掌編小説|焦り始めたので、そろそろ見頃です
夜になり、灯りを落としたリビングは、冬のしっとりとした温度を含んで、ゆっくりと静寂をまとっている。その中心に置かれた鉢のなかにある黒い蕾だけが、季節を無視したように、むくむくと湿った気配を漂わせていた。窓の外では、風がカタカタと細い声で鳴っている。ガラスの向こうの冷たい世界と、部屋の内側のほのかに甘い空気が、混ざり合う匂いがする。外と中。境界線がどんどん薄くなっていく。
この花を手に入れた日のことを、よく覚えている。駅前のクリスマスマーケットで、冬の終わりの光がふわふわとお砂糖みたいに漂っていた午後。古い陶器の鉢に植わったこの蕾を、白い髭のおじさんが撫でながら言った。
「育て方を間違えないようにね」
あのときの言葉が、今になって骨の髄の奥にまで突き刺さる。植物を育てるのは、得意な方だと思っていたけれど、でも。
この花はいつも空気を変える。私が心の奥で焦りを感じたとき、それは決まってそーっと膨らむ。ほんの数ミリだけれども、日に日に存在が濃くなっている気がする。
職場でミスをしてしまった日に。他人の言葉が胸に刺さって抜けなかった夜に。知り合いとすれ違った帰り道で、知らない人のフリをしてしまった日に。そんな一つ一つの焦りが、この蕾に吸い寄せられていく。強い香水がゆっくりと、じんわりと染み込むみたいに。もう抜けないほどに、くらくらとする濃厚な香り。
蕾の表面は滑らかで、光の角度によってかすかに紫が浮かび上がる。真夜中にしか現れない、濡れた夜の色。触れたらきっと冷たくて、でも肌の表面だけは熱を吸われるようにすうっと火照るような、そんな質感。
私はその冷たさを思い浮かべるだけで、胸の奥に、ゆっくりと甘い痛みが満ちてくる。今日、玄関を開けた瞬間に漂った香りは、ここ数年でいちばん濃かった。腐りかけの果実の鼻の奥までツンとするような甘さと、湿った土をひっくり返したときの生ぬるい匂い。官能的で、危険で、嗅いではいけないと思いながら、深く、深く吸い込んでしまう。蕾の先端が、薄く裂けていた。裂け目の奥から淡い光がこぼれ、その光が床に落ちるたび、誰かの指がそこを撫でて去ったように揺れる。
「……ずいぶん、待っていたんですね」
声が震えたのは寒さのせいではない。花は音を立てずに、はっきりと震えた。応えている──そう思わせる動きだった。寂しさを癒すわけでも、慰めるわけでもない。ただ私の弱いところを味わうような震え。私はその震えに、奇妙な安心を覚えてしまう。怖いのに……離れがたい。逃げた方がいいと知っているのに、この花が咲く瞬間を見届けずにはいられない。明日、花は開くだろう。そのたび、世界から何かが消える。そして代わりに、私の焦りだけが奇妙なほど軽くなる。代償はたぶんもう、数え切れないほど払ってしまった。それでも……私は蕾に向かって、そっと囁く。
「焦りはじめたので、そろそろ見頃です」
その言葉と同時に、部屋のすみっこで微かな吐息が聴こえた気がした。私は今夜もこの蕾に身体を預ける。甘い甘い香りに酔いながら。犠牲にしたことなんて、無かったことにして。
了
こちらの企画に参加させていただきました。
極夜さんの下書きをお持ち帰りさせていただいたので、世界観を真似してみました。艶やかで、直接的ではない表現なのに、魅力的で官能的な作品。官能的なのに、上品さが漂うあの世界観は真似するのが難しかったです。
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