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「感情なんかいらない?」

(起)

ALSという病だった患者本人から「殺してほしい」と言われ、安楽にさせた医師2人の行為について、同感し共感し尊重しようとしていた、ある意味においては尊敬できる行為だなとまで、いつかのニュースを見て僕はそう感じていた。けれど、後日の新聞には本人から金銭が振り込まれていたとの事実が書かれていた。利害損得の絡まない、医師の立場を投げ捨てた、患者の決心に寄り添った、きれいな行為だったと思いたかった。やっぱり金か、それも100万ちょっとの金か、長い溜息を含んだ沈黙だった。彼らにとったら小銭のような金銭感覚じゃないのか、そんなに金が欲しいのか、それほど何が欲しいのか、いったい何を得たいのか、どこへ向かっているのか、むろん〇〇だと断言できるのか、そのお金を使える精神はもはや変質だ。言葉にならない願いを、善意の信念で貫くさまとして行っていたのなら、全く逆の感情になっていただろうし、安楽死について考えるきっかけにもなっただろう。一度付けた人工呼吸器を家族や本人の意志で外すことは日本では認められていない。なぜなんだろう。わからない。
想いをおしはかるしかないのだ。手助けをすれば逮捕されるのだという日本の現実を含めて考えただろう。例えばオランダなら安楽死は合法なのだから、それは絶対悪ではない行為のはずだ。絶対悪なら全人類共通なはずだからだ。煙草だって大麻だってそうだろう。大麻は合法だけど煙草は懲役の国もある。何が正しくて何がそうじゃないなんて至極いい加減そのものだ。人間は絶望すれば最終手段として自らを殺めることが出来る。それは生きていく上で大いなる救いだ、保険だ、そしてそれは迷いのない決断だろう。それすら実行できない、許されない、天井を見つめながら熟考を重ねた患者のことを想像できるのか。そんなこと、同じ立場でなければできるはずもない。さあ、自分ならどうするのか。人工呼吸器を付けて生き耐えて、生き抜くことができるのか。いうまでもなく強くはないから、選択できないだろう。考えることすら出来ないかも知れない。時には、延命が正しいとは限らないはずだ。「生きるが死ぬより」が見える化、数値化できなければ、法律は変えることができないのだろうか。切実な意思決定は尊重されるべきだ。自殺と安楽死って同じことじゃないのか。いったい何がどう違うのか。時期がくれば意思を表明しなくてはならない、人工呼吸器を付けないという決断は自殺ではないのか。安楽死なのか。どうなのか。自分の最期を自分で決めることが許されるのは、人間として生まれたからこそ与えられた大きな力だと思う。大きな砦だと思う。やはり大きな救いだと思う。もちろん安楽死は他者が行為に介入しなくてはならないから、課題があるのは容易に想像できる。けれど、可能な国もあるのだから、決して不可能ではないはずだ。個人的にそう思う。    

前回の投稿で「つぶやき」として投稿するつもりでした。  
少し加筆できたので「つぶやき」として投稿しなくてよかった。 
 先の見える医療、回復の見込みのない苦しみ、その先というものについて時折だが考えてきた。
これをエッセイなり、可能なら小説としていつの日か表現してみたいけれど、それはたぶん難しいことだろう。        
                     2026.7
                                   

(承)

前回の投稿の翌日であった。
必然とも偶然とも言えないけれど、NHK Eテレ こころの時代選にて「医師にして僧侶・和泉唯信」という番組が放送されていた。
和泉さんはALSの専門医にして浄土真宗僧侶でもある。
なぜ苦しむ人と歩み続けることを選んだのか。患者との出会いと別れを通じて問い続けた「終わりある命を生きる意味」とは。
そのような番組であった。
特に印象深かった言葉が蘇ってくる。

幸せとはいろいろな形があるのだ。
「人の命は1回限りで尊い、それは言うまでもないことです」
「しかしそれは〝長ければいい″ということとは同居しない話だと思います」
「その人がその人らしくそこで終わりを迎えるというのは同居できる考え方だと思うのです」

「医療においては死をもって終わりですから名実ともに終わるわけですけど、仏教は亡くなった人から教えてもらうことが大切で、死によっても終わることのない働きをとく仏教の教えに支えられてきました」
「身体はなくとも働き続けている、私のために色々なことをしてくれているという受け止め方もできるんですね」

