そのものが夜に吸い込まれていった。青色のピンヒールが、月の花から離れる。振り返らなくても、もう踏めないことがわかる。花は閉じ、光は畳まれ、何事もなかったように、闇が元の厚みを取り戻す。
彼女は立っていた。何も持たず、何も失わず、心だけは、形を保っていなくて、ただ、体温だけを夜に残して。月の花は、もう咲いていない。それでも、青い靴音だけが、いつまでも、彼女の内側で鳴っていた。コツコツ。──頬を濡らしたものが、涙なのか雨なのか、彼女にはもうわからなかった。月の花が、静かに乱れていた。雨は透明なはずなのに、この青色のピンヒールが、ひどく似合っている気がした。
了
こちらの企画に参加させていただきました。
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