死者はどのように心の中に生きつづけていくのか?
「亡くなられた時にはこれからもあなたたちの所へ帰ってくる、それが私たちの導きになる、そこが大切なところだと思っております」
医療と仏教は共存できるもの、高めあうものになるんじゃないか。

どうしようもない死
どうしようもないままでいいのか?
「命とはだれかにとっての分身です。だから尊くて大切にしなくてはいけない」

休日には全国に暮らす患者の家に自費で訪問されている。
「なにもできないが行くということに意味があると思いますよ」
自身で患者の表情をたしかめ、その声に耳をすます。
家族とも向き合いつづける。
行くということにと強くおっしゃっていた。
稀有で大切な存在だ。

優しさとは論ずるものでもないし、理屈でもないのだ。その人から湧き出る自然な空気だ。
もっともっと単純なものなんだ。
この番組を見て間違いなくそう確信している。
感情を砕いてあたかも言葉にしたって造りものにしかならない。
思い込みでしかない。
優しさというのは目を向けたくないものから生まれてくるものかもしれない。
さらにはくるしみを伴うものかもしれない。

主観であるはずの感情がそれだけのものでなくなってしまうゆえだろう。
それはきっと素晴らしいことだろう。
だってほら、想像したら分かるだろう。

確かな言葉にできる人もいることは否定はできません。けれども。それよりも。もっと。


(転)

つい先日の新聞にあった。
フランス国民議会(下院)は15日、回復の見込みのない重篤患者が医師の用意した致死薬を自ら服用する「自殺ほう助」を認める法案を賛成多数で可決した。
対象は、18歳以上の患者で、耐えがたい苦痛があり、医師に対して明白な意思表示ができることなど厳格な条件を定めた。
医師や看護師が致死薬を投与する「積極的安楽死」についても、身体的に患者が自ら服薬できない場合に限って認めた。
保守派からの反対も根強く、法案は上院で否決されていたが、下院の優越により成立した。
今後、憲法院による違憲審査を経て、施行される見通しだ。
欧州では重篤患者に対する積極的安楽死や自殺ほう助を認める動きが広がっている。
英BBCによると、オランダやベルギー、スペインなどで法制化され、英国でも余命6か月未満の患者を対象にした議論が進んでいる。

個人的には大賛成だ。
日本も伝統のように保守的な「延命一択」だけでなく、景色を見渡せるように、そろそろ選択肢を考えていくべきだと思う。
死に方も生き方と同じように多様なものであってほしい。
                                                                  2026.7

(結)

初めて就職した先で仲良くしてくれた人の声を思い出していた。
Uさんはいつも柔和な人柄だった。
人を湯たんぽのように包みこむ安心と誠実でみんなからUさんUさんと慕われていた。
産毛みたいにびっしりな捻くれを装っていた僕にもよく話しかけてくれた。
母親よりも歳上であったから、気兼ねなく話ができたのだろう。
どういうことをどんな風になんて1ミリも思い出せないけれど、かなりナチュラルな本音をナチュラルに言ってしまっていたように思う。
出会ってから時間感覚のないままに、Uさんは定年後の再雇用も終わって職場をさっそうと去ってしまった。
最終日の少しまえに電話番号の交換をした。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

数年後、思いがけずUさんから連絡があった。
久しぶりの声色が本当にうれしかった。
近況を兼ねて食事をしようとなった。
高架近く、ひっきりなしに車の流れるファミリーレストランで待ち合わせをした。
Uさんは時間を踏んでいなかった。
そのままの安心感に覆われていた。
過去や今の話を色々とした。

楽しい時間はすぐに終わりになりかけていて、もうすぐさよならを告げようとしていた。
Uさんもそのことを察知していたと思う。

Uさんが笑顔のない顔になって僕を見た。

「H君はやさしい。だけどね、辛い人や苦しい人のことはもう考えなくてもいい、あなたはあなたの人生を歩んでいきなさい。」

前触れなく、それだけ言ってまた笑顔に戻った。
僕は何も言えなかった。
うなずきも返事もしなかった。

行き交う車のなか、大手を振って、お別れをした。

あれから早送りのように変わらず、今になってしまった。
Uさんもきっと変わらず、元気にされているような気がする。
いま、Uさんのあの言葉の深意を考えていた。

                  (終)



追伸:

個人的なことなのですが、先月中旬頃からごく短期間に左頬の横寄りに腫瘤が出来てしまいました。
皮膚生検結果は悪いものではなくて、良かったと思えた自分がやっぱりいました。
けれど見た目が気になるし、薬でもう少し小さくなるかも知れない?とのことなので、そのあとに形成的に取ってもらおうと思っています。
偶然になってしまったので仕方ありません。
いつだれがどうなるかなんて神さま仏さまにも分からないのです。
これはたぶん本当のことなのです。

しかし不思議なものです。
例えば道端に1センチのゴミが落ちていたとしてもそれに対して何かを感じる人はいないでしょう、けれどいざ自分の顔面に1センチの欠片が付いていたら気にならない人はいないはずです。
これは不思議なことなのです。

さらに不思議なことはあれ?あれ?という間に隆起してきて、最初の1週間くらいは気になりすぎて鏡を見るたびに凹んだんですが、今も変わらずあって見た目は変わらないはずなのに、良性だったというのもあるのですが、ヒフの一部に見えてきて、ほとんど気にならなくなっているのです。もしかしたら前からあったのでは?のような他人感覚に自分でびっくりしています。
すごく親身な診察、笑顔で美人の先生が担当して下さってラッキーくらいに思えています。

いちいち書く必要なんてなかったのですが、いつものようになんとなくです。
そう、なんとなくです。

さて、7月でnoteを始めて4年が過ぎました。
以前も書きましたが、noteを始めて本心でよかったと思っています。
かなりの本音を書けて何よりそれを読んでもらえたからです。
3年目の時も書いたような感じがしますが、感謝を込めています。
キリのよい5年まで続けることが今の目標?です。

さらにはみなさんの投稿を読むのを楽しみにしています。

連休明けたらハア夏夏夏よ、この身で乗り切れるかしら、またの日までみなさんお元気で。


※※

残あと1試合、ワールドカップが楽しみ。
小学生の時に野球ではなくて、サッカーをしていた記憶の名残りかも知れない。
日本時間20日午前4時キックオフです。
今、午前4時39分です。観てます。

もうすぐで1週間が過ぎます。
はやー すぎます。

先日、メッシのインタビューを見ていたら、僕に見えてきたと言ってきた女性がいた。
いやいやどこが?いやいやどこんが?
雰囲気?声の感じ?小さいパーツの一部分?
まあ何はともあれうれしいですけどね笑

強豪国は国中の老若男女が構わず熱狂していた感じがすごくします。
長い時間をかけてそうなったんでしょうね。


※※※

つい先日、半分眠ったような感覚だった。
あまりの寝苦しさに暗闇のなか手探りでリモコンを探し当て、冷房を押したらすぐに寝落ちしていた。
どのくらい時間が経ったのか、今度はあまりの熱気と寝汗に耐えれずさすがに起き上がった。
いくら何でも暑すぎる。何かおかしい。
薄々と気がついてきた。
そういうことだったのだ。
確認をしなかったからなのだ。
みなさんも気をつけてください。


※※※※

美輪さん演ずる黒蜥蜴を観たくなった。
もう一度は叶わない。
そんなのわかっている。
言ってみただけだ。
思い出していた。
あのときが映っている。


※※※※※

「感情」という曲を聴いている。

感情があって
悲しさはそれの一部分だから
涙が流れる はずはない

なぜ流れるはずはないんだろう。
最大限の悲しさだったとしても、それは感情の一部分であって、決してそれだけではないから大切なものは流れていかないのだということだろうか。
当時からずっとあいまいでいる。
ギターの鋭音が感情を突き抜ける。


※※※※※※

知り合いの女医さんがこれ面白いよと禁忌の子という小説を借してくれた。いくつか読みかけの本があってそちらも気になるけれどこちらも気になる。気になることは多いけれど、時間が経てば薄れてしまう。やっぱり大したことでなかったのだとあとからわかって理解して、それが嬉しくさらにむなしい。
本当に狂ってしまったのか、フリをしているだけなのか、そんなような閉じれない夏さえそのままにすべてを委ねたいと思う。
お元気さまで。ではご機嫌よう。

投稿しないつもりで書けました。
読んで頂きありがとうございました⭐︎

